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明衣がスカートのポケットからハンカチを取り出した。撫でるように髪に当てた。髪に付着した血液なのか絵具なのかを人が気にしない程度にまでふき取った。
三年四組の教室の前方の戸、開ければ黒板が目と鼻の先にある戸を、水城は開ける。「おう、遅いぞ」担任が声を上げた。しかしすぐに担任の顔は背けられる。その理由が水城にはわかった。
水城は後ろを振り返る。後ろには明衣が続いていた。
明衣がいたからだ――担任が目を背けたのは明衣に対して何か後ろめたいことがあるからだ。五感がそう言っていた。
あまり余計なことに頭を突っ込みたくはなかったが、それでも気がかりな点があり、思考をめぐらさずにはいられなかった。水城は黒板の端の空いたスペースで、ピースサインを作りながらも多分今の自分の顔が笑っていないんだろうなということはよくわかった。自分の表情を笑顔にすることはなく、ただ、笑ってない、無表情の顔してるだろうなということがぼんやりと脳内に浮かんだ。
――私を殺した奴がいる――明衣は確かにそう言った。最初は聞き間違いも疑ったが、何度思い出しても水城の頭に浮かんだ明衣の口は、確実に「私を殺した奴がいる」と言っていた。
それはどういう意味だ。気がかりだった。おそらくだが明衣の嫌いだという人は担任だ。でも、自分を殺した奴がいるというのはどういう意味だろうか。社会的に殺した、という言葉遣いなら聞いたこともあるが、別に今の明衣がそんなレッテルを貼られるようなことをされたとは聞いたこともない。物静かでクラス内で他の人と話しているところを見たことがないという意味では、「根暗」「ボッチ」「孤立」というレッテルが周囲から貼り付けられていると言えなくはないが、水城の印象では、明衣は根暗でもボッチにされたわけではないと思っていた。寧ろ、自ら望んでその立場になっているような気さえしていた。
「あれ」
教室中にいくつものデジカメ、スマホ、一眼レフのシャッター音が響く中、隣にいる明衣が顎をしゃくった。しゃくった先には、教室後方の壁に沿って並ぶスーツ姿の両親たちに、満面の笑みで応える担任の姿があった。
やっぱり、と水城は思った。明衣が嫌いだと言った人は担任だったのだ。
唾をゴクリと飲んだ。
「それで仕返しってのは?」
水城は冷静を装っていた。
「私ね、いじめられてたのよ、先生に」
「え、先生に?」思わず聞き返してしまった。思わず振り向いていた。誰かの家の父母が撮った写真の一枚には、クラスメイトが正面を向く中、水城だけが横を向いた写真が撮れていることだろう。
なんとなくいじめられるような子だとは前々から思っていた。教室内――廊下で見かける際は必ず一人だった。口数も少なく、声を聴くことと言えば、授業中教師が彼女を指名するときくらいだった。そのため、今、彼女と普通に会話していること自体不思議な感覚だった。一度も話したことがないというのに、まるで仲のいいクラスメイトのそれだ。
そんな明衣がだ。彼女のことを何も知らない水城の素性。いじめられていた――その事実に驚きはないが――いじめられていた相手が生徒ではなくまさかの教師だ。同クラスの真子が明衣をいじめていると耳にしたこともあった。だから先程廊下で明衣とすれ違った際、悪い予感がしたのだ。けれど明衣は、真子ではなく先生、と口にした。
「そう。先生が。わからなくもないけどね。学校の先生って嫌われ者だと思わない? 大体生徒の陰口のネタに使われてるイメージ。ドラマやらで生徒ひとり一人の私情にまで首つっこんで向き合ってくれる熱血教師のイメージが浸透してるからね、『あの先生私のことちゃんと見てくれてない』『この評価おかしくない? 適当につけてるでしょ』なんて陰口、この学校で何回か小耳に挟んだわ。でも実際教師なんて大変なものでしょう。公務員とはいえ仕事はたくさんあって、クラスの担任になったかと思えば、部活の顧問までやることになった。自分のクラス、教科、部活に加えその日その日でやらなければならない仕事が入ってきてしまえば結構大変な仕事だとは思わない? それ以外にも自分の家庭があれば尚更大変。女性だったら、教師プラス妻という役割が増える。子どもがいれば母親としての仕事が増える。一人三役。仕事に家事に育児に旦那の相手。そんな人が生徒ひとり一人のことなんて掘り下げて見られるわけないでしょう。三者面談でもあるまい、生徒は自分勝手に学校生活を過ごしているってのに、その自分勝手に過ごす姿を先生は見てくれないだなんて嘆く。横暴でしょう? まるで、はいはいができるようになったのを母親に見て欲しいと駄々をこねる赤ん坊そのもの。そんでもって給料は自分たちの払う税金だからなんだのって批判する。教師にだってあなたたちと同じように自由に生きる権利があるわ。クラスの生徒一人ひとり親身になって話を聞こうとする仕事って訳じゃないわ。よくて牧師よ。親身になって子どもに耳を傾けるのは親の仕事だわ。親がモンスターペアレントなら子も知れるわね」
確かにそうだった。生徒と教師、その間には溝がある。政治家と国民に還元して考えるとわかりやすい。政治家は国をよくしようとするが、国民個々人をよくしようとはしていない。というよりもできないのだ。国民は「私たちを見て」と無責任に批判するが、それは国民に責任がないからだ。責任を背負った政治家たちは、発言の一つひとつ、そしてその発言をどのタイミングで言うかなど、事情がたくさんあるのだ。発言力のある人間の発言は、重い責任がのしかかっている。生半可なことなど口にできないのだ。生半可に発言すればすぐに批判が返ってくる。政治家だって人間だ。黒い感情だって無きにしも非ず。そこは国民と何ら変わらないというのに、「私たちは税金を払っている」「税金が給料なんだろ」あらかじめ政治家は国民に批判されるのが決定事項かのような立場だ。野党はそれでいい。国民に「ふざけるな」と言われ、素直に「うるせえ、こっちにはこっちの事情があるんだ。政治家になったこともない奴が容易く政治家を語るな」と返答してしまえば明日の朝刊一面だ。メディアが賑わう。そして自らは政治家からの失墜。そこまで含めてが教師や政治家の仕事だと言われればそれまでだが……。
教師も同じようなものだ。多くの成人に満たない子どもの中に、数人の大人が混ざるのだ。自ずと長く生きてきた大人の方が子どもにとっては強く見える。強い者と弱い者が対峙したとき、生まれるのが溝。敵対心。揶揄。反骨。教師が反撃をしたら、罪になって職を辞めざるを得なくなり、「子どもになんてことを」「大人なのに」そうやって生徒の親からの攻撃、火の目を浴びる。それを生徒たちは知っていて、教師が反撃できないことを知っているからたちが悪い。
いじめ、ではないがそれに匹敵するような気がした。根付いた価値観にいじめの本質が隠された。かといって、そのいじめをしなければ、教師や政治家は立場に酔って生半可な仕事をする、可能性、もある。
水城は、未だ頬の緩みをひけらかしている担任の横顔を眺めた。屈託のない笑顔だった。
担任の屈託のない喜びようが、嬉しくも、憎くも見える。生徒たちを無事卒業させたことが嬉しいんだろうな、その裏で明衣をいじめていたなんて――ばれない嘘は強いが、その嘘を知っている者から見れば酷く醜く見えた。
まとまらない二つの思考が、水城の頭を薪割りでもするかのように斧を振り下ろす。担任から視線を外して俯いたところ、「テストが終わった日みたいな顔してるわね。数分の間にこんなに頭を使ったことがないって顔してるわよ」隣にいた明衣が口を挟んだ。
「とりあえず顔だけは上げときなさい。なんて言っても卒業式なんだからね、今日は」
水城は二つに割れた薪をくっつけようとした。グラグラと揺れそうな重い頭を上げた。隣の明衣との顔を見合わせない横並びの会話が続く。
「話は戻るけど、まあ、そういう教師の環境の背景を加味した上でも私はあの担任のことが嫌い。それとこれとは別の話なの。そういう背景があったんだ、だから仕方がない、しょうがない、じゃあ許してやるか、っていう思考回路が一番嫌いなの。こういう事情があった、仕事でくたくたでストレスが溜まっていたんだ、フラストレーションが溜まっていたんだ、娘にも手を挙げてしまった、ごめんなさい、そうやって泣きながら担任が弁明したとしても、私をいじめていい理由にはならないでしょう? 結果がすべてなのよ。私が受け取った痛みと担任が受けていた痛みは別問題。私は私が担任から受け取ったいじめが痛かったから仕返しをするの。それ以前に苦しんでいましたーなんて、担任の責任で私の知ったことじゃないでしょう」
「でも仕返しって、どうやって……」
ぼそぼそと話す水城とは対照的に、明衣は淡々と話した。
「私が受けた痛みと同じ痛みを受けてもらう。同じ屈辱を味わわせるの」
「何、されたの?」
「性的虐待やら、暴力やら。若年至上主義。人間なんて大抵ロリコンよ。少年法で守られてるからって、ニ十歳までのうちにレイプしまくった男の方がまだ許せるわね。大学生よりもおじさんの方が汚いのよ。あ、それじゃあ私もロリコンか」
水城が思っていた以上に被害は過酷なものだった。水城の開いた口が塞がらない。頭に担任と明衣が浮かんだ。放課後の鍵がかけられた空き教室――男子トイレの個室――体育館倉庫の薄暗闇――放送室――保健室。場所はいくらでも還元された。壁際に寄せられる少女――マットの上に押し倒され覆いかぶさる凶器――拳。腫れぼったい目の下――気を失った様に呆然と眺める虚ろい眼。がさがさと擦れる音と下校のチャイムが相まう。気づけば一人静寂の中に取り残され、暗い校舎をそっと抜け出し、街灯の明かりが眩しく目を背けながら歩く岐路、夜道。
水城は無意識に顔を振った。開いた口は塞がらないまま。想像したくないのに、溢るるばかりに流れ込む情景――空き教室の窓際にある机の上――果てた担任の濡れそぼったあれを咥え込む、前後の動き、卑猥な音の連続――手で擦りながら舌がチロチロと動く――淫猥な単語が飛び交った。男の口からではない。男は今にも逝ってしまいそうなくしゃくしゃの表情――発していたのは少女の口だ。少女は頬を紅潮させながら――まるで恋人のそれのような表情で必死に咥え込んた――。
水城は嫌な情景を振り払った。虐待や暴力――それを担任に還す方法――そっちの方に思考を巡らせた。
「でもそれって、私たちじゃ……」
性犯罪者にレイプを仕掛けたところで被害者の気持ちには程遠く、加えて女子中学生が成人男性に暴力で上回れるわけがないと思った。
明衣は水城の思考を見越していた。
「うん、わかってる。だから、それは許してあげる。でも問題なのはそこじゃないのよ。私、虐待やら暴力やらを受けて済んだわけじゃないの。その虐待と暴力で私は死んじゃったのよ」
さっきもそんなこと言っていた、と水城は思い出す。「私を殺した奴がいるの」髪に付着した血液なのか絵具なのかをハンカチで拭きとっていた際だ。彼女は片手間で「私を殺した奴がいるの」確かにそう言った。
「えっと、それってどういう意味?」
「意味なんてわからなくていいの。こう考えてみてはどう? もし、あなたの仲のいい女の子が担任に犯され、顔を殴られ、家に帰って泣いた。性について親に話すには恥ずかしく、一人で抱え込んだ。母親に話そうと決心したが、話そうとしているのに口がついてこなかった。女の子の頭には被害当時の映像が映っていたわ。その気持ち悪すぎる映像に耐えきれず、女の子は自殺した。
直接担任は女の子のことを殺してはいないけど、でもこれって担任が殺したとも言えるわよね? 自殺した女の子と仲の良かったあなたは、担任に復讐しようと決意するわ。
私も同じ。その女の子みたいに担任にいじめられて自殺する手前、いや、死ぬ寸前なの。今にもそこの渡り廊下の窓から飛び降りそうな衝動に駆られているけど我慢しているの。やっぱり死んでからじゃないと復讐する気にはなれない? 私が死ぬ前でも死んだ後でも担任が私に与えた痛みは同じよね? 死ぬギリギリの手前で耐えている私と、死んでしまったあなたと仲の良かった女の子とどこが違う? 同じよね。担任がいじめたって事実は同じでしょう? そこに上も下もある? 友人がいじめられて死んだから後付けで復讐するの? 再三いじめられても耐えて生きている友人の復讐はしないわけ? ねえ、同じだと思わない? ねえ、そうでしょ? どう考えても理に適っているわよね?」
明衣の言葉には説得力があった。確かに、と思わせられるそういう理屈だ。
水城は、常日頃から自分のことは自分で決めたいと思っていた。日常生活での行動や選択肢を与えられた場合、周りに何と言われようと自分が決めた方を選ぶ。その信念に従って明衣の言葉を聞いてみても、大きく頷く他なかった。辛くて死んでしまった人と、辛くても耐え凌いで生きている人。その程度辛くもないだろうと世間の批評に当てられ死んでいった人と、「これくらい平気ですよ」と見栄を張り、家のベッドでうずくまりながら泣いて、再び見栄を纏って明日を生きている人。
『死んだ』そればかりが悲しいと捉えられ、耐え凌いで生きている人のことは悲しいと捉えられない。当然だ。耐え凌いで生きている人は他人に助けを求めたりしない。他人に自分の現状を話したりしない。他人に辛そうな様子を見せないどころか平然と、ときに笑ってにこやかに自分を見せる。いじめられた、そのことに対して羞恥を抱いているかもしれない。性暴力であれば尚更。それが一人で「耐える」という言葉の意味だ。
努力家や真面目な人ほど周囲に努力を、努力の過程を見せようとしない。何も知らない周りの人間は「頭いいんだから」と思うだろう。頭がいいのだから仕事を多く押し付けるだろう。「頭が悪いから人一倍努力をしている」とは夢にも思わないのだろう。
確かに……。
頭がいい、頭が悪い、死んだ、生きている、二つの状態でしか表せない表現に騙されているのだ。頭がいいのは天才だからではなくたくさん努力してきたから。生きていようが死んでいようが苦しいものは苦しいし、痛いものは痛い。隠そうが隠さなかろうが受け取った量は同義。死んでしまったからふざけんな、なのだろうか。自殺が未遂に終わって心からよかった、なのだろうか。
違うだろう。死んだって生きていたって、辛かったらふざけんな、だ。痛かったら返さなければならない。
受けたその痛みを。日常――似通ったシチュエーションで毎度毎度フラッシュバックする痛みを。一生背負っていかなくてはならないそれを。受けた痛みのせいで取り逃がしてしまった幸の免罪符を。
返してもらう。
与えてやる。
明衣は耐え凌いでいたこと、隠していたことを水城に告白した。なぜ今。なぜ私。どうでもいいことだった。彼女が話したくないことを話したその事実だけで、涙が滲むほどの感動ポルノ。え? 違うでしょ。普通に感動したんでしょ?
「私を助けてくれるよね? 私と同じ痛みを担任に味わわせてほしいの」明衣は、まだ正面を向いていた。教室後方に並んだ保護者達の切るシャッターに視線を泳がせている。水城も同じく、保護者の方に視線は向かっていて、水城と明衣の視線は合わさっていない。
「つまり……」
「殺してほしいの。絞殺よ」
「でもどうやって……」
「簡単よ。あなたはひもを引っ張るだけでいい。そう。ひもを引っ張るだけ。だから殺人にはならない。あなたはただ、ひもを引っ張るだけなんだから」




