皇帝不在のローマ 第6話
熱は下がったんですが、咳が止まりません。あまりにも酷く咳き込むので喉から血も出てしまい、吐血したのでは!?と一瞬焦りました。つまり何が言いたいかというと、助けて。
仮眠を取り、食事も済ませて夜通し仕事をする準備ができた私はウァレリウスの家に来た。日は沈み、辺りは真っ暗。もうそろそろウァレリウスが出かけてもおかしくない時間だ。私は家からウァレリウスが出てくるのを、少し離れた茂みの陰から今か今かと待っている。
……寒い。もう片足は冬に入っている今の時期、日が沈むと気温が急に下がる。肩から足先までを覆う外套に着替えたはいいが、その中に着込んでいるのが7部丈ではそこまで意味をなさない。
寒さに震えながら待っていると玄関口が開いた。そして男が1人出てきた。なぜだろうか、遠目からでも尊大で傲慢な性格なのがわかってしまう。動きのせいだろうか?
ウァレリウスと思われる男は馬車に乗り込むと、御者にとんでもない速度で馬車を飛ばさせて、すぐに見えなくなってしまった。
それを見て思わず呟く。
「傲慢でワガママで短気なクズね……わかる気がするよリニキアヌス」
さて、ウァレリウスはいなくなった。早速家にお邪魔させてもらおう。
私は扉をノックする。中からは疲れ切った表情の青年が出てきた。相当ストレスが溜まっているのか、まだ若いというのに髪からはツヤが消えて、半世紀を生きた元軍人と似た髪質になっている。
私は自分の髪を触りながらそう思った。
「どなたでしょうか?」
「私はブッルスと言ってウァレリウス君の同僚でね。ちょっと用があるんだけど」
「あぁ……すみません。主人は今、出かけております。帰るのはおそらく夜中かと」
「あぁ〜また飲みに行ってるな〜。じゃあ書記官のパウルス君……だっけ?その子でもいいんだけど」
「えっと、パウルスは僕ですけど……」
「君か!」
しめた!この子がパウルス君か。まさかウァレリウスとアグリッピナ様を告発したのが20歳になるかならないかの子だとは、想像していなかった。
不信の眼で見てくるパウルス君に、私は耳打ちする。
「私はセネカさんの友人でね、君のこともウァレリウスの事もぜんぶポンポニアヌスさんから聞いてるんだ」
それを聞いたパウルス君は不意を突かれた表情のまま固まってしまった。やがてその表情はだんだんと柔らかくなっていき、拳を胸の前で硬く握った。
「さあどうぞ、中へお入りください。外は……冷えますからね」
「あぁ〜助かる。もう寒くて寒くて」
パウルス君は他の使用人にできるだけ見られないように私を家に入れ、自分の部屋まで案内してくれた。
彼の部屋は机の上以外はとてもシンプルで、必要最低限のものだけが置いてある。そのため非常に綺麗に片付いている。だが机の上だけは大量の紙が山積みになっている。
部屋が綺麗で机だけ汚いのはセネカさんも同じだが、文字を書く仕事が多い人は全員こうなのだろうか。
「机、散らかってましたね。すみません」
私の目線が紙の束に向いていたのに気づいてパウルス君はそう言った。
気を使わせてしまったら申し訳ないので、私は机から目を逸らす。
「あ……いたいや、いいんだよ全然。それよりも頼みがあるんだけどいいかな?」
「はい。なんでもおっしゃってください」
「君が見た暗殺計画書あるだろ?それが隣の物置部屋にあると思ってるんだ。だから物置部屋の鍵を持ってきてくれないか?あれが見つかればウァレリウスを逮捕できるんだ」
「わかりました持ってきます」
書記官というだけあってパウルス君は他の使用人より自由があるらしく、ものの数十秒で鍵を手に入れて戻ってきた。
さらにこの子は気が利いている。物置部屋は暗いからと言ってロウソクと燭台も持ってきてくれた。
「助かる。それとついでにお願いしたいんだけど、ウァレリウスが帰ってきたら教えてくれないか?」
「わかりました」
パウルス君から受け取った鍵を物置部屋の扉に差し込み、右に回す。カチャンと音がして鍵が開いた。
最後にパウルス君の顔を見る。パウルスは軽く頷いた。
私も頷き返して部屋の中に入る。
物置部屋はその名の通り物が溢れかえっていた。収容用の棚もないわけではないが、とうの昔に満杯になってしまったようで、新しくこの部屋に入ってきた物達は床の上に置かれるようになったようだ。
もはや物置というより投棄場だ。それゆえに都合の悪いものを隠すにもうってつけだ。
さて、どこから探そうか……これは骨が折れそうだ。
私は灯りを置いて作業を始めた。
思った通り、これは骨が折れる。
部屋を隅々まで探すためにはやはり物をどかす必要があるが、後々ウァレリウスに怪しまれないためにそれをまた戻さなければならない。さらにもうひとつ、私には右腕が動かないという重大なハンデがあった。そのハンデが思ったより時間を取る原因になっている。
もう探し始めてかなりの時間が経ったように感じる。部屋の右半分ほどは探し終えたが、それらしい物は見当たらなかった。それどころか紙切れ1枚すら見つからない。あともう半分か……気が重い。
大きくため息を吐いて部屋のもう半分を探そうとした時、扉が少しだけ開いてパウルス君が呼びかけた。
「ブッルスさん!主人が帰ってきました!早く出て!」
「おっと……まずい」
私は急いで部屋を出る。出たと同時にパウルス君が扉を閉めて素早く鍵をかけた。
「ブッルスさんこっちです!僕の部屋に隠れててください!」
パウルス君は私がウァレリウスと対面しないように背中をグイグイ押して、私を部屋の中に入れようとしてくる。
でもせっかく容疑者と会える機会だ。できれば会っておきたい。
「君には迷惑かけないからウァレリウスと合わせてくれないかな?」
「え!?いや、でも……怪しまれません?」
「大丈夫。まあ任せて」
パウルス君は不満げな表情を浮かべた。
「おぉい!誰かいないのか!」
なんだ今のとてつもない大声は?
パウルス君も驚いて硬直してしまったぞ。
「今のは!?」
「主人の声です……でもこんなに大声出すことは滅多にありません。今日は不機嫌みたいです」
機嫌の問題?私はどれだけ不機嫌でもあんな大声は出ないのだが……声は枯れないの?
「早く来いパウルス!何のために高い金払ってると思ってんだ!」
「は、はいご主人様!ただいま参ります!」
パウルス君は大声のする玄関の方へ向かった。
パウルス君ひとりだと何をされるかわからない。わたしもパウルス君のあとをおって玄関に行く。
案の定、一足先に着いたパウルス君が頬を掴まれている。
「呼んだらさっさと来い!いつまで待たせる気だ!」
「あ、えっと、すみません……」
ウァレリウスは私に気づいていない。
私は咳払いをして、ウァレリウスに存在をアピールする。
「ウァレリウスさん。もうそのあたりで勘弁してあげてください。私が引き留めてしまったんです。その子に非はありません」
ウァレリウスは私の存在に気付くと苦い顔をして、パウルス君を解放した。
「パウルス。馬車から積み荷をおろしておけ」
「は、はい」
パウルス君は去り際に、ウァレリウスから見えない位置で親指を立てた。
「いやな姿を見られてしまいましたね。客人がいるとはしらなかったもので。ですが使用人のしつけも必要なことなんです」
「お気持ち察します」
ここはとりあえず同調しておこう。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
なるほど。人前ではいい顔をしているとは聞いていたが、予想をはるかに上回る豹変っぷりだ。これなら本性がアレで友達が多いのも納得がいく。
私も前もって本性を知らなかったら危なかったかもしれない。
「こんな夜分遅くにどういったご用件ですか?」
「私はセネカの遣いでして、伝言を預かっております。『現在会計士の不足に悩まされております。貴殿の知人に優秀な会計能力を持った者がいれば、推薦していただけるとありがたいです』とのことです」
「セネカ……なるほど。わかりました」
ウァレリウスはパチンと指を鳴らした。
「お受けいただけるということですね?」
「ええ。それもそうですが、あなたの顔です。わかったんですよ」
「私の顔?」
「あなたブッルスさんでしょう?見たことある顔だとは思ってたんですが、セネカさんの名前が出て思い出しましたよ。いつもあの人と一緒にいるから」
「あはは……彼とは親友ですから。私が一方的にそう思っているだけかもしれませんがね」
おっと……顔を知られていたか。これは面倒なことになる前に退散した方が良さそうだ。
でも明日もう一度潜入できたとして、またあの部屋で探すのは気が重い。いっそ計画書のありかを教えてもらった方がいいかもしれない。そうだ!そうしよう。
「あぁそうだ、忘れてた。実はもうひとつお願いがあるんですよウァレリウスさん。計画書を見せていただくことはできませんかね?」
「なんですって!?け、計画書!?何のですか?」
「暗殺の計画書……」
「一体何のことですか!?」
「冗談ですよ。近々別荘を建てたいと思っていまして、その間取りを考えていましてね。この家は素晴らしいので、是非参考にしたいんです。まだこの家の建築計画書は持っていらっしゃるんでしょう?」
「……いえ、お恥ずかしい話ですが設計図は無くしてしまったんです」
「計画書を無くしてしまった?それは残念です。あぁ、もうこんな時間ですか。本当はまだ話していたいのですが、帰りが遅いと妻が悲しむので、この辺りで失礼します」
「……そうですか。それは引き止めるわけにもいきませんね。妻は大切にしなければなりませんから」
私はウァレリウスとお互いに軽く会釈をしてから家を出た。私はあえて計画書のことを口にしたことで、奴は今不安になっているはずだ。また、計画書の安否を確認するはず。その瞬間を見れば計画書を探す必要もなくなる。
今日の私ここ3年くらいで1番頭が冴えている。
家の前ではまだパウルス君が馬車から荷を下ろしている。
「手伝おうか?」
「い、いえ!お客様にそんなこと頼めませんよ!特にブッルスさんみたいに高貴な人には」
「いいんだよ。なにもタダで手伝おうってわけじゃないんだから。実はまた君の助けが欲しいんだ。私はあの茂みに一晩中隠れてるから、君のご主人があの物置部屋に入ったら教えて欲しい。できるかい?」
「わかりました!」
セブンのおでんって美味しいね