回想
気がついたら、誰かに抱かれていた。
俺が唸るたびによしよしと背中をさすり、
「大丈夫だよ」
と声をかけてくれた。
俺の頭の中は相変わらず絡まりまくっていたけれど、それでもそうやってずっと抱いていてくれたので、少しずつ、ほんの少しずつほどけていくような気がしていた。
梨花とは小学校から一緒だった。
でも、一度も同じクラスにならなかったし、話をしたこともなかった。
話をしたのは中学生になってからだ。
友達と少年週刊雑誌の話をしているときに混ざってきたのだ。
梨花は言ってみればオタクというやつだった。
オタクというのはおかしいか。
普通の男子中学生が好きなものが好みだったのだ。
しかもちょっとグロイのが好みときた。
ま、そういう女は苦手だという男もいるけれど、俺は別段何も思わなかった。
むしろ、女の子とそんな話が出来てラッキーくらいしか感じなかった。
梨花と、その友達の結菜って名前の女の子と俺たちとで、少年漫画の話に花を咲かせていたのだ。
「いやあ、私って女性向けに作られたエンタメがどれもこれもダメみたいなんだよねえ。
少女漫画も、ジャニーズも、Kポップも中華ドラマも、どれもこれも全部性に合わないんだわ」
と梨花が言った。
「で、そうなると友達の幅がものすごく狭いワケよ。
結菜はさ、私の趣味に合う数少ない友達」
梨花は傍目に見ていても美人の範疇に入っていた。
対して結菜って子は痩せて背が高く、地味で、鼻が高すぎた。
はっきり言ってしまうと不細工だった。
「どうもねえ、私、相貌失認症とかいうのらしんだ。
軽度だと、人の顔覚えられないなあって程度なんだけど、私の場合、親の顔すら危ういのね。
だから結菜くらい特徴がある方が間違えなくて安心するの」
そんなことを言っていた。
「一応相貌失認症治らないかなと思って医者に行って相談とかしてみたんだよ。
だけど、これを治す方法はまだみつかってないから、訓練の仕方もよく分からないんだ。
もうね、美男美女ほど見分けがつかない。
韓国ドラマとか、美人しか出ないから、もう誰が誰だか分からない。
みんなが美形だと噂している人ほど分からない。
だけどさ、美形ほど自意識強くてさ、名前とか間違えると傷つくんだよねえ。
男より女の方がその傾向が強い。
その上女は簡単にイメージを変えるんだ。
アイライン一つでも、印象は変わるんだよ。
髪型変えると情報が減るんだよ。
だから私は美人が苦手…」
そう言ってため息をついた。
「その点、直也はいい。すごくいい。
体育館で全員集まっていても見分けがつくから、とてもいい」
「俺、そんな特徴的か?
軽く傷ついたぞ。美形じゃないが、普通だと思ってたんだけど」
「よく分からないけど、私が見分けつくからいい」
梨花と話をするのはとても楽しかった。
ゲームでも、漫画でも、ラノベでも、梨花はよく知っていた。
だから話題は絶えることがなかった。
気付いた頃には俺は梨花に惚れ込んでしまっていて、梨花が病気で学校を休んだり、親と旅行に行ってしまっただけで、絶望的な気分になっていた。
そういうとき、ほとんどLINEも返ってこなかったし、そうなるとこちらも遠慮しなければならなかったからだ。
で、俺としてはものすごく勇気出して、学校からの帰り道、いつもさよならをするところで、
「つ…津田直也は沢山梨花のことが好きです」
って言ったんだ。
「あー、それ、古い漫画の…タッチだっけ?」
って梨花はつぶやいて、それから急にまじめな顔になって、
「沢山梨花は津田直也のことが好きです」
って返してくれたんだった。
俺はこの世の春が来た感じで友達に言いふらした。
俺、梨花とつきあうことになったんだぞーって。
「ああ?」
「何言ってんだ、お前」
「…あれだけいちゃついておいて、今更?」
ってみんなしらけてた。
あれ?皆様そんな反応?
「ていうか、どこまでいったんだよ?」
「どんなんだった?」
「あいつ、絶対着やせするよな?」
「どこでだ?やっぱ自分の部屋か?」
今まで遠巻きにしていた連中まで一斉にこちらにやってきやがった。
どこでも何も、キスすらまだしてねーよ!って言い返そうとして気付いた。
まだ手を握ったことすらなかったという事実に。
「ま…まあ…そういうことは…おいおいに…」
ほんの少し、背中に汗をかいてしまっていた。
俺と梨花はそんな感じで始まった。
ただ…そんな感情は中学生だったからだ。
そのときは俺は普通の家庭で生まれ育った普通の子供だと思っていたし、まあ、実際そうだったと思う。
転機点は中学3年生の中頃だった。
父親がリストラされたのだ。
まあ、それは大変だけれど仕方ないことだ。
給料は下がってもどこか就職して仕事してくれたら、別に何も困らない話だった。
だが、父親は小さな書斎に閉じこもった。
そして、ずっとネットゲームをしていた。
前からずっとゲームはしていた。
仕事から帰ってくると書斎にこもり、家族と会話することなくネットゲームばかりしている。
俺は子供の頃に父と遊んでもらった記憶は一度たりともない。
どこかに連れて行ってもらったこともない。
いつも母親とどこかに行き、二人で帰ってくる。
父親はずっとゲームをしている。
ゲームがうまくいかないと、大声で怒鳴り散らす。
俺は父親の声って怒鳴り散らしているところしか知らない。
優しい声がどんな声なのか聞いたことがない。
そして、その父親が職を失った。
書斎に閉じこもって食事とトイレと風呂以外出てこなくなった。
食事がないと母親を殴って金を出させ、外食に行く。
そんな感じだ。
「仕事する気がないなら、主夫をしてください。
家事をしてくれさえすれば、それでいいですから」
と母親は言った。
「男がそんなこと出来るか」
と殴られた。
せめて、生き方を変えてくれればよかったのに、と思った。
犬や猫は働いたりしない。
少なくとも金を稼いだりしない。
けれど、飼い主たちは彼らの好物を買って帰り、その喜ぶ姿を楽しむだろう。
彼らは家族の心の支えだからだ。
今の父は犬猫以下だ。
「悪意の遺棄」という法律用語がある。
ちょっと字面のおかげで誤解しがちな言葉だ。
夫婦というのはお互いが支え合うものであるから、それをきちんと実行しないといけないという考え方である。
具体的に言えば、仕事もせず、家事もせず、家に何一つ貢献しない場合、これは悪意の遺棄があると判断される。
あるいは相手が病気のとき、適当な手段を用いず、全く助けないなどもこれにあたる。
悪意の遺棄があるとされた場合、相手に対して慰謝料を求めることが出来る。
おそらくウチの場合、裁判所が現状を認めさえすれば、父親がどんなに嫌がっても離婚をすることが出来るだろう。
慰謝料も請求できるだろう。
父親が家にこもって一年以上経った頃、俺は母親に離婚を勧めた。
「もうダメだと思う。離婚した方がいい」
「でも…」
母は言った。
「お父さんと離婚すると家は売らなければいけなくなると思う。
売ったら多分何も残らなくない。
共同名義でローンがあと18年残っているから。
今は良いの。今は賃貸でもいい。
でも30年後、老後のことを考えると不安になる。
私の年金だけでは賃貸に住んで、生活費を出すことはできない」
俺はいろいろ提案したんだ。
市営住宅に応募しようとか、老後の面倒は俺が見るから、心配するなとか。
でも、母親は離婚に同意しなかった。
失業給付もすでにない。
貯金だけが日に日に減っていくのが現状だった。
いや、中学の終わりには借金にも手を出さなきゃならなかった。
高校生になった俺は週に三日ほど、夜間のコンビニバイトに行くことにした。
夜間のコンビニバイトはいい。
時給が良いし、学校に重ならない。
まさに苦学生のためにあるようなバイトだ。
都会では英語が出来ないとダメとか噂も聞くが、この辺は田舎だからな。
出来るだけ金曜日と土曜日に入れて、土日は寝る。あとは平日に一度。
さすがに学校に行きながら徹夜はしんどい。
早朝にある商品の入れ替えだけは大変だが、客がまったくいない時間帯も多い。
給料を家計に9割くらい入れ、あとの1割は自分で使っていた。
だから、梨花とデートに行ったり、友達とマックに行ったり、そのくらいの金はあったんだ。
友達は誰も俺を貧乏だとは思っていなかった。
その頃、俺の女神は梨花だった。
家庭がすさんでいた分、梨花と過ごす時間は最高に楽しかった。
言い忘れていたが、梨花とは高校も同じだった。
今思えば、随分重たい男だったんだろう。
俺はそのまま梨花と結婚するつもりでいたし、そのことに対して疑いもしなかった。
でも、梨花はますますきれいになっていき、そしてとてももてた。
俺が隣にいてもなお、ナンパする男がいたくらいだ。
「なあ、俺○○高校に通っているんだぜ。
そっちの男より将来性がありそうだろう?」
なんて、あからさまに言うヤツもいた。
む。思い出したらムカムカしてきたぞ。
今度会ったら、殴ってもいいかな?
そして、高校を無事卒業して、俺も梨花も就職。
数ヶ月後に妊娠したことが分かった。
そのとき、今まで棚上げして考えてこなかったことが、一気に現実味を帯びてきてしまった。
はじめ、俺は家を出て二人で暮らそうと思っていた。
でもそのためには母親に仕送りをしなければならない。
母親の稼ぎだけでローンは返せない。
あと15年、ずっと仕送りを続ける?
15年?ずっと?
母は言った。
「うちで暮らせばいいじゃないの。
今まで使っていた夫婦の部屋をあなたたちにあげて、私は子供部屋にうつるわ。
こんな広い家、一人で住むのはもったいないもの。
あの人はどうせ書斎から出てこない。
ご飯さえ用意しておけば、夜中に食べるから。
だから、気兼ねなく使えばいいのよ」
父は相変わらず引きこもっていた。4年経っても変わらなかった。
これ以上待っても変わることはないだろう。
いきなりの同居、しかもロクデナシがもれなくついてくる。
俺が梨花なら全力で拒否する案件だ。
「赤ちゃんを育てるのって一人では大変なのよ。
誰かいる方が絶対楽よ。
一人で病院に行きたいときもあるし、美容院に行きたいこともあるし、一人で買い物もしたい。
そういうとき、いつでも面倒をみてあげることができる」
母は饒舌だった。
お腹の子供を誰より喜んだのは絶対にこの人だ。
「この家はあなたたちがずっと使えばいいのよ。
中古の家を買ったと思えばいいじゃないの」
母は梨花にとても優しかった。
いろいろなものをプレゼントして、梨花もまんざらではなさそうだった。
俺は母の下心を知っていたけれど、何も言えなかった。
何日かに一度か聞こえてくる、父の吠えるような声。
ときどき、床を踏みならす音。
それがどんなに不快なものか、経験がないと分からないだろう。
俺は梨花をそんな家に住まわせるのは嫌だった。
まして子供が産まれて、泣き声など聞こえてきた日には、それがどちらも大きくなっていく様子が今からでも簡単に想像できた。
だからそう、俺は誰かと結婚することなど本当は許されなかったのだ。
梨花の怒りはもっともだ。
…でも何故。
それは結婚式の後だったのだろう。
結婚式の前ならば、いくらでも破談にできたはずなのに。
俺は涙ながらも、きっとそれを飲んだはずなのに。