皇帝不在のローマ 第4話
今日の調査を打ち切り、軽く食事をしてから宮殿に戻った。外はだいぶ日が落ちていた。住み込みで働いている者は別として、この時間になるとほとんどの使用人も帰ってしまい、宮殿の廊下には自分の足音だけが響くようになる。
私は、得られた情報を共有するためセネカさんの部屋を訪ねた。
「ブッルスです。セネカさんいらっしゃいますか?」
「ブッルスか。入れ」
部屋の中ではセネカさんが大量の資料と向き合い、忙しなくペン先を動かしている姿があった。
セネカさんも宮殿に住んでいるわけではないから、もう帰ってしまったかもしれないと思ったが、どうも仕事が捗っていないようだ。
「残業ですか?」
「ん?あぁ、今日は徹夜だねコレは。いま属州の生産量やら税収やらを計算してるんだが……とても追いつかない。会計士が足りんよ」
「会計士が?先月まで多すぎるくらいいたのにですか?」
「彼らは全員、クラウディウス帝が個人的に雇っていた会計士だ。帝が亡くなられたら、その多くがやめていったよ」
「あぁー。大変ですね」
「まあな」
セネカさんは持っていたペンをペン立てに置き、こちらに向き直った。「さてと」と言ってパンと手を叩いて立ち上がった。
「せっかく君が来てくれたんだ。少し休憩するとしよう。それでどうだ?調査の方は。うまくいってるか?」
私は今日の調査で得られた情報をセネカさんに伝えた。もちろん、この情報を得るために少し費用がかかっていることも、その費用がセネカさんが支払うことになっていることも。
豊かな口髭の上からでもわかるほど神妙な面持ちだった。流石にセネカさんの金を勝手に使ったのはまずかったか、と思ったがすぐにいつもの優しい微笑みに戻り、口を開く。
「暗殺計画、止めなければならないね」
「無論です」
金のことで眉をひそめていたのではないらしい。安心した。この人は意外と資産に執着するから……
「それで、この後はどうする?」
「はい。どうやら暗殺の計画書と思われる物がウァレリウスの屋敷にあるようです。明日はウァレリウスの家の間取りを調べて、彼の家に潜入します。計画書が手に入れば言い逃れはできません。そうすれば共犯者も聞きだせるかと思います」
「わかった。頼りにしてるよブッルス」
「お任せください」
あまり長居してはセネカさんの仕事の邪魔をしてしまうので、私は部屋を出ることにした。しかしセネカさんの方が私を呼び止めた。
「そうだ。さっき知らせがあったんだが、ルキウスがメディオラヌムに着いたそうだ。2日ほど滞在するらしい」
「着いたんですか。よかった〜」
「君はルキウスのこととなると心配性になるね。ゲルマニアに行くのも最後まで反対して」
「仕方ないでしょう。ネロ様は私にとって息子みたいなものです。セネカさんは心配じゃないんですか?ゲルマニアなんて未だに蛮族の巣窟ですよ」
セネカさんは首を横に振った。
「私は心配してない。ルキウスは癇癪持ちではあるが、賢い子だ。それに、オクタウィアとの関係を改善するのは良いことだと思うよ。家族関係が原因で人生が狂う人間もそこそこいるからね」
「それはそうですけど……」
「それにこれからは本格的に皇帝としての責務が付き纏うようになる。その前に世界を見ておくのも悪くない。そう思わないかい?」
「……そうですね。そうかもしれません」
「だろ?さあ、わかったなら出てった出てった。仕事の邪魔だ」
セネカさんは私の背中をグイグイ押し、部屋の外に追い出した。自分で呼び止めておいて……こういう独りよがりな態度を初対面の人にも平気でとるから友達が少ないんですよ。口では言わないけど。
「それじゃおやすみブッルス。良い報告を期待してるよ」
「はい。おやすみなさいセネカさん」
セネカさんは私が「おやすみなさい」を言い終わる前に扉を閉めた。そういうところですよ本当に。
私はもう一度小声で「おやすみなさい」と言って自分の執務室に戻った。蝋燭に火もつけず、そのままベッドに入って目を閉じた。
※※※
朝になって、宮殿の廊下を行き交う足音で目覚めた。朝食を作るために使用人たちが続々やってくる時間、つまり日の出の時間だ。
私はまだ重いまぶたを無理矢理ひらき、部屋を出る。
まだ眠い。冷たい風に当たって目を覚ますとしよう。私はそのまま出かけられるよう、外套と少しの金を持って宮殿の裏手に回った。途中何人かの使用人と会って軽く挨拶をしたが、みんな早朝から元気いっぱいだった。すごいね。
さて、冷たい風に当たれば頭も冴えると思ったが、残念。今日は季節外れの暖かさだ。
仕方ない、散歩でもして目を覚そう。むしろそのままカエキナさんの家に行ってしまおう。
そんな軽い感じで歩き出したのはいいが、やっぱり歩きだと遠い。例の如くカエキナさんも郊外に一軒家を持っている人間だ。
ローマから南に6キロくらいだろうか。ポンポニアヌスさんほどではないが、近くはない。
太陽がまだ低い位置の時に出発したのに、到着した時には水平線からだいぶ距離ができていた。自分の馬が欲しい。
カエキナさんの邸宅はとても大きかった。ゲルマニア戦争で戦果を上げて、その報酬で建てた家なのだから、これくらいの大きさは当然と言える。
自慢じゃないが、私もカエキナさんが戦果を上げた戦いに参加していた。この家の中庭に相当する活躍だったと言っても過言じゃない……なんてね。
バカなこと考えてないで、さっさと用事を済ませよう。
私が玄関の扉をたたくと、中から出てきたのはネロ様と同じくらいの年齢だ。
ただこの子は珍しい病気か何かだろうか?この歳にして、もうすでに白髪だ。
「おじさん誰?」
私が少年を眺めていると、先に少年の方から質問してきた。
「あー……えっと、私はブッルスと言って、昔アウルス・カエキナ・セウェルスの部下だった者だよ」
「おじいちゃんの部下?それがなんの用?おじいちゃんならかなり前に死んだよ」
「そ、そうなんだ……」
40年前ですら若くはなかったから覚悟はしていた。連絡を取り合うほどの仲でもなかったが、やはり悲しいものだ。
しかしこの子は今、カエキナさんのことをおじいちゃんと呼んでいた。カエキナさんの孫なのか。
できればちゃんと話をしたいところだが、今日は他にやらなければならないことがある。私は本題に入った。
「でも今日は違うんだ。リニキアヌスって人に会いに来たんだけど、ここで働いてるよね?」
「いるけどさぁ……おじさん、うちの事に詳しすぎない?怪しいんだけど」
「じゃあプラエトリアニの長官だって言えば信用してくれる?」
「証拠は?」
私は羽織っていた外套を少年に見せる。ライオンの皮のマントはプラエトリアニだけが身につけられるので、すぐに信じてくれた。
リニキアヌスはキッチンにいるそうなので、私は少年に案内してもらうことにした。
玄関口からキッチンに至るまでの廊下には胸像や壺がずらりと並んでいる。
芸術を全く解さない私にも、これだけ集めるには相当な金がかかった事がわかる。
並べられている芸術品を眺めながら歩いていると、少年が立ち止まったのに気づかず、軽くぶつかってしまった。
「ここがキッチンだよ」
「ありがとう。えっと……カエキナ君って呼べば良いかな?」
「それだとお爺ちゃんと混同するでしょ。アルブスって呼んでよ。みんなそう呼んでるから」
「わかった。ありがとうアルブス君」
アルブス君にお礼を言い、私はキッチンのドアを開けた。そこでは5人の使用人達が鼻歌交じりに朝食の片付けをしていた。
……誰がリニキアヌスなんだ?
私は一度キッチンのドアを閉め、アルブス君に耳打ちする。
「ねえ、どの人がリニキアヌス?」
「1番背が高くて金髪の人だよ」
私はもう一度ドアを開ける。
あの人か。
1番背の高い男は、5人の中で最も手際よく、そして華麗に仕事をしていた。
「あ、ちょっといいかな?君がリニキアヌスだよね?」
「ん?あぁ、そうっすけど?なんか用っすか?」
こちらを振り返ったリニキアヌスの顔は、思っていたより若かった。話し方のせいか、軽薄そうな印象だ。
「君と話がしたいんだけど、時間あるかな?君の主人には許可をもらってるんだけど」
リニキアヌスは周りを見渡して、少し考えてから言う。
「ここを出て左の突き当たりに客人用の部屋があるんで、そこで待っててもらっていいっすか?5分で行くんで」
「時間とってもらって悪いね。すぐ済ませるよ」
私は言われた通り、客人用の部屋でリニキアヌスを待つことにした。




