目玉
王都の北側、緩やかな丘の上に、その館はあった。
《王都貴族文化振興協会》という仰々しい名を掲げながら、実態は金持ちたちの秘密の遊戯場——そう、父が口を歪めていたのを、私は覚えている。
今はその父も母もいない。
私は今日、ヴァレンシュタイン家当主として、ここに名を連ねた。
案内された広間は天井が高く、壁は金箔と彫刻で飾られていた。シャンデリアの灯りが揺れ、足元には絨毯。空気には香水とワインの匂い、そして誰かの笑い声。
どこもかしこも美しく、整っていて、滑らかだった。なのに私は、ひどく居心地が悪かった。
視線がいくつも刺さった。
「今年の当主は娘だそうね」「あの名門も、ずいぶん寂しくなったわ」
会話の端々に聞こえる言葉に、私は顔を歪めることすらしなかった。
テーブルの上には、今夜の出品リストが並んでいる。
翡翠細工の懐中時計。魔物の牙で作られたワイングラス。飛べない翼を持つ剥製鳥。
——そして、最後の行に書かれた一文。
《最終出品物:非公開。会場内にてご案内いたします》
他言無用、との前情報通りだった。
私は深く息を吐き、用意された椅子に腰掛けた。もうすぐ始まる。
司会者は黒衣を纏った男だった。仮面越しの声は滑らかで、どこか芝居がかっている。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます。さあ、今年も皆さまの“お目が高い”ところを拝見できますこと、楽しみにしております」
会場が柔らかな笑いに包まれる。誰もがこの空間に酔っていた。
時計、剣、陶器、絵画。次々と物が持ち込まれ、金が飛び交い、男たちが競り合い、女たちが口元を布で押さえて微笑んでいた。
私は沈黙して、それらを見ていた。
見て、考えていた。
——私は、ここにいていいのか?
ヴァレンシュタインの名のもとに、私はこの場に座っている。けれど、ここで行われていることすべてが、どこか違う。まるで、自分が違う皮膚を着せられているような感覚。
「さて——」
その声で、場が静まった。
「お待たせいたしました。本日の目玉商品でございます」
カーテンの向こうから、誰かが運び出されてくる。
運搬台車に縛り付けられた椅子。それに座らされた、小さな人影。
それは——少女だった。
破れた白のドレス、裾に泥。裸足の足首には重たい鎖が巻かれていた。
だが、それらすべての“痛ましさ”を超えて、彼女には——言葉を失うほどの美しさがあった。
白い陶器のような肌。儚げな、けれどまるで光をまとったような金色の髪。
まつ毛の影から覗いた瞳は、見たことのない蒼——
まるで、雲一つない夏空を切り取ったような、透き通った蒼天の色だった。
その色を見た瞬間、胸の奥に痛みが走った。
背筋がひやりと冷たくなり、言葉が喉の奥で凍りつく。
この場所に、この子は、あまりにも似合わない。
こんなところにいていいはずがない。
息をするのも忘れて、ただ、見つめていた。
会場がざわついた。
「……あれ、蒼い目じゃないか?」
「見間違いか? この国に、そんな色……」
「いや、まさか。神話だろ、あれは。“空の目を持つ民は、天に還った”って」
「“空の瞳は神の遣い”。昔の言い伝えさ」
「でも本物だとしたら、なぜこんな場所に?」
「これぞ“唯一無二”というにふさわしいお品でございます」
司会者の声が耳に入ってこなかった。
「蒼穹の瞳」「神話の血筋では」「本物か?」
そんな囁きが飛び交う。だが誰も、彼女に“人間”としての名を呼ぶ者はいない。
「では、入札を開始いたします。初期価格は金貨百枚より——」
——あ、と思った。
理解できなかった。
なぜこんなにも自然に、この子に“値段”がつけられようとしているのか。
誰も疑問に思わない空気が、恐ろしかった。
何かが壊れる音がした。いや、音などなかった。
ただ、私の中で何かが、決定的に断ち切れた。
この子に、値段をつける?
この、美しい蒼の瞳に?
“百枚”“百五十”“二百”——人間の少女に?
意味がわからない。どうして、どうしてこの子が“競り”にかけられてるの?
気づけば、手が震えていた。
「金貨二百五十枚を提示された方が——」
「三百」
私は静かに告げた。怒鳴らなくても、声は十分に通った。
一瞬、空気が揺れる。
「三百五十」
どこかの席から、落ち着いた男の声が上がった。
「四百」
私はすぐに重ねた。間を与えなかった。
「四百二十」
「四百五十」
次々に数字が飛ぶ。誰もが、あの少女を“特別な品”として見ている。
けれど、私の目に映っているのは、あの細い肩と、震える指先だけだった。
彼らにとっては珍しい“逸品”かもしれない。
でも私にとっては違う。
この子は——人間だ。
「五百」
ザワリと、場が揺れた。
それは高すぎる、とでも言いたげに、いくつかの囁きが漏れた。
だが私は構わなかった。
「五百十」
なおも食い下がる声があった。
「この子に、これ以上“値段”で自分を測らせないで。
連れて帰るのは、私です」
静寂が落ちた。
私は立ち尽くしていた。心臓の音が、耳の奥で鳴り続けていた。
少女はまだ、目を閉じていた。
でも、ほんの一瞬——その指先が、私の方へ向けて、かすかに震えた気がした。