こころ
「向上心のないものはばかだ。かの夏目漱石は言ったが君はどう思う?」
井野雫はこちら見ることなく言った。
「みんな向上心ばかりだったら今頃タイムマシンは完成してるのにな。」
「間違いない。」
彼女はこの返答に満足したのか、ニコニコしながら本を読み続けた。
「停滞は必要なものだと私は思うけどね。まあ停滞しかしてない頭の中身が空みたいな奴もいるけど。でも君は違うだろ?学年2位。」
「まあ1位とは20点近く差があるんですけどね。なんで本しか読んでないのに勉強ができるんですかね?学年1位さん。」
「そんなの教科書見て覚えればいいだけだろ?」
彼女は写真記憶ができるらしく、見ただけで内容を覚えられるらしい。
「みんながみんな写真記憶できるわけじゃないんですよ、知ってましたか?」
「そうだな。でも見られないものなら覚えられないんだよ。例えば好きな人の心の中とかね。」
全く紅潮した様子をなく淡々と告げる。
「それをなんでHR前に言うんですかね?」
「向上心だよ。向上心。君との仲を発展させようとしているんだよ。これは褒められることなんだよ。夏目漱石も手放しで喜んでいるぞ。」
「恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。」
彼女なら気付くだろう。
「こころから引用してくるとはセンスがあるじゃないか。そうだな…あなたは学問をする方だけあって、中々御上手ね。空っぽな理窟を使いこなすのが。」
彼女も『こころ』から引用してきた。
「要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿なものでした。もしくは狡猾な男でした。」
「つまり自分はもう『こころ』から引用するセリフのネタが尽きた。ということでいいんだね?」
黙って頷くと、彼女は大きな声を出して笑う。
しばらくすると笑い疲れたのか、
「やっぱり君は面白いな。私は好きだぞ。村上直哉君。」
「あまり名前で呼ばないで下さい。」
「いいじゃないか。2人の小説家の想いが詰まったみたいだぞ。」
「それが嫌なんです。」
周りが静かになってきた。先生が廊下を通るのが見える。
「私は淋しい人間です。だから貴方の来てくださる事を喜んでいます。」
「えーと、つまり僕が学校に来るのが嬉しいってことですか?」
「正解。」
彼女は屈託のない笑顔で微笑んだ。
写真記憶できる友達を思い出しながら書きました。