時の流れと大学生達
ある午後、山手線に乗っていた僕は、車内の一角に集まっている大学生のグループを目にした。
深夜、池袋から乗ってきた3人組。
僕はスマートフォンで見ていたスタンド・バイ・ミーを一旦閉じて少し観察することにした。
彼らは、笑顔と活気に満ち溢れ、まるで世界を手に入れたかのように見えた。彼らの笑い声は、電車の静けさを破り、その音が僕の心に懐かしい響きをもたらした。
その大学生たちは、カジュアルな服装で身を包み、リュックサックを背負っていた。彼らはスマートフォンを手に、何か面白い動画や写真を見せ合いながら、楽しそうに話していた。彼らの目は輝いており、未来への期待と夢に満ちているように見えた。
僕はふと、自分が大学生だった頃を思い出した。
その頃もまた、友人たちと共に同じような電車に乗り、未来の無限の可能性を感じていた。
電車に乗るのももったいないときは自転車でひたすらどこか行ったっけ。
あの頃は、未来がどんな形をしているのか分からなかったが、その未知なる世界に飛び込むことに興奮していた。
しかし今、無職となり、山手線の環の中で日々を過ごす僕にとって、その輝かしい時代は遠い過去のものだ。
そしてその過去との距離も、毎日目が覚める毎にどんどん大きくなっている。
そのうち思い出せなくなるのだろうか。
大学を卒業し、社会人としての生活が始まると同時に、現実の厳しさと責任が重くのしかかってきた。かつての夢や希望は、日々の忙しさの中で薄れていった。
大学時代の思い出を思い出すことにした。
理系の大学でレポート作成に明け暮れていたあの頃。
ファミレスや図書館、友達の家でみんなでレポートを書いたこともあった。
蛍雪の功とか言って自販機の明かりを使ってレポートを書いたこともあった。
みんなで400円のチキン南蛮定食をいつも食べた。
肝試しをしに怪しいトンネルに夜な夜な行ってみて、結局何もなかった。
秋の夜長、非常階段や河川敷で寝転びながら流れ星を見た。
唐突に小さな町にある天文台に行きたくなって、知り合いと夜な夜な自転車を漕いだ。
図書館の横で雪合戦をした。
ビアガーデンやフードフェスティバルに当日誘って色々みんなで食べた。
長期休暇のときは東南アジアに旅行に行って現地で友達を作った。
近くに仲の良い人が住んでる。
そして彼らを呼べばすぐに人が集まって時間を共有できる。
とても尊いことだった。
そういえば思い出が沢山ある。
そして、そのときは何も思っていなかったが、確かに青春だった。
青春ってずるい。
青春はその時気付くよりも、後から振り返ってあれは青春だったと気付く事が多い。
そして、その青春は二度と再現できない。
今はどうだろうか。
会いたくても、イベントを計画しても人は集まらない。
みんな各地方に住んでいる。
会えたとしても東京のカフェで話して帰る位だ。
1日を一緒に過ごせる友達も減ってきた。
大学の時に得るものが多すぎたのかもしれない。
電車が次の駅に停まると、大学生たちは一斉に立ち上がり、降りて行った。
彼らは未来のことをどう考えているのだろうか。
何故か永遠に続くモラトリアムのように思えるが、そうではない。
僕は再び窓の外に目を向けた。東京の街並みが流れていく。
その景色の中で、僕自身もまた、過去の記憶と向き合い、未来への新たな希望を見出そうとしているのだ。
大学生たちの姿は、僕にとって忘れかけていた自分の一部を思い出させてくれた。
今話している人もいつか話さなくなる時が来るかもしれない。
実はあの時が全員が集まった最後の瞬間だったとか。
そんないつか到来する先のことが大学生の時は全く予想できてなかった。
そんなことを思いながらスタンド・バイ・ミーの続きを見ることにした。