壁のぼり2
さてじゃあ、本番に行こうか。
少しざわついてきた周りの人々を抜けて、一つ目のネズミ返しに向かう。
4メートルの足場を階段で上り、あと3メートルのはしごをつかう。
ネズミ返しは幅が約80センチ。決して狭くはない。
人一人渡るには十分過ぎる広さだ。
しかし、その足場は軽石で埋まっていて、それらを避けながら進む。
壁を登るのにちょうどいい場所を探していく。
フリーロッククライミングで重宝するのは岩の足場もそうだけれど、壁の割れ目…クラックらしい。
割れ目は細すぎても太すぎてもいけない。
ちょうど手のひらが入り込むくらいの割れ目。
残念ながらどのくらいの裂け目がしっくりくるのか試したことはないのだが…
「うん、しかし、ここならいいか」
一つ目安をつける。割れ目もあるが、それ以外にも崖の出っ張りや、釘の打ちやすそうな場所もある。
ネズミ返しに80センチの幅があるとは言え、ここはすでに下から7メートル地点。低い位置からの釘打ちが必要となる。
まずは手の届く一番高いところでいいだろう。
地面にしっかり足のつける場所での作業というのは本当にありがたいな。
「さて、ルゥルゥ。行こうか」
手に力が入る。
もし行けるなら、一つ上のネズミ返しまで登ることにしよう。
出来なければあきらめて違うルートを探す。
それを繰り返す。
ボルトはおおよそ1メートルごとに設置するのが基本だ。
そうすると、落ちる距離は大きくて2メートルになる。
それ以上だとさすがに危ないからな。
ただ、俺はロープを全部ベルトに巻いて固定している。
本来なら、カラビナをボルトにつけるだけでいいので、そんな手間暇かからない。
ないものを嘆いても仕方ない。
釘を打つごと、一メートルごとにロープを固定しているのだ。
だから、俺がロープを外して次の釘をロープに固定している間に落ちてしまうと、3メートル落ちてしまうことになる。それは避けたい。
固定してからロープを外せるのが一番いいのだ。
そのためにはできる限りロープの長さを計算すること。
それが出来なかったとき、ロープを釘に巻き付ける最中に決して油断しないこと。
これは絶対なのだ。
二つ目の釘を打つ。ルゥルゥも少しだけ慣れてきた。
ある程度の情報の共有は大切だ。
俺は仕組みをルゥルゥにも分かるように少しずつ解説していく。
「とりあえず、今回はネズミ返しまで行くんだよね?」
「それが目標だな」
「その後はどうするの?」
「うん。登れそうなら登る。
登れないなら、できる限り足場を使ってそのまま降りる」
「降りられるの?」
「降りられなかったら、落っこちてしまうな」
「一応命綱があるんだよね」
「落っこちると、ロープを巻いてある釘までもう一回登らないといけない。
それからロープを回収して、ロープをベルトに固定して、降りてくる。
釘を固定する手間はないが、しかし帰りもなかなかに面倒くさい」
「よくやるね、ホント」
お褒めにあずかりまして。
3本目の釘を打つ。
カーン、カーン、音が響く。
今まで夢中で作業していたから、その音すら聞こえていなかった。
うん、ロープにたるみはない。しっかり結べた。
「ナオヤ、ちょっと楽しそうだね」
「まあ、趣味みたいなものだったからな」
「壁登りが?」
「うん。壁登り。
俺、馬鹿だからさ、高いところ好きなんだよ」
「え?そう?ボクみたいに空を飛びたい?」
「んー。どうだろう。
飛びたいけど…ちょっと苦労して飛びたいかな?」
「どういうこと?」
「自分の手で登るのが大事ってこと」
ゲームだってそうだろ?
自分の努力で何か変化するところが楽しいんだ。
色々頑張って、ご褒美があるからプレイするんだろう?
俺にとって、ボルダリングは多分同じこと。
頑張れば結果が出るスポーツだった。
誰と競争するわけでもない。
壁を登れたら俺の勝ち。
そんな、たわいのないゲームだ。
4本目の釘を打つ。
クラックを伝って登る、という感覚がようやく身についてきた。
今まで補助的には使ってきたのだが、クラックを中心にして登ったことなんてなかったのだ。
手をどこまで突っ込めばいいのか、足をどんな風に入れるのか、どこに力を入れたらいいのか、今まで話には聞いていたが、やったことはなかった。
かなり…というかマジで難しかった。
クラックだけで上まで登る人がいると聞いたが、さすがにそれは無理なんじゃなかろうか。
まあ、俺は初心者だ。
練習すれば登れるようになるのかもしれない。
「ちょっと実況してあげるね」
ルゥルゥが言った。
「何を?」
「下の様子。
今ね、ナオヤが体を横にしているから、下でみんなが何しているか見えるんだ」
「…その実況、おもしろいの?」
「ハウラとマイィはね、ずっとこっち見ながら、はらはらしてるんだ。
アユブなんて死にそうな顔してる。
他の人たちもね、ほとんどはこっち見てるよ」
「見てたってどうにも出来ないんじゃないのか?」
「でも、みんな応援してくれてる。
ナオヤのこと、応援してくれてるよ」
「そっか。あんまりみっともないところは見せられないな」
「うん。
多分ね、今みんな、ナオヤのこと、かっこいいと思っているはずさ」
だといいな。
5本目の杭を打つ。天井が見えてきた。
あと少し。
「でもさあナオヤ。
ここを全部登ったって、ネズミ返しがあるんだよ?
一体どうするつもりなのさ?」
「コイツを使う」
俺はカバンから預かったものを出して見せた。
「これって…爆弾じゃん!!」
「そうだよ。これならネズミ返しくらいは簡単に壊せるだろう。
それまでに、みんなに避難してもらわないといけないな」
「こんなものを持ちながら、ボクを道連れに高所に乗り出すとか、マジでありえないよ!」
妖精がヒステリックに叫んだ。
「そこまで危険なものじゃないと思うけどなぁ。
これ、あいつらの寝床にしまってあったんだぜ。
もうずっと長いこと一緒に暮らして爆発してないんだ。
倉庫という概念がないのかね?
俺としては、ちゃんと起爆してくれるかどうかの方が心配なんだけどな」
「そいつらの神経も、ナオヤの神経も、どっちもおかしいから!」
俺は小さく笑った。
そうだな。
俺だって爆弾に火をつけるなんて初めての経験だよ。
爆弾だけじゃない。
ここに来て、初めてのことばかりしている。
だけど不思議だな。
今はもうあまり、怖いと思っていない。
6番目の杭を打つ。
ああなるほど。俺はこの6メートル、一度も落ちなかったんだ。
だから、大丈夫だと思っているんだな。
初めてのこともたくさんしているし、想定してたより難しいルートだったのだけれど、気が張っていたせいかもしれない。
普段なら何度か落ちている難度だ。
落ちてないから、まだ体力がある。
まだ体力があるから余裕がある。それで少しハイになっているんだろう。
「よっと」
ネズミ返しに手が届く。そのでこぼこに手を乗せる。
「ちょっ…何する気?」
ボルダリングにも、ロッククライミングにもルーフと呼ばれるコースがある。
天井を這うように移動するコースだ。
一般の人が見ると信じられない光景らしいが、実はそんなに難しくはない。
このネズミ返しは幅が80センチしかないのだから、それをつたってネズミ返しの上に登ることは出来るのだ。
ネズミ返しの縁をつかむ。それを起点に体を起こす。
そして一気に体をネズミ返しに乗せる。
思わず寝転ぶ。
さすがに疲れた。
「登れた…」
俺は深呼吸した。
残念ながら美味しい空気とは言えなかった。
火山灰混じりの咳き込みたいような空気だ。
空もどんよりして、お世辞にも景色がいいとはいえなかった。
でも、水はうまかった。
こんなにうまい水は今まで飲んだことがない。
「ああ…最高だな」
目をつむる。
「お前も飲む?」
ルゥルゥに水を渡す。
「うん」
俺に聞こえるくらいごくごく音をたててルゥルゥは水を飲んだ。
「美味しいっっ!」
「分かりかすか、お客さん。通ですなぁ」
「仕事帰りの一杯って感じ?」
まあ、その経験はお互いにない。
そこまで来て俺は一度ロープをナイフで切り落とした。
「どうする気?」
「いや、説明しただろ?爆弾でネズミ返しに穴をあける」
「で、でもさっき、ロープ切っちゃったじゃん」
「帰りのロープはあるから大丈夫だ」
そこで、力の限り叫んでみる。
今から爆弾を爆発させること。下は危ないから、逃げて欲しいこと。
ゆっくり、大きな声で説明する。
そして、俺は着火作業に入る。
下で説明を受けたのだが、この世界のマッチは使い慣れていない。
いや、元の世界のマッチすら、理科の授業くらいしか使ったことがない。
アルコールランプをつけるのに火をつけましょう。
学校ではいつまでアルコールランプを続けるんだろうな?
どこかでマッチが必要になったときに役立つからかもしれない。
うん、無意味じゃないな。
試行錯誤しながらようやくマッチに火をつけて、導火線に火をつける。
それを確かめたあと、思いっきり逃げる。
どの程度崩れるかなんて計算も出来ないし、想定以上に崩れる可能性もある。
十分逃げたと思える場所で俺は身を伏せた。
数秒後に爆発音がして、そこには大きな穴が開いていた。
「おっしゃ!ちゃんと爆発した」
足下を一歩一歩確かめながら、ゆっくりゆっくり近づいてみる。途中で崩れるところは全部崩す。
もう崩れない、と確信できたところで俺は最後の杭を打つ場所を検討した。
これは帰るための杭だ。
カバンから今までより太めのロープを取り出す。
長さは7メートル。
50センチごとに結び目が入っている。
ほら、学校の体育館にあった人もいるんじゃないかな?
俺の学校にはあったんだけど…。
あ、でも本当は使っちゃいけないんだって叱られたんだっけ?
まあそれだ。
今度登るときはこの綱を使って簡単に登ったり降りたり出来るわけだ。
下から歓声が上がるのが聞こえた。
俺たちが壁を全て降りて地面に戻ると、ちょっとしたヒーローになっていた。
「ナオヤ!アタイはアンタを信じていたよ!やるときはやる男だって!」
というハウラさんの賛辞は話半分に聞いておいて。
「二人とも生きていてくれて…何よりです」
と泣きながら座り込んだアユブ。
「ナオヤさん…。格好良かったです」
と今まで事務的な言葉しか交わしてこなかったマイィが言ったのは正直嬉しかったし、
「いやあ、さすがナオヤ様。
アユブ様が使わしてくださっただけのことはある」
「我々が数年がかりでようやく一段登ったところだというのに、それをたったの数時間で!」
という有象無象の言葉が辺りを飛び交った。
「皆さん、お祝いをいたしましょう。
アユブ様が差し入れてくださったお肉があります。
特別スープですよ!」
と宴会が始まりだした。
まあ、アユブが差し入れた肉というのは二日前に襲われた4匹の魔獣だ。
それが食べきれずに残っていたもので、別に俺が何かしなくても今日はごちそうスープだったらしい。
しかし、この特別スープは今まで食べたどんなものより美味しかった。
この世界の食事を、俺が美味しいと表現するのだから、よっぽどなのだ。
みんなとにかく、俺の話を聞きたがった。
壁を登るのに必要な道具と方法。
気をつけなければならないこと。
「でも杭は、本来ならロープの外れないものの方がいいんだけど」
杭では正直、いつ外れるか分からない。
必要なのはベルト。
本来必要な道具の名前をハーネスという。
俺が持っているのはハーネスもどきだ。
出来れば改良したいところだ。
ベルトに簡単な補助をつけて、落ちても腰にだけダメージがこないようにしている。
「あとは靴」
これは足に合わせるものなので、みんながみんな、同じものではいけないこと。
まあ、そんな話だ。
「ではさっそく、同様のものを作るよう手配いたします」
俺が寝ている間に型紙を作るから貸してくれと言われた。
そこでベルトと靴を職人に渡した。
「それにしてもアユブ様は、よくぞこんなにぴったりな方を見つけてくださって、適切に派遣してくださったものです」
「あー…」
それに対しては一つだけ仮説があった。
「俺が今から話すのはただの想像…というか、妄想かもしれないのだけれど、神官はおそらく、俺の特技を知っていたのだと思う」
「ほう」
「いや、神官というより、その神官にイメージを送っている世界そのものが、俺の特技を知っていたのだと思う」
「世界が?どういうことです?」
まわりが少しだけざわついた。
「うん…。その…俺は異邦人で、だから別の世界から来た。
それは10日くらい前。
俺がこの世界に来る一年くらい前、元の世界の恋人が言ったんだ。
わたしの精神は何か知らない世界と結びついてしまった。
だから、困っているって。
俺の恋人なら、俺がこのくらいのことが出来るのは知っている。
そういうことだ」
「ナオヤ様は、その、恋人の精神がこの世界と同一化しているというのですか?」
「そんな不思議なことがあるでしょうか」
「俺だってそのとき、信じなかった。
こんな世界があることを知らなかったし、想像すらしなかったから。
だけど今は信じている。
なあ、みんな、梨花という女の子を知らないか?
沢山梨花というんだ」
みんな不思議そうな顔をして首を振った。
「そっか、知らないか」
そんなに簡単には見つからないよな。
「でも、もしこれからでも、この名前を聞くことになったら教えて欲しい。
頼むよ」
みんな一斉に頷いた。
疲れた。
久しぶりだな。こんなに長いこと運動し続けたのは。
いや、登ったのはせいぜい7メートルなんだけど、釘を打ちながら未知のルートを上るのは怖かったし、緊張したんだ。
前回、ボルダリングのジムに行ったのいつだったっけ?
半年前くらい前?
周りは薄暗くなっていた。
壁の近くは昼でも暗いのだが、今は夜になっていていつもよりもっと暗い。
でも、真っ暗ではない。
もう夜だから、寝てもいいはずだ。
寝ようかな…と思ったとたん、一人の男が俺の前で平伏していた。
俺と同じくらいの年齢で俺よりも小柄な男だ。
「な…何?」
「し、失礼いたします。今日のご勇姿、わたしは感動いたしました」
「ど…どうも」
「実はわたし、今まで、ナオヤ様のように自力で壁を登る方法を試行錯誤しておりました。
しかし、ネズミ返しを崩す方法も分からず、綱を使って安全に登る方法も知らず、3人頭ほど登ったのですが、落ちてケガをしたりして、苦労していたのです」
「ほう」
3人頭…5,6メートル登ったのか。
でも、命綱なしじゃ、何度も怪我をすることだろう。
へこたれても無理はない。
「自分の方法が間違っていると何度も指摘を受けました。
それで、あきらめていたのですが、今日、その方法が決して間違ってなどいない、むしろ正しい方法だったのだと知りました」
まあ…俺だってまだ結果出したわけでもないけれどな。
あの壁を登り切らないと成功とは言えない。
「ナオヤ様の体力は素晴らしいですが、無限ではありません。
ですから、ナオヤ様の使っていない時間帯、わたしにも挑戦する機会をお与えください。
あらかじめ釘をうっておけば、ナオヤ様も早く進むことが出来るでしょう」
これはもしかして…下僕…いや、弟子をゲット?
「もちろんだ。
そうしてくれれば、俺だって随分助かるというものだ。
今まで何年も岩に馴染んでいたのなら、むしろ俺より慣れるのは早いかもしれない」
「ほ…本当ですか!」
「でも、危険な作業だ。
約束して欲しい。全部で3つ。
一つ目。暗い夜には作業しないこと。
二つ目。あの作業にはルゥルゥの協力がいる。
ルゥルゥに無理をさせると俺がしこたま叱られるので、必ず作業前にアユブの許可を取ること。
三つ目。無理だと思ったらそこで作業を止めること。
約束できる?」
「は…はい!」
「君の名前は?」
「はい、ヌールと言います」
「そうか、ヌール。しばらくよろしく」
「はい、明日から精進いたします!」
そういうわけで、俺はなかなか優秀そうな弟子を手に入れたのだった。
それで満足して、その日はかなりぐっすり眠れたのだった。