壁のぼり1
そこから数日、俺たちはようやく壁にたどり着いた。
まっすぐそそり立つ壁は、火山灰に遮られていて、頂上を見ることが出来ない。
この世界はどこだってそうだ。
火山灰で遠くまで見ることが難しい。
壁について、まず最初に気付くのは、壁際にこんもり積もった軽石である。
三メートルくらい積もっている感じ。
取り除いて壁までたどり着くのも大変そうだ。
「まずは調査団に合流しましょう。
上手に歩いて行けばいずれ出会いますから」
アユブが言った。
壁を観察してみる。
真っ平らというわけではない。
あちこち岩や石が出ているし、ひび割れもある。
(登れないこともない、か…)
パラパラと軽石が落ちてくる。
火山から出てきた軽石が壁に当たって落ちてくるのだろう。
上を見てみる。うっすらと何かが見える。
「壁に…天井みたいな物があるような気がするんだが…」
「ええ。通称ネズミ返し。
下から登る者を邪魔する第一の難関です」
ネズミ返し。高床式倉庫ですかい?
「四人頭くらいの高さに半人頭くらいの幅があるネズミ返しがずっと続いています」
…翻訳するとだな。7メートル弱の高さに、80センチ幅の邪魔なものが付いているって意味だ。
そうこうしているうちに人混みが見えてきた。
あれが調査団だろう。
まず目に付いたのは大きな足場。
4メートルくらいある。
そこから3メートルのはしごがネズミ返しまで続いているようだ。
「あれはアユブ様だぞ」
声が聞こえて、何人かが集まってきた。
「アユブ様。ご覧ください。
我々はとうとう最初の難関を突破いたしました。
足場とはしごをつなげば、一段目のネズミ返しまで誰でも登ることが出来ます」
おそらく現場監督なのだろう。
大柄な男で、ヘルメットのような堅い帽子を被っている。
そして、そのときちょうどはしごをネズミ返しに釘で固定しているところだった。
「アユブ様」
「アユブ様ですって?」
あっという間にアユブの周りに皆が集まり、次から次へ話をしだした。
「アユブ様。聞いてください。私にも子供が出来まして。
つきましては是非アユブ様に名付けていただきたく…」
「アユブ様。これを見てください。
この木材のおかげで工事の進捗がはかどりまして…」
「アユブ様。こちらの果物はいかがですか?
是非食べていただきたいのです」
それはもう次から次から。
俺とハウラとマイィは追い出されるようにその場を離れるしかなかった。
「…何?あれ?」
俺はきく。
「アレが通称アユブ派と言われるものだ」
ハウラが答えた。
「アユブ派?派閥?」
「協会よりアユブ本人に忠誠を誓っている人たちだ。
彼らの忠誠心は半端じゃない。
アユブのためなら何でもするって集団だ。
今は壁調査なんて、地味なことをしているが、もったいない使い方じゃないかってアタイなんかは思っている。
まあ、本人は半ば迷惑がっている感じでね。
しかしもしアユブが望むなら、国家転覆だって出来るんじゃないか…なんて思っているんだがねぇ…」
「アユブ様は協会に忠誠心捧げてますから…」
マイィが続けた。
「どっちにしろ、ここにいる間はアユブを怒らせるんじゃないぞ。
忠義の厚い部下達が30人、ここにいるわけだからな」
俺は頷いた。
向こうの話もようやく片付いたらしい。
「成果が出て何よりです。
さて、皆様にも紹介いたしましょう。
預言者ターハーの名において、こちらにいらっしゃるナオヤ様が派遣なされました。
これから十五日間、ここで調査いたします。
皆様、ナオヤ様の言葉を神官の言葉と思い、調査に協力してください」
「おおおおおおおっっっ」
活気があって、みんなが燃えていた。
え?何?そんなことになってんの?俺?
「それで、今の状況はどうなっているのですか?」
「それが…」
監督は少し言いよどんだ。
「どうにも、また同じ仕掛けがあるようです。
一段目の上に同じような二段目があります。
高さも、幅も同じようなものが」
俺は不思議に思った。
「はしごを伸ばせばいいんじゃないのか?」
「ナオヤ様。この世界の植物は多くありませんし、貧弱です。
その中で、一番丈夫なのが、このはしごに使われている木材です。
精一杯伸ばして2人頭に届きません。
つなげることも難しい。
はしごが足りていれば、もう何年も前に一段目に登れていたでしょう」
「はい。恥ずかしながら、ここにあるはしごはこの世界で一番丈夫で、一番高価なものです。
数は少なく、継ぎ足しても折れるでしょう」
それで、4メートルの足場があるわけか。
足場までは階段になっていて、何人も登ることが出来る。
この4メートルの足場をつくるのに何年もかかっているようでは、確かに登頂にいつまでかかるのか分からないな。
「上はどうなっているんだろう」
「分かりません。上に行けば行くほど火山灰が濃くなりますから」
「じゃ、今こそルゥルゥの出番じゃないのか?」
俺が言うと、ボールみたいに俺の前に飛び出してきた。
「そうだよね。こんなこと、ボクにしか出来ないよね。
っていうか、ボクがいればそれだけで解決しちゃうかも?」
とくるりと回ってポーズをつけ、ピュンと力任せに飛び上がった。
あっという間に見えなくなってしまっていた。
「見てきて欲しいポイントとかあったんだけどな…」
俺はつぶやいた。
でも、ほんの数十秒後だった。
「ぎゃーーーーーっっっっっ」
と上で悲鳴が聞こえたと思うとルゥルゥが落ちてきたのだ。
アユブの表情が一瞬で変わって、かけだした。
そして、迷いなくルゥルゥをキャッチすると、詠唱を唱えた。
「神が水を引き留めるとそれは枯れ、水を送ると地を覆す。
力と優れた知性は神とともにある。聖治癒」
「どうしたんだ、ルゥルゥ」
「石に思いっきりぶつかったんだよ。
上の方に行くほど軽石がたくさん降ってるんだ」
ああ。少し観察すれば分かることだった。
確かに壁に落ちてくる軽石は多い。
その数を数えていれば、地上より多くの石が上の方に飛ばされているのは想像が出来たはずだ。
「ゴメン…」
「ナオヤ様。ルゥルゥを偵察に出すのは私が許しません。
こんなところで高く上がれば下手すると死んでしまいます」
「そうだな」
ルゥルゥの小ささを甘く見ていた。
俺なら当たっても平気だろうが、小さな妖精では瀕死になってしまう。
「それで、ルゥルゥ。何か見えたものは?」
「えっと、ネズミ返しってやつ?
3段目は見当たらなかった。
ボクが登れたのはその上、地上からネズミ返しまでの高さ3つ分くらいかな?
それ以上はよく分からない」
「分かった。ありがとう、ルゥルゥ。あとは休んでくれ」
俺はきびすを返すとそのまま工事の道具が並んでいる場所に来た。
レンガがたくさんある。土台を造るためのものだろう。
レンガを固める粘土、15センチほどの太い釘、そしてこれは…爆弾?
「はい。壁の何カ所かヒビが入っています。
壁ごと破れないかと爆弾を仕掛けました。
穴は開いたのですが、壁は想定以上に厚く、びくともしませんでした」
作業員が答えた。
「ちょっと、その壁に爆弾を仕掛けた場所に案内してくれる?」
案内してもらうと、5メートル四方穴の開いた壁が見えた。
ちょっと感心する。
「これ、いくつくらい爆弾使ったの?」
「十個くらい…でしょうか。
しかし、5つを超えたあたりから、穴は横に広がるばかりで奥には少しも進めません。
それで、あきらめかけていたのですが…。
しかし、追加で爆弾は今も作っているところです」
「ふぅん」
しかし、思ったより優秀な爆弾じゃないか?
ノーベルの発明したダイナマイトくらいの威力はあるかもしれない。
文化レベルが千年前くらい前に思っていたので、爆弾があるだけでもびっくりだ。
「綱みたいなものはあるかな?出来るだけ丈夫なのがいい。
でもあんまり太いのはダメだ」
「綱ですか?荷物を運ぶためのものでよろしければ…」
「見せてくれ」
強さを試してみる。俺一人を支えるだけなら問題ないだろう。
「何をしているんですか?」
アユブが聞いた。
「うん…壁を登ってみようと思ってね」
俺はそんなに運動神経のいい方じゃない。
野球部で万年補欠だったことは前述した通りだ。
しかし、一つだけ得意といえる分野がある。
いや、もちろん大会に出るとかそんなレベルではない。
趣味として楽しめるスポーツがある、ということだ。
それがボルダリング。
クライミングと言った方が通りはいいんだろうか。
壁に付いているゴツゴツを登っていく室内競技だ。
近くにある子供館にボルダリング教室があった。一度につき百円。
5メートルある一番高いところに登ったのは小学三年生のときだった。
こういうのはさ、体が軽いときの方が多分簡単にできるようになるもんだ。
逆上がりと一緒だ。
小さいときほど、習得が簡単。
中学生になってから逆上がりが初めて出来たヤツを俺は一人も知らない。
まあ、小さいときから出来たので、長期休みなどにボルダリングジムに通った。
大きくなったらロッククライミングに挑戦するんだ、と思っていたのだが、一緒に行ってくれる大人がいなかったので、今まで機会がなかった。
しかし、高校生になったのなら、誰かに頼み込んで試してみてよかったかもしれない。
何しろ社会人には長期休みがない。
夏休みとかバイトに随分とられちゃったけど、もう少し遊んでおくべきだったな。
おかげで今になって、一番始めにトライするロッククライミングがこれだ。
いくらなんでもレベルが高すぎるだろ。
ロッククライミングというのはスポーツだ。
それがどんな高い山の、どんなに難しい岩山であったとしてもスポーツなのだ。
なぜなら、そこにボルトという命綱を掛ける場所が必ず存在するからだ。
ロッククライミングのユーチューブはたくさん見てきた。
でも、どんなすごい山に登った人を見ても、
(いや、そのボルトをつけた人の方がすごいよね)
とか思ってしまうタイプなのだ。
そして当たり前のことだが。
この壁にボルトは一つもついていない。
命綱もなく、全く知らない、登れるかどうか分からない岩を登るなんて、自殺するのと同じだ。
登れることが確定している室内ボルダリングでさえ、何度落ちたと思っているんだ。
いや、全く落ちることなく一度でクリアできてしまうスポーツに何の価値があるのかむしろ問いたい。
つまり、落ちるのが前提。
だから俺は命綱を設置するべく奔走することになった。
「金属に詳しい職人を誰か紹介してくれ」
ボルトが欲しい。
岩にしっかり固定でき、かつ縄を掛けるための丸い金具が切実に欲しい。
あとはカラビナ。
俺は地面に図を書きながら、こういうものが出来ないか聞いてみた。
「申し訳ないのですがナオヤ様。
ナオヤ様の欲しい金属は手に入らないでしょう」
「どうして?武器屋ではいろいろな武器があった。
型があれば、いろいろな形を作れるだろう?」
「おそらく、私たちが作っている金属は、ナオヤ様がおっしゃっている金属よりも弱いのです。
手のひらの大きさで人間の落下に絶えられる金属?
それを金型で作れと?
そして、それをひっかける道具?」
「でも、この釘なんかは丈夫に見える。
さっきはしごを固定するところを見ていたけれど」
「その釘は職人が叩いたり伸ばしたり、多くの作業と技術を駆使した我々の傑作です。
それと同等のものを違う形で作るなら一から試行錯誤しなければなりません」
職人がそういうなら、本当なのだろう。
一つ可能性はつぶされた。
(あと、出来ることは…)
アユブの用意してくれたクルタみたいな服は普段使うには全く問題ない。
魔獣との戦いでも不便とは思わなかった。
ただし、壁を登るとなると話は違う。
前後のヒラヒラした部分がどこにひっかかるか分からない。
俺はそこに集まっている30人くらいの作業員を一人一人観察する。
作業員に制服があるわけではない。それぞれ違う服を着ている。
そのうちの一人に声をかけてみる。
俺がシャアバーンで着ていた服と同じような服を着た、一人の男だ。
「悪いが俺の服と君の服を交換して欲しい」
「え?ええええ?俺の服とあなた様の服を??
ほ、本当によろしいので?」
この服、そんな高級品なんだな。
「うん。それがいるんだ」
俺が気に入ったのは服ではない。
その服を留めているベルトだ。
厚みのある皮で出来たベルトで、とても丈夫そうだ。
「上着だけだぞ。ズボンは欲しいからな」
「も…もちろんです」
こちらはあげられない。
「あとは靴…」
さすがにブーツで壁は登れない。
ロッククライミングでは基本、命を守る道具ばかり用意する。
落ちることがなければ、実は無用のものである。
ただ一つだけ、登るのに必要な道具がある。
その道具次第で山登りの成否を決める、大切な道具。
それが靴だ。
クライミングは腕ではなく足にかかる力で決まる。
今まで何度も言われてきたことだ。
また一人に声をかける。
「頼む。君の靴を一度履かせてくれないか」
この世界では自分で靴を作るのが普通らしい。
ちなみに俺が声をかけたのは、皮にいくつかの穴を開け、それを自分の足の形に合わせ、靴裏に天然のゴムを貼り付けるタイプだ。
さすがに専用のクライミングシューズのようにはいかない。
しかし、俺が今履いているブーツよりいくらかマシだろう。
あとはこの靴が俺の足に合うかどうかだけだ。
靴の穴は作った男の足に合わせて開いていた。
それを紐でくくっているわけだ。
俺は穴をあちらからこちらからいろいろな方向から通してみて、ようやく自分の足に合うように結ぶことが出来た。
「俺のブーツと交換して欲しい」
「本当に、よろしいのですか!」
「もちろんだとも!」
何の問題もなく交換してもらえた。
「あとはチョーク」
ボルダリングを一度でもしたことある人なら分かるだろう。
始めて5分もすると、手に汗をかく。汗で岩が滑る。
滑ると落ちる。それを防ぐのがチョーク。
チョークがないと5分と登れないのだ。
「細かい粉ってないか?」
「細かい粉?」
「汗をかいても手が滑らないようにするものなんだが…」
どう言ったらいいかな?
そもそも、チョークとみんなが呼んでいるものが一体何なのか、俺も知らない。
野球のロジンパックと同じ成分が入っているとか聞いたことあるけれど、それが何か分からない。
まあ、汗がとれればいいんだよ。
しばらく汗に悩まされなければそれで。
というわけで、実験することにした。
いろいろな砂や粉を手に入れてきて順番に並べる。
手を水に浸し、砂に手をくぐらせる。
それで乾き具合や、石を持った感じを比較するわけだ。
周りの人も細かそうな粉をあちこちから集めてくれている。
ありがたいことだ。
一番始めに突っ込んだ白い粉は、思い切り水を吸い込んで俺の手にべたりと張り付いた。
「これ…何?」
「小麦粉です」
「却下」
せめて何か確認してから突っ込むべきだったな。
3種類集めてもらった砂は今一つだ。
ざらざらするので岩は滑りやすい。
一番良かったのは壁を爆弾で砕いた際に中から出てきた砂で、さらさらして気持ちよかった。
本物のチョークと比べると雲泥の差だが、ないよりはずっといい。
「さてと」
俺は立ち上がる。やっと本格的な実験が出来る。
一番はじめのネズミ返しまでは登れているので、その上から始めるのだが、今回は実験だ。
出来るだけ安全なところで始めたい。
持っているのは長いロープ、釘五本、金槌、チョーク、靴、ベルト(全部代用品)だ。
まずはベルトにしっかりロープを結ぶ。
八の字結びだが、その選択が正しいかどうかすら実は分からない。
そして、一メートルごとにもう一度ロープをベルトに結ぶ。
邪魔にならないように結わえるのが難しい。
だって、カラビナとか便利な道具はこの世界にないんだよ。
ないものは知恵で補わないといけないわけだ。
「あとは…」
ルゥルゥだ。
「アユブ。ルゥルゥを貸して欲しい。
今回は飛ばしたりしないし、軽石は俺の体で受け止める。
心配なら見ていてくれていい。
貸してくれないか」
「い…嫌です」
「嫌?」
「ルゥルゥを危ない目に遭わせるのはもう嫌です」
まさか、一番の難関がコイツだったとは。
心配性なのは知っていたがここまでとは思わなかった。
「俺は壁を登りたい。登るためには命綱がいる。
そして、壁に登りながら釘を打つのは大変だ。
ここまではOK?」
「…分かります」
「しかし、両手を離して釘を打つなんて、至難の業だ。
釘を持ってくれる人がいる。ルゥルゥなら最適だ。
普段は俺の服の中にいて、必要なときに出てくればいい。
ルゥルゥが釘を持ってくれている間、俺は軽石を体で受け止める。
ルゥルゥに当てたりはしない。それは約束する」
アユブはそれでもルゥルゥを手に握りしめたまま離そうとしなかった。
何かにおびえたように俺を見ているだけだ。
「アユブ…ボクはナオヤを助けたいよ。
だって、そのためにここまで来たんでしょ?」
「あなたをここに来させるべきじゃなかったと今も思っています」
「でも、ボクが役に立てるんでしょ?」
「そう…ですが…」
「じゃあ、ボクは行く!」
ルゥルゥはするりとアユブの手を抜けて俺のところに来た。
「あっ…」
「サンキュ!ルゥルゥ」
アユブが未練がましくこちらを睨んでいた。
「まあ、とりあえず、実験だから無理はしない。
うまくいかなかったら手ぶらで神官のところに帰ることになるけど、最善は尽くすと約束はしたからな」
でも、一番怖いと思っているのは、きっと俺なんだろうな。
下手に知識だけある俺は今からやろうとしていることがどんなに無謀なことか知っている。
ボルトもない、カラビナもない、チョークもない。
恐ろしいことに実践経験すらない。
その状況でロッククライミングしようというんだから。
そもそも、その岩場はどれがつかめる岩でどれをつかむと落ちるのか分からない。
「まず…」
俺は壁を見上げる。
一番大切なのはストーリー。
上に行くイメージだ。
俺はあちこち歩き回り、一番登れそうなルートをみつけた。
どこに足を置いて、どこに右手を置き、どうやって体を動かして頂上に登るのか、ストーリーを組み立てるのだ。
そして自分に言い聞かせる。
「違う。ここは外じゃない。
いつもの室内だ。本物そっくりの岩場で練習しているだけ。
だから、普段通りにやればいい」
そんな感じだ。
ボルタリングは体重移動がものをいう。
どれだけ大胆に体を動かせるか。
ジャンプにも近いイメージで次の岩に飛び移る。
その上で、けっして落ちない慎重さが必要だ。
矛盾するようだが、それは事実だ。
下手なヤツはゴールしたとたんに落ちる。
「よし、行こう」
「頑張れ、ナオヤ!」
今はルゥルゥの応援だけが味方だ。
まだ登ってもいないのに、顔から汗が出ている。
もう手も汗で濡れている。チョークをつける。一番目の岩に手を伸ばす。
大丈夫。俺の体重くらいは支えられる立派な岩だ。
とりあえずの目標は3メートル。
どこかはもうすでに決めている。
そこで最初の釘を打つ。
靴の感覚がいつもと随分違う。
ボルダリングのジムでは専用の靴をレンタルしていた。
指先まで力のかかる特別な感覚。
靴だけは金をかけた方がいいとトレーナーのお姉さんが言っていた。
確かにボルダリングは腕で支えるより足にいかに力を入れるかがキーになる。
でも、子供館では体育館シューズだった。
子供の頃はそれでどうとも思わなかった。
(違う。道具じゃない。そんなことはどうでもいい。
邪念を捨てろ。目標はあと2メートル)
手がすべった。岩だと思っていたのが、崖の上にある石だったのだ。
大丈夫。左手が残っている。
ボルダリングはある程度スピードが大切だ。
あんまりゆっくり登っていると、体力ばかりが落ちていく。
思ったより足場はしっかりしている。
崖も崩れたりはしない。
小さな崖の上に立つ。
うん。この場所だ。この場所がいい。
「ルゥルゥ。出番だ」
「よしきた、大将」
「この場所に釘をうつ。この角度で持っていてくれ」
「そのくらい、朝飯前さ!」
さて、釘はささるだろうか。堅そうな岩だ。
釘が刺さるイメージが湧かない。
それでも釘を打っていく。
若干鋭角に、出来るだけ深く。
5回。10回。簡単に釘は刺さらない。
15回…20回。ようやく釘が岩に入り込んでいく。
「もういいぞ、ルゥルゥ。形は出来た。
もう少し打つけれど、お前は戻れ」
「がってんだ」
さっきから、江戸っ子になっている気がするな、この妖精。
さて問題だ。
釘を鋭角に打ってこのロープをしっかり結んだら、きちんと命綱の役割をするだろうか?
誰かやったことがあるだろうか。
「さて、ルゥルゥ。
これから少し上がったところで実験をする」
「実験?」
「うん。俺は両手を離す。
うまくいけば2メートルだけ落ちる。
しかし、失敗したら4メートル落ちる」
「ちょっっちょっとナオヤ!
さっきアユブと約束したよね?
危ないことはしないって」
「大丈夫。お前は飛べるんだから」
それに…
何も言わないのに、野次馬が集まっている。
そして網を広げてくれている。
俺たちが落ちたときのことを考えているのだ。
この状態で死ぬことはないだろう。
ま、実験で死んだら馬鹿だけどな。
では、やるとしますか。
両手を離す。
ぐいっとくる腹と股への圧力。
まだまだ下に見える地面。
「ははっ。成功だ」
俺は壁を蹴って、それから手でつかめる岩をさがす。
誰が作ったのか知らないが、なかなか丈夫なベルトじゃないか。
「ちょっとナオヤ!聞いてなかったよ!
そんな危険な実験するなんて!」
「実験はすると言ったぞ。
実験というのは危ないから実験というのだ」
一度登った岩をもう一度登るのはたやすい。
それが安全だと分かっているし、どうやって登ったらいいのか、分かっているからだ。
「でもせめてもうちょっと下で実験すべきだったでしょうが!」
「ちょっと登ってから作業するというのをやってみたかったんだよ!」
「ナオヤは馬鹿じゃん!」
「はははっ。そのくらい元気でいてくれ。
俺の知っている妖精はすごく生意気なんだから」
調子が出てきた。これならいける、という自信だ。