山手線の囚われ人
東京の綺羅びやかな夜。
それとは裏腹に山手線の車内は静寂に包まれている。
加速と減速を繰り返す山手線の電子的な音と線路の音がより際立っている。
人は多いが、静かに皆手元のスマートフォンを覗いている。
「日本って飲食店はうるさいのに電車の中は静かだよね。とても不思議。」
そう生き生きと話すアメリカ人の知り合いを思い出す。
そのチョコレートのような板切れに皆が視線を移す風景は異様そのものだ。
終電が近づくこの時間帯、喧騒の都も一瞬だけ息を潜める。
僕は、その静寂の中に身を委ねるようにして、シートに体を沈めていた。
「このシートはウレタン製かなぁ」
メーカー勤務だったが故の職業病のような感想がどうしても湧き出てしまう。
山手線という空間をもはや生活するもう一つの住居として僕は間借りしている。
そして、何故か家にいるときよりも何かしようとしてしまう。
具体的には、家にいるときよりも何故か読書が進む。
僕は目の前のスマートフォンの電源を入れ、トーマス・マンの魔の山をゆっくり読み進めた。
今や無職の身で、この鉄道の環の中で生活し本や映画等の芸術作品を味わっている。
ただただ家にいたくない。
その思いが募る中、こうして日々山手線の透明人間になっている。
トゥルーマン・ショーのように一人の人生をみんなが追っかけることはない。
誰からも僕の人生は感知されていない。
この山手線という空間では。
山手線は、東京の心臓部を巡る緑色の輪。
昼間は無数の人々を運び、夜は静かにその役目を終える。
車窓の外に広がる夜景は、やはり過去の栄光と今の孤独を映し出す鏡のようだった。
「残業の光。」
この景色の中に無数の人がいてそれぞれの人生を生きている。
そうやって嘲笑することもできるが、社会を経験するとそうも言ってはいられなくなる。
そして、大部分がお互い話すことなく一生を終える。
とても不思議だ。
改めて東京だけでも沢山の人が暮らしている事実を再認識している。
退職後の無力感と孤独感が僕を蝕み、家に帰らず山手線の車内で日々を過ごすようになった。
家に帰るのはどうしても横になりたいときや洗濯をするときだ。
家にいても落ち着かず、ベランダに佇んでコーヒーを飲んだりしているときが多い。
乗客が減り、車内が静寂に包まれる夜の時間が、僕にとって唯一の安らぎの瞬間となった。
僕は、都会の迷宮をさまよう亡霊のように、ただ静かにその環の中を漂い続けていた。
ある夜、渋谷駅で降りた僕は、いつものようにセンター街へと向かった。
深夜帯ということもあって店は閉まっているが人はまだまだ歩いている。
社会人だった数ヶ月前、週末に遊びに来る渋谷は非日常の代表格だった。
至る所に点在している音声付き広告ディスプレイはこの国が衰退国家であることを忘れさせてくれる。
人々の笑い声、車の音、そして都会のざわめきが、僕の心に微かな共鳴を起こした。
沢山の人が既に閉店した店の前で屯している。
そうして鉄道高架を抜け、宮下パークへと向かった。
「今日はここで夜を明かすことにしよう。」
午前1時半だというのに道路には生活リズムが全く想像できない集団で溢れかえっていた。
謎の外国人集団と日本人の集団が入り乱れて路上飲みしている。
貴重品は既に駅のコインロッカーに預けてある。
ゆっくりと宮下パークの近くに座り込む。
そうして午前4時過ぎまで過ごすとコインロッカーから荷物を回収し、駅のトイレで歯磨きをした。
「おはようございます。」
と高らかに唱える男声の構内放送は何故か無職の立場だと清々しく聞こえる。
到底無職の私に対して言っているとは思えないが。
ただ、こうして都区内パスを購入するだけで入れる施設はありがたい。
資格も試験も面接も上司に詰められることなく存在することが出来る駅や電車は一種の休憩所だった。
人生の休憩所だ。
ただ一つ確かなことは、この山手線の環の中で、自分の居場所を見つけようとする旅が続いているということだけだった。
僕の毎日は、駅のホームでの一時的な休息と、車内での短い眠りの繰り返しだった。
夜が明けると、僕はまた次の駅へと向かい、そこで新たな一日を始める。
その日々は単調でありながらも、何かしらの意味を持っているように感じられた。
そうして山手線の輪をくぐり抜け、通勤時間になる少し前に池袋駅を降りた。
横断歩道を渡るとすぐに見えてくるレトロな喫茶店に立ち寄った。
カフェの中には温かい灯りが灯り、地元のおばちゃん達が仲良く話していた。
昭和レトロ。
それを体現するような純喫茶は存在そのものが癒やしだった。
僕は池袋を見渡せる席に座り、一杯のコーヒーとトーストを含むモーニングメニューを注文した。
景色が堪能できる大きな窓。
その空間の切れ込みは確かに存在していた。
改めて先月まで働いていた白黒に近い無機質なオフィスとは違っていると感じた。
池袋の交差点は今日も多くの人が行き交っている。
どこからみんな来ているのだろうか。
そんなことを今日も考える。
店員さんは僕の疲れ切った様子に気付き、優しく声をかけた。
「お疲れ様です。モーニングのBセットはトーストは食べ放題ですよ。」
ふと心が軽くなるのを感じた。
僕はにこやかに無言で首を振り、ただ静かにコーヒーを飲み続けた。
その挽きたてのコーヒー香りが、僕の心に微かな癒しをもたらした。
そしてプルースト効果のごとく社会人時代に行ったカフェ達を思い出す。
小麦の味わいが感じられるトーストのお代わりを所望し、急ぎ足で店員さんが持ってきてくれた。
隣の席のおばちゃんが「私もお願いします!」とにこやかに言っていた。
店員さんも笑顔で対応する。
それを横目に黙々と朝食を食べる。
ゆで卵を食べながら外側の観点から俯瞰し、偉そうに池袋駅を行き交う人々を眺めた。
こしあんとバターで小倉トースト仕立てるこのゆっくりとした時間もわりと久々な感じがする。
食べ終わるとお会計をして下の階のパン屋に行った。
僕を出迎えてくれたのはかわいいケーキとパン達だった。
小さいハート型のチョコレートが載ったブラウンのケーキ。
丸い形のマドレーヌ。
渦巻き型にいちご餡が入ったロールケーキ。
おしゃれというよりかわいい見た目のパンとケーキ達。
まるで芸術作品のよう。
まるでパン達が自分を引き取ってくれるのを待っているような。
このパンを考えているのはおじさんなのだろうか。
それとも女性だったのか。
見た目と開発者が一致しないこともよくあることだ。
おしゃれなキッチン、かわいいキャラクター。
実はおじさんが生み出している。
生み出した人は必ずいる。
くだらない思考が押し寄せてくる。
僕は辺りを見渡し、昔ながらのスイートブレッドとマドレーヌを購入した。
このレトロなカフェとパン屋はまるで生き物のようにこれから数十年は存在し続けるだろう。
そう考えると不思議なもので、一つの生き物のように感じる。
そうして人混みを避けながら駅へとまた歩いた。
「今日も人間やりますか」
ただ電車に揺られ散歩している人間。
生きているとは何なのか。
そんなことを考えながらテルマー湯に行き、服を着替えてまた1日をスタートさせた。
僕の旅はまだ終わらない。
ひたすら新宿、渋谷、池袋を散歩し以前からGoogle MAPでピンを付けていた店を消化していく。
朝はカフェや純喫茶でモーニング、昼は有名どころで昼ご飯。
夜ご飯はNEW DAYSのサンドイッチ。
申し訳程度に飲む野菜ジュース。
ノルマをこなすような不思議な時間。
あくまで山手線が中心だ。
ご飯を食べる以外はひたすら山手線に乗っている。
このモラトリアムも悪くはない。
恐らく山手線でほんとに生活する人なんて自分くらいだろう。
ただ、この生活を続けても貯金はびくともしない。
これがただハムスターが回し車で走り回るようにひたすら働いた自分への褒章なのかもしれない。
そうして今は山手線という回し車に揺られながら、人生は振り返っている。
これが日常なのか。非日常なのか。
この孤独な時間も人生を振り返る絶好の契機だ。
アルジャーノンに花束をでもそのような記述があったっけ。
孤独な時間を作り出し、そうして半強制的に人生を振り返る。
僕は約2ヶ月間の逃避行を続けることにした。