第56話 第一回探索『しのびよる影』
“初めての冒険”。
その響きからは未来への期待が見て取れるが、実際に第一歩を踏み出した際なにを思うかは各々で大きく異なる。
命懸けの舞台に身を投げ出す恐怖を実感したり、言葉の印象に違わず未来への期待を改めて抱いたりなど様々だ。
「ぅ……」
シュニーにとってのそれは、痛みと怖気だった。
堪えようとしていた声が、小さなうめきとなって吐き出される。
その原因が、今この瞬間踏み入った空間──“冬”だ。
視覚的な情報だけを見れば、シュニーを取り囲んでいるのはただの薄暗い森である。
雪が降り積もり、木々や草本が迷宮の如く生い茂る。
それは“冬”の影響がまだ薄い故郷であっても見られた光景だった。
だが今相対している場所は、目に見える部分以外全てが違う。
肌を刺すような、と喩えられる寒さが一段階増しただけではない。
まるで世界そのものから凝視されているような奇妙な気配があり、空気が薄まったと錯覚するような息苦しさが訴えかけてくる。
そんな、肉体と精神の双方を責め立てるような異質な空間が、今から挑もうとする危険地帯だった。
「キミたち……」
もしかしたら、出口が消え失せているのでは? ふたりが姿を消しているのでは?
ここは、時には空間が捻じ曲がるとも語られる異界だ。どんな事態が起ころうとも決して不思議ではない。
焦燥感と不安に押しつぶされそうで、シュニーは半ば反射的に背後を振り向く。
「わかっちゃいたつもりだったが……想像以上だな、こりゃ」
「このぴりぴりする感じ、久しぶりだねぇ」
まず耳で、次に目でふたりの無事を確認し、シュニーは安堵に息を付いた。
同じような空気を感じているのだろう。額から一筋の汗を流しながら「自分も同じことを考えていた」とシュニーの感情を察し言外に同意してくるラズワルド。
表情こそ普段と変わらないが、油断なく周囲に目を向けているマルシナ。
察するに、ラズワルドは“冬”に立ち入ったことがなく、マルシナは多少なりとも経験があるらしい。
「……“冬”とは、このようなものなのかい?」
ただ、シュニーにとってはふたりがどれだけ慣れているかについて、深く考えている余裕もない。
とにかく、なんでもいいから会話を繋げたかった。この異質な空間にひとりきりではないと実感できる材料が、ひとつでも多く欲しかった。
「もしかして、怖い?」
「まさか、そんな……」
その内心を的確に見抜いたマルシナに、シュニーはあっけに取られる。
半ば反射的に口を衝いたのは、誤魔化しの言葉だった。
「……いや。正直に言えばその通りだ」
強気を押し通すか、否か。
ほんの少しだけ思案した後、シュニーは己の感じるままを白状する。
「散々我儘を言ってキミたちと来たのに、後悔しているかもしれない。恐ろしくて仕方がない」
“冬”と直に相対した際の脅威。冒険の危険。シュニーにとって、それらは今まで書物を挟んでのみ得られていた知識だった。
だからこそ、初めてその空気を実感した際に怯えてしまう。
予想できていなかったわけではない。未知に直面した際には、尻込みしてしまうのが自分という人間だ。そうシュニーは自覚している。
「だったら──」
口を開いたラズワルドがなにを言いたいのか、シュニーにはすぐにわかった。
帰って大人しく待っていろ。
きっと、心配を乱暴な言葉で包んでそう勧めてくるのだろう。
「だが、ね」
そんな愛想のない友人からの提案を、シュニーは遮った。
たしかに、今の自分が『後悔』『恐怖』といった負の感情に苛まれているのは事実である。
「そんな有様なのに……どうしてか心が躍っているよ。不思議だね」
でも、それが全てではない。
体が氷で覆われるような冷たい恐怖と同時に、体の奥から熱いなにかがこんこんと湧き出してくるような、相反した感覚がある。
「だから、引き返すつもりはない。頼りにしているよ、ふたりとも」
その感覚を一言でまとめてしまえば、楽しい冒険への期待。細かく分解すれば、いくつもの言葉が出てくるに違いない。
ではそれは具体的に何なのか、と深堀りするのはやめにした。
代わりに、多少ぎこちなくとも笑ってみせる。
そうするのが、己自身に対しても付いてきてくれたふたりに対しても最良であるような気がしたのだ。
「そっか……領主殿、冒険者の才能があるかもね!」
「うん?」
唐突な賞賛に、シュニーは唖然とマルシナを見る。
きっとラズワルドは“仕方ねぇな”みたいになんだかんだ付き合ってくれて、マルシナは曇りなき笑顔で快諾してくれる。
そんな両者の反応を予想していたため、想定外に過ぎる反応だ。
「怯懦と勇気の両軸あってこその冒険者、だからね」
今の自分に、評価されるような部分があっただろうか?
疑問符を浮かべているシュニーに、マルシナは人差し指を立てて語り出す。
「怖がってばっかりじゃ前に進めなくなっちゃうし、だからってなにも怖がらずにいると、だめな時に進み過ぎちゃうから。前に進むのときちんと立ち止まって考えるの、両方なくちゃダメってこと!」
「それはたしかに……?」
要するに、バランス感覚が大事ということ。
引き際を誤れば危機に陥りかねず、そもそも前に踏み出さなければ何も始まらない。
言われてみれば当たり前の話なのかもしれないが、実際どちらかに偏ってしまう者はきっと多いのだろう。
その点では、少なくとも恐れながらも先に進もうとするシュニーは初心者中の初心者としては合格だったのかもしれない。
「話も聞かずにケンカ売ってきたヤツにしちゃ理知的すぎるな。もしかして受け売りか?」
「あれは領主殿が危なそうだったからしょうがないでしょー!? そ、それに受け売りじゃないよ! 師匠から教えてもらったのをそのまんま言っただけだし!」
「それを受け売りってんだよ」
忘れないよう心に留めておこう、と誓うシュニーの目の前では、皮肉げな態度のラズワルドと頬を膨らませたマルシナが和やかに言い争っている。
ふたりを見ながら、場違いな程にのんびりと思案する。
マルシナはどう足掻いても『きちんと立ち止まって考える』タイプではない。
ラズワルドは……どちらだろう? 考え込んで立ち止まりすぎる方? なんだかんだ自分と似ているところがあるから、そうかもしれない。
もしなにかを決める時に意見が割れたなら、この1対2で分かれるかも。そうなればこちらが有利だ。それが何回も続けば、マルシナが「ふたりばっかりずるい!」などと騒ぐのだろう。それで、仕方ないなぁと第三の道を話し合ったりするのだ。
「……ふふ」
そんなとりとめもないことを思い浮かべれば、不思議と恐怖心が和らぐ気がした。
「と、とにかくね! “自分はなにも怖くない! どんどん進むぞー!”って気持ちばっかりだと、今みたいに誰かに見られてても気付けないから! そうなるとすっごく危ないよねって話!」
「ふむ、確かにキミの言う通り……」
そして、直後。
「え゛? 見られてる?」
怯えと楽しみ、丁度いい具合にバランスが取れてきていたシュニーの心情は大きく前者に傾く。
口喧嘩で負けそうになって強引に話を締めようとしたのだろう。
露骨に早口なマルシナの発言内容には、看過できないものが含まれていた。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「言ってねぇよ! なんでテメェら揃いも揃って情報共有がなってねぇんだよ!?」
「ほんとにね!? このような話は最優先で報告したまえよ!」
逃げ腰になりながら周囲を見渡すシュニーに、槍を構えるラズワルド。
目を丸くしているマルシナに抗議しながらであったが、両者の反応は速かった。
「……そこか!」
ガサリ。
草木が擦れる音がしたのは、森の入り口から見て左前方。
三人の警戒態勢に、己の存在が露呈したとわかった視線の主が動いたのだろう。
「ぴぃっ!?」
ただでさえ張り詰めていた空気での不意打ちに、シュニーは驚いて飛び跳ねた。
封印すると誓っていた情けない悲鳴もセットだ。
「追いかけんぞ! 後から来い!」
え、とシュニーが疑問を挟む隙なくラズワルドが駆け出す。
草木を分ける音は、連続的かつ少しずつ小さくなっているようだった。
すなわち相手は逃走を図っており、その選択をしたなら相手がこちらより強大な存在である可能性は低い。気付かれたと動揺し音を立てた未熟からも、それが伺える。ならば放置して最悪の状況で奇襲を受けたり監視され続けるリスクを避けるため、今追って正体を突き止めた方がいい。
ラズワルドの即断が、どのような思考過程を経て行われたのか。
この短時間では、シュニーにはほとんど理解できていない。
リーダーとして求められる指揮をこなすには、その実戦経験は大きく不足していた。
「マルシナ! 警戒は頼むよ!」
故に、シュニーがあまり出遅れることなく駆け出せたのは、状況を即座に把握できる手練れだったからではない。
自分より遥かに強いとわかっているはずのラズワルドを、ひとり放り出してはおけなかった。
同時に、この場においては自分より遥かに頼れるだろう彼を、呼び止める真似などするまい。
心配と信頼。ごくごく単純な、私人として仲間に向けた感情からだ。
「まっかせて!」
わかりきった返答を待つことなく、シュニーは“冬”の森を走ってラズワルドの後を追う。
他の脅威を呼び寄せないよう足音を殺す余裕などなければ、木の根や小岩のようなちょっとした障害物にさえ足を取られそうになる。
今まで舗装された道ばかり歩いてきた身では、ラズワルドの姿を見失わないようにするのがやっとだった。
落とし穴や鋭利な切片のような、雪に埋もれた自然の罠を気にしている暇もない。
「む……見失ってしまったかい?」
全身全霊を振り絞ったひと時は、幸いにも体力が尽きる前に終わった。
疲労からシュニーの足が鈍り始めたその時、ラズワルドが唐突に立ち止まる。
振りむいたラズワルドに、命懸けの闘争、と表現できるような激しさはない。むしろ、どこか所在なさげな姿からは困惑や動揺のような感情が伺える。
「いや……」
追いついたシュニーとマルシナに意見を求めるように、ラズワルドは一点を指さす。
一体なにがあったのだろう?
シュニーが指先を追えば、小さな木が分厚く密集した茂みがある。
いや、重要なのはそれそのものではない。
「……なんだと思う、これ」
「えぇ」
そこから、灰色の布を纏った人間の下半身が突き出ていた。
大きさから見るに、シュニーと大して年が変わらない子どものものだろうか。
灰色のボロ布から突き出た脚がじたばたと暴れているのを見るに、生きているのだろう。
じたばたともがくそれを眺めるラズワルドの表情は、彼の今の心情をこの上なく表していた。
これは一体なんの冗談なのだろうか。そうでなければ悪辣な“冬”の罠か。
逃げ出し、隠れようと慌てて茂みに飛び込んだが体が引っかかった。
そんな間の抜けた可能性については考慮の外だ。
今自分たちが立っているのは人類を蝕む厄災、“冬”の内部であるという事実を考えれば、油断などできようはずもない。
「んー、とりあえず助けよっか!」
一方のマルシナは、ラズワルドとは真逆だった。
かくれんぼの失敗例を思わせる目の前の有様へと駆け寄り、脚を抑え腰を掴む。
捕まったことを認識した脚はひときわ強く暴れようとしたが、マルシナに力負けしているようだった。
「じゃあ一気に引っこ抜くからね! 目はつむって、痛いのは我慢してね!」
「待て待て、なんかの罠だったらどうすんだよ」
「……??」
目の前で繰り広げられる謎の状況に、シュニーは混乱する寸前だ。
茂みから生えている謎の脚に、それを掴んで力を込めようとしているマルシナ。
恐らく今後の人生でもう一度見ることはないだろう光景である。いや、熱を出した時に夢で出てくるかもしれないが。
「……いや。いやいやいや」
しかし、シュニーの思考が乱れている一番の要因はそこではない。
「あらりょーじはケガのもと。てきせつなしょちを求む」
マルシナの荒々しい対処に暴れる脚の主に覚えがあったのだ。
いやいやそんなまさかという可能性が、茂み越しのマイペースな声で半ば確信めいたものに変わる。
「……安心したまえラズワルド、危険はない」
「あん?」
当然のように疑念を向けてくるラズワルドに、その気持ちはよくわかると遠い目で頷く。
「それと、もうちょっと優しく助けてあげ──あっ」
「ほえ?」
そして一切の躊躇がないマルシナへ頼むには遅かった。
シュニーの気遣い虚しく、茂みから力任せに体が引き抜かれる。
草木が擦れて軋む派手な音からして、おそらく無事では済むまい。
「……えっと、うん。紹介しよう。ボクの──」
すっぽ抜けた勢いあまり地面にべちゃりと叩き付けられたのは、ひとりの少女だった。
上半身が怪物であるとか、なにかの罠が起動したとかの危険物ではない。
その点では、懸念していたような問題はない。
「────知人、だ。今のところは」
ただ、銀の髪と眠たげな赤の瞳は、約一名にとってある種の非常事態である。
たっぷり悩み、結局無難な関係性の説明に落ち着くシュニー。
想定外の場所での想定外の再会に、いったいどんな表情をしていいのかわからなかった。




