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閉じた瞳の国  作者: 澄吹
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静かなる怒り

 ヴァレンシュタイン家の居城から、貴族会議の開かれる王都の議事堂までは、馬車で三十分とかからない。


だが私は、この短い移動時間を、いつだって憂鬱な沈黙の中で過ごすことになる。


「本日も、お気をつけて」


出発前、老執事のグレゴールが深々と頭を下げた。彼の口調はいつも丁寧で変わらない。けれど、その目に浮かぶのは、確かに憐れみに近いものだった。


——気にしなくていいわ。私はもう慣れている。


あの日から、彼はずっとこんなふうに私を見ている。


父と母が事故で亡くなってから、まだ一年も経っていない。王都からの帰路、馬車が崖下へ転落したという報せが届いたのは、晴れた日の朝だった。詳しい原因は不明のまま、真実は土に埋もれた。

以来、私はひとりこの城に残され、父の席に座り、母の衣装を着て、彼らの代わりを果たそうとしている。


馬車の中には、馬蹄と車輪の音だけが響いていた。侍女たちですら気を遣って口を閉ざす沈黙が、時折、私の心の輪郭をなぞってくる。声を出すのが怖いわけじゃない。ただ、この静けさが、真実を映す鏡のようで——息苦しかった。


外の景色は、いつも通り整っていた。舗装された石畳の道、街路樹の並ぶ大通り、揃いの制服に身を包んだ衛兵たち。誰もが礼儀正しく、秩序の中に暮らしているように見える。


でもそれは、よく磨かれた仮面だ。

中身は空っぽで、どこかがひどく腐っている。私はもう、それを知らないふりはできなかった。


議事堂に着くと、扉の向こうには変わらぬ顔ぶれが揃っていた。威圧的な老侯爵、香水の匂いを振りまく未亡人、酒気を帯びた赤ら顔の伯爵と、彼の後ろで縮こまる従者たち。


「……また娘か」

「若すぎるな、代弁者を立てた方が賢明ではないか」


声には出さないが、目が語っていた。

彼らにとって、私は『公爵の娘』ではなく、『公爵の代わりの娘』でしかなかった。


……父がここにいた頃は、誰もこんなふうに見下した目を向けなかった。

私の中の小さな声が、そう囁く。けれどもう、その背中はどこにもない。私は、自分の足で立つしかないのだ。


議題は、王都の祝賀行事における貴族席の配置だった。


「昨年の式典では、我がグランテール家が第三列中央でしたが……」

「いや、うちは王族の縁戚だから第二列でなければ……」


それはまるで、幼い子どもたちが“誰が一番前に座るか”を競っているような会話だった。

 

私は、花瓶に差された飾り花のようだった。ただそこにあるだけで、何の香りも、色も放たずに。


こんな会議に、何の意味があるのだろう。

法律を定めるわけでも、民を導くわけでもない。

ただ、地位と面子の高さを張り合うだけの、虚しい場。


けれど出席を拒めば、“公爵家の怠慢”として笑われる。

その重みを、私は理解していた。

父も、母も、私を守る盾として、その重圧に耐えていたのだろう。


議会が終わったころには、私はすっかり疲れ果てていた。

無意味な言葉の応酬と、見下すような視線に晒され続けた数時間。

肩は重く、呼吸も浅い。なのに、誰にそれを吐き出すこともできない。


馬車に揺られながら、私は無言のまま、窓の外に視線を投げた。

何を考えるでもなく、石畳の道を、ぼんやりと目で追っていた。

整った景色の向こう側で、何かが微かに引っかかった。……何?


次の瞬間、視界の端に、不自然な人だかりが映り込んだ。


人だかり。ざわめき。檻。


それは、奴隷商だった。


錆びた鉄格子の檻の中に、少女たちが押し込められている。

一人は、まだ十にも満たないような小さな身体だった。

頬には泥がこびりつき、口元には乾いた血。目は虚ろで、まるで魂が抜けてしまったようだった。


その手が、格子の隙間からわずかに伸ばされていた。助けを求めるでもなく、ただ、風に吹かれる葉のように、小さく揺れていた。


「安いよ、健やかでおとなしい子だよ! 銀貨五十枚! 誰か買ってやって!」


声だけは明るかった。

まるで野菜を売るように、彼は命を売っていた。


通りすがる人々の無関心。

「あんなのはどれも同じさ」

「最近の奴隷は面倒ばかりでな」

誰かがそんな言葉を吐き、笑った。


私はそのすべてを、馬車の窓から見ていた。

怒りではなかった。悲しみでもなかった。

それは……強烈な、圧倒的な、無力感だった。


あの頃は、世界はもっと穏やかに見えた。

父と母がいて、私はただ笑っていればよかった。

けれど今の私は——人ひとり助けることすら、できない。


この国では、奴隷は“人”ではない。

そう、法律が定めたのだ。

貴族の子として生まれた私も、知らず知らずそのルールに慣れ親しんできた。


でも——


でも私は、あの少女の目に、“人間の絶望”を見た。

痛みを訴えることすら諦めた、乾いた瞳。


私は彼女を助ける力を持っていた。

けれど、それを“使う覚悟”を持っていなかった。

力があっても、踏み出せなければ何も変えられない。

それが、何よりも情けなかった。


暗い気持ちのまま帰路につくと、屋敷ではさらに気の重くなるようなものが私を待っていた。


グレゴールが一通の封筒を差し出した。


「公爵様が毎年ご出席されていた“例の催し”でございます。今年は、リディア様のお名前で……」


私は黙って封筒を受け取った。

金の封蝋には、仮面と秤の紋章が刻まれている。仮面は無表情に微笑んでいた。何も知らぬ者の無垢か、それとも欺瞞の象徴か。


《王都貴族文化振興協会・年次特別交換会》

——名目は美しい。だが、その実態は“金持ちの道楽”だと聞く。

珍品、幻獣の剥製、伝説の工芸品。

一部では「倫理に触れるもの」すら出品されたと噂されていたが、私は深く考えないようにしていた。


「目玉商品については、当日のお楽しみとのことです。他言無用、だそうです」


グレゴールの口調は淡々としていたが、目はどこか悲しげだった。


私は封筒をそっと机に置いた。

封蝋に触れた指先が、微かに震えていた。私はもう、気づいてしまったから。


この国の“歪み”は、ずっと前からそこにあった。

けれど誰も、見ようとしなかった。

私も、そうだった。父の背中に隠れて、ただの“令嬢”であろうとしていた。


けれど——


明日、私はその場所に行く。

見て、聞いて、知る。

そして、たとえ何も変えられなくても——

私はもう、何も知らなかった頃の私には戻れなくなるのだろう。

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