嫌な予感
「んぅ……うぅ……」
オクタウィアがうなされる声で目が覚めた。
どうやら船酔いが思ったより酷いようだ。
カトゥス将軍との話し合いが終わって、俺が部屋に入ってきた時に比べれば、今はだいぶ良くなっているが、それでも辛そうだ。
額に手を当てるが、熱はないみたいだ。
「疲れたよな、ゆっくり休め」
そう呟いて、俺も寝ようとまぶたを閉じる。
だが……
ダメだ眠れない!
完全に目が覚めちまった。
しかもメッチャ喉乾いた。
仕方ない、水汲みに行くか。
俺はオクタウィアを起こさないように細心の注意を払ってベッドから出る。
その時だった。
床から黒い霧が出てきて、だんだんと人の形になっていく。
この無駄に大仰な演出、ハデスだ。
「やあネロ、元気だった?ごめんね、時間がなくてなかなか会いに来られなくて」
「別にいいよ、とくに会いたいわけでもねぇし」
「えぇ?ひどいよ!せっかく君のためになる情報を持ってきたのに」
ハデスはショックを受けたのか、目を丸くして、口は半開きになっている。
そんなに俺に会いたかったのか?
コイツに好かれた覚えはないんだが……
「ためになる情報があったとしても、こんな時間に来るなよ。夜中だぞ」
「だって君が1人になる時間なんて夜中しかないじゃん!私は君以外の人間に見られたらマズいの!」
ハデスが少し声を大きくすると、オクタウィアの眠りが浅くなり、ベッドのの中でモゾモゾ動く。
俺とハデスはその姿をビクビクしながら見ていた。
ハデスに至っては顔面蒼白だ。
やがてオクタウィアは完全に目が覚めてしまったのか、体を起こす。
そしてついにハデスと目が合ってしまった。
「あっ……」
俺とハデスの声が揃う。
「陛下?その人……誰?」
返答に困った俺はハデスの方を見る。
ハデスはぴくりとも動かず、真顔でどこか遠くの方を見てる。
ダメだ、コイツ思考停止してる。
仕方ない、とりあえず適当な事を言って誤魔化そう。
「あぁ、コイツは……あれだよ。あのー……コイツは夜警だ。異常があったから報告に来た。俺もその異常を確認してくるから、お前は寝てていいぞ」
「そうですか……わかりました。気をつけてくださいね」
「わかってる。おやすみ」
その場はなんとか上手く誤魔化すことができた。
俺たちはすぐに部屋を出て、野営地の中でも人が少なく、見回りも来ないような場所まで来た。
「助かったよネロ。まさかこんな早く君に命を救われるなんて思ってもなかったよ」
「人に見られるのはそんなに危険なのか?」
「昔は普通に人に会ったりしてたんだけど、最近は神々の掟が厳しくてね。人の前に姿を表すのは重罪なんだ。昔に戻りたいよ」
今までになく緊張感のある顔でハデスは言った。
その幼い顔つきには似合わない鋭い眼光と、眉間のシワからハデスの怒りを見てとれる。
どうやらハデスはこの掟が嫌いみたいだ。
人と会うのがそんなに好きなのか。
「それで、さっき俺のためになる情報があるとか言ってたよな」
「そうなんだよ。私は普段、冥府で死者の管理をしてるんだけど、さっき47人も連続でローマの軍人が冥府に来たんだ」
「なんだって?死んだってことか?ちょっと待て……それって」
「察しの通り、ここの軍団の人たちだったよ。しかも死んだ場所はこの近くの森の中。ここに長居すると危険だよ」
ハデスの言う、死んだローマ兵というのは、カトゥス将軍がゲルマン人追撃のために送った重装騎兵で間違いないだろう。
だがゲルマン人が重装騎兵まで倒してしまうとは……
前世じゃこんなことはありえなかったのに、一体何が起きてるんだ。
あ、そうだ!ハデスに聞けばいいんだ。
「ハデス、俺以外に前世と違う行動をとるやつっているのか?例えば前世では無類の鶏肉好きだった奴が、今世では牛肉好きになってるみたいな」
「んー……基本ないね。君が関わった人間以外は、全く同じ行動をとるよ。だから君が牛肉の素晴らしさを教えない限り、その人が鶏肉好きから牛肉好きになることはないよ」
だとすれば、やっぱりゲルマン人がここまで強くなっているのは俺のせいということになる。
だがハデスが気になる事を言う。
「だけど負の遺産は例外だ」
「負の遺産?」
「そう。アイツらは……」
そこまで言ってハデスは言葉を切った。
「なんだよ急に黙って」
「シッ、静かに。聞こえない?この音」
「えっ?」
耳をすませると、確かにドシンという何か岩のようなものが落ちた音が聞こえた。
それも1度じゃない。
断続的聞こえてくる。
「警戒体制!警戒体制!」
その声が野営の見張りにも届き、野営地には警鐘が鳴らされ、警戒体制に入った。
「なんだこの音?地震か?」
「違うね、こんなところで地震は起きないよ」
「じゃあなんだよこの音」
「わからないよ。でも君は早くここを出てローマに戻った方がいい。ここはすごく嫌な予感がする」
その直後、ハデスの予感は的中した。
森の方から「助けてくれ」という悲鳴が聞こえてきた。
俺はこんなに本気の「助けてくれ」を聞いたことがない。
恐怖に耐えられず発された悲鳴は、聞く人にも恐怖を与える。
その場にいる全員が、一瞬その場に立ち尽くした。
そして、悲鳴は聞こえなくなった。
「ハデス、行くぞ」
「うん。これは早くここを出た方が良さそうだね」
「違う。そうじゃねぇ。森に行くんだよ」
「え!?今悲鳴が聞こえた森に?正気!?」
ハデスは少し仰け反るほどの驚いた。
「悲鳴は聞こえたけど断末魔は聞こえてない。まだ助かるかも」
「じゃあせめて私も連れてって。神の力で君を守るから」
「もし死んだら、また生き返らせてくれ」
「そんな事にはさせないから安心して」
「頼もしいじゃないか。じゃあ俺、剣取ってくるね」
「はーい」
俺は乗ってきた馬車から剣を取り出し、腰につける。
そして野営から出て森の方に向かって歩き出した。




