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擬死態  作者: 面映唯
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二、水城の罪

 空気がひゅうひゅうと鳴っている。人間が燃える様は何とも言えなかった。でもあたしはそんなこと気にしていられる立場じゃない。自分の罪を隠せるなら、他人の命なんて関係ない。あなただってそうするでしょ? もし、通りがかりで屈強な男たちがひ弱なサラリーマンの男をリンチしていたとして助けようと思う? 関わりたくない、関わったら終わりだと思うでしょう? それにそんな状況に陥ったひ弱なサラリーマンにも非がある、まあ自業自得だし自分には関係ない。そうやって今まで見て見ぬふりをしてきたことなんてごまんとあるんじゃない? あたしを侮辱したいならその罪を贖罪してからにして。


 誰だってそういう状況に置かれればそうする。偶にその考えを覆すような類い稀ないい人がいるが、でもその人はその人。あたしはあたし。そういう信念は、法以外に、法ですら誰にも裁けないはずだよね。


 だからあたしは自分の行動に責任を持つ。普遍的に穢いと言われることをするときはそれなりの覚悟をする。誰かの信用を失うかもしれない。でもあたしはあたしのために生きてるんだし、誰もあたしを生きてはくれない。


 それがあたしの信念だから。


 一瞬見えた中庭で燃え行く真子の姿は、無残なものだった。「助けて」と息詰まる声を背中で何度か聞いた。同情したよ。助けることができるなら助けてやりたい。でも、あたしはあたしの決めたことを一番に信じる。だから同情したけど真子のことを助けないために、真子の背中にライターの火をつけた後、振り返り、すぐにその場から離れた。次に「助けて」とかすれた声があたしの耳に届こうものなら、善良な人間の血が騒いで無造作に助けてしまいそうな気も少なからずしたから。だから走って中庭を抜けた。追いかけられたらたまったものではない。


 あたしは逃げたの。見て見ぬふりをしたの。真子だってここに居るってことは少なからず何かしらの世間にばらしたくない罪を犯したってことでしょう。だったら自業自得よね、って。何されても文句言えない立場よね。


 美人で優しい。あたしは散々そう言われてきた。これは自慢じゃなくて結果だ。「美人で優しいのになんでこんなところにいるの?」何回か聞いた言葉だった。適当に「えーそんなことないよー」とへらへら答えていたが、その問いに今本音で答えるとしたら、「美人で優しいからだよ」と真顔で言える自信がある。


 キャバクラとソープの差って何なんだろうね。身体を売るってだけで客はいつもあたしを下に見ている。風俗、という言葉はいつから性風俗と一体の意味を孕むようになったんだろう。どうでもいいことだった。


 世の中の大抵のものは金で買える。そこに上も下もないじゃない。あなたたちが焼き肉屋で口にする牛肉の希少部位は、牛の世界では性風俗みたいなものじゃない? 身体が売られているんだから同じようなものでしょう。悪く言えば死体解体、臓器転売だわ。


 そういう見かけのことが、いつからか(わずら)わしくなっていた。


 廊下を駆ける最中、窓から見える中庭では轟々と炎が燃えている。真子の暴れる姿は見えなかった。甲高い悲鳴も聞こえなかった。燃え盛る炎の真ん中でくたばっているのだろうか。それとももう溶けて骨になってしまったのだろうか。真子の身体と一緒に、あのタイムカプセルの中身も多分燃えてしまうだろう。そのうち校舎にも燃え移るんじゃないか。それはわからないが、炎の勢いが強いのは確かだ。早くこの学校を出なければ。


 昇降口に向かった。



間宮(まみや)真子にガソリンを頭からかけ、火をつけて焼死させる。そうすれば、お前の罪は忘れよう」


 学校に来た際、見知らぬ男にそう言われた。あの四人の中で一番最初にこの学校に来たのはあたしだ。あたしが来たとき、玄関にスリッパが四つ並べられていたからきっとそうだろう。久々の母校を見て歩こうとひとりで歩いていたところ、保健室の前であたしは足を止めた。何度かお世話になった保健室だ。当時悩みがあれば何かと保健室に足しげく通い、養護教諭に話を聴いてもらった。あたしが保健室に行くと、いつも出してくれるレモンティー。あたしが来るときのために買ってくれていたと知った卒業式前日は、思わず涙を零してしまった。「ちょっとー、卒業式の前に泣いてどうすんのよ」記憶のレモンティーの香りが目に染みる。


 そんなことを思い出していると、隣から声がした。そこにいたのが見知らぬ男だった。


「誰ですか?」

「名乗るほどの者じゃない。それより、お前はなぜ今日ここに来た?」


 男の問いに、あたしは素直に答えられなかった。「同窓会だって言うから」とありきたりな返答をした。


「タイムカプセルが気になるんだろう?」


 頭に浮かんでいた言葉を言い当てられ恐縮する。まさにその通りだった。当時はタイムカプセルを一人で掘り返そうと何度も思案したが、結局遣らず仕舞いだった。学校は卒業生を手軽く受け入れてくれるようなところではなく、きちんと受付で氏名、生年月日などの必要事項を書かなければ立ち入らせてくれない。おまけに、入っていいのは生徒が下校する十七時までだ。夜に忍び込むことも考えたが、警備システムがあるため忍び込むのも危ぶまれた。


 そんなタイムカプセルに振り回されていたのもたかだか卒業してからの一、二か月程度で、その後は高校生活を満喫していた。新しい友人と遊び歩くことが多くなり、家に帰る時間も遅くなった。自分の生活に夢中でタイムカプセルのことなど忘れてしまっていた。


 しかし、先日中学のグループラインに思わぬメッセージが届いた。「タイムカプセル」その言葉を見た途端、卒業してから一、二か月のあたしに舞い戻ったみたいにタイムカプセルについて考えるようになった。


「あの中に入ってる明衣の作文に何が書かれているか知りたいんだろう?」


 正鵠を射ていた。そう、まさにあたしはそれを知りたかった、いや、知らなくてもいい。葬りたかった。


「最近子どもが生まれたんだってな」


 ああ……。


「未婚で子どももいなかったら、きっとここにも来なかったんだろうな」


 そう、そう、そうなんです、なんて口には出せなかった。


 きっと独り身だったらあたしに罪人のレッテルが張られようとどうでもよかった。でも結婚してしまった。それどころかつい最近だ、娘が生まれた。あのときの幸福。抱き上げたとき、同じ人間の手とは思えない小さな掌。肉厚な手の甲。二頭身の赤ん坊。


 可愛い、慈しみで溢れた。


 これから先、一緒にお出かけして、散歩して、ソフトクリームでも食べて――娘はいつの間にか成長していて、反抗期は少し寂しい気もするが、大人に近づくにつれて、母親のあたしと赤ん坊の頃みたいに一緒に旅行にでも行って、いつか娘が嫁いで実家からいなくなるまで――その成長を見届けなければならない。


 そこに至る前に、急転直下の転落、そんな家族環境には死んでもしきれない。


 昔のあたしだったら、「そんなものしるか。勝手に警察にでも行ってこい!」と半分匙を投げる勢いで開き直っていたはず。今にも喉からその言葉が出そうだった。頭では男に吐き散らして去ろうとするあたしの姿が目に浮かんでいた。

 が、やっぱりそれは目や頭に浮かぶだけの空想で、


「……どうすれば、忘れてもらえますか?」


 現実、そんなことしか言えなかった。


 あたしには守るべきものができてしまった。赤子の笑顔、夫の笑顔、思い出すだけで目に染みる。心から大好きな夫だ。心から大好きな娘だ。これがもし単に、大好きな夫や娘だけど偶にイライラする、政略結婚、なんで結婚したんだろう、離婚の可能性、みたいに多少でも「まあいいか」と思えるような部分があったらまた違ったんだろう。


 私を選んでくれた二人だからこそ、その二人を苦難の道には乗せたくなかった。


 男は胸の前で腕を組んだ。


「簡単だ。俺の言うことを聞いてくれればいい」

「何をすれば……」

「間宮真子、あいつを殺せ」


 は? と思った。やらせろって話じゃないの? 本来なら法で裁かれる罪であり、それを忘れるというのだから、お使いに行ってこいというような並大抵のことではないと思ってはいたが……まさか、そんなことはできないと善良な人間の血が騒いでいる。


「それは……ちょっと」

「間宮真子にガソリンを頭からかけ、火をつけて焼死させる。そうすれば、お前の罪は忘れよう」


 何を言っているんだ、この男は。さらに重い罪を犯せばあたしを許すだって? 


「無理ですよ」


 本音だった。はず。


「本当に無理か? 大事な人を守るために人は殺せないか? お前が罪人になったらご近所からは白い目で見られるんだろうな。父親は会社でパワハラでも受けるんじゃないか? だって罪を犯した嫁の夫だからな。贖罪のために仕事を押し付けられ、さぞ苦しいだろうな。ストレスが溜まるだろうな。部屋に空き缶が増えるだろうな。コンビニ弁当のカスが散らばってるんだろうな。家を掃除する人がいないから汚くなるだろうな。自殺したい。そんなときに支えてやる嫁は家にはおらず、刑務所だもんな。呆れるよ。まあ、犯罪者のお前に自殺を止められる夫の気持ちも知れるがな。

 娘は学校でいじめられるかもな。「お前の母ちゃん犯罪者ー」って純粋な子どもの言いそうなことが目に浮かぶ。純粋なのはお前の子どもも一緒だ。母親が犯罪者でいじめられれば、自分はそういう役目なのかと次第に思い始めるだろう。いじめられて当たり前、だってお母さんが犯罪者だから。犯罪者の子どもはいじめられなければならない。それが普通。それが純粋。

 もう一度言う。本当に殺せないのか? 大事な人を守るためでも犯罪に手は染められないか? それとも憎み続けるのか? 罪人の加害者家族ってだけで二次災害に会ってしまう穢い社会を」


「いえ」


 思った以上に早く口走っていた。真子ちゃんを殺さなければ、あたしの罪がばれる。罪がばれてあたしが捕まったときの二次災害は、男が今話した通りで、あたしにも想像できた。マスコミが家に押し寄せる光景はドラマで見たことがある。夫の憔悴具合、娘の受け入れて感情を失くした表情、あたしが警察に捕まって、数十年後に釈放されたとして、そのとき夫と娘は刑務所の塀の前であたしを出迎え、こう言う。


「お帰りなさい、僕の妻」

「お帰りなさい、私の母」

「やっと帰ってきた」

「私たちだけじゃ手に負えなかったものね、ねえお父さん?」

「ああ、今までの鬱憤、全部押し付けような」

「ねえ、血の繋がったお母さん?」


 二人が無表情で、厭味ったらしく、憐れみと憎悪を表情に醸し出しながら一定のリズムで話す光景が想像できる。想像したのが「お帰り!」「お帰り!」そう言って抱きしめられて、「ずっと会いたかった」なんて言ってくれるものだったらどれだけ幸せだっただろうか。男に嘘をつき、真子を殺すことを放棄してバックレたはずだ。優しい私の家族なら、きっと許してくれる。情が溢れて涙さえ流しただろう。


 しかし、私の頭は醜い方を想像した。醜い方を想像できてしまうあたしの性格は根っこから黒く腐っているのだ。一度腐敗してしまったら、腐敗を止めることはできても成熟していた頃には戻せない。何十年とそこに根付いた大木は、ちょっとやそっとのことでは引っこ抜けない。


 あたしが過去に犯した罪、男がばらそうとしている罪は、真子を殺すという罪と同等のもの。一回も二回も変わらないよね……。うん。そんな気がする。ばれなければやってないと同じ。ばれるかもしれない、いつか誰かにそれをネタに脅されるかもしれないと怯えながら生きていくのは億劫だが、今は先延ばしにするしかなかった。せめて娘が成人するまで。家族のためなら自分を売れる気がした。それくらいの覚悟があるのなら、罪への背徳感を背に生きることなんて毛ほどでもないはずだ。

 そうだ。

 そうに違いない。

 腹が決まった。


「やりますよ。元々醜い人間なので」


 そう答えると、男は「ほう、いい面だな」と言った。すぐにガソリンの場所を教えてきた。保健室の戸を開け、「あそこに赤いやつがあるだろう。あのガソリンと……」男は保健室の中に入り、養護教諭の使っていた机の引き出しを開ける。そこからジッポライターを取り出した。


「ここの引き出しにジッポがある。使い方はわかるな?」

「ええ、煙草吸ってましたので」


「話が早い」男は微笑んだ。「この後、セーラー服に着替えてもらうことになる。そのときお前が別の誰かと一緒に着替えることもなくはない。念には念をだ。今ジッポを持っていくのはよしてくれ。いいか、お前は間宮真子を殺すことだけを考えろ。訳の分からないアナウンスが流れても迷うな。ただ間宮真子を殺せ。アナウンスが終わって自由行動になったら、真っ先に保健室に行け。ガソリンとジッポを取りに行け。そして間宮真子を焼死させろ。そうすればお前の罪は忘れてやる」


 男はそれを言い終えると保健室から去った。あたしは男に言われたことを頭で整理しながら、三年四組の教室へと向かった。


 真子にガソリンをかけ、火をつけたらそのまま昇降口で靴を履き替えて帰っていいということだった。男が何を企んでいるのかは知らない。でもそれで夫と娘を守れるのならそれでいい。理屈など考えても仕方ないのだ。重要なのは結果だけ。



 中庭で炎が燃えている音が聴こえていた。あたしは玄関へと急いだ。やることをやってしまえばこんなところにいる必要もない。さっさと家に帰って二人の笑顔が見たい。


 昇降口にたどり着き、下駄箱に入れてあった靴を取り出して履き替え、スリッパを揃えて駆け出そうとした。そこで異変に気付いた。あれ、なんか、痛い。……画鋲? 靴、見てみようか……指の先、多分刺さったような……あれ、刺さって、ないかな。あれ、おかしいな。


 水城が一度履いた靴を脱ごうとしたそのとき、下駄箱の陰から人の手が伸びた。輪っかにしたロープが水城の顎の下にかかる。そのロープは右側の下駄箱の上を伝って反対側に落ちている。


 水城の首にロープがかけられた後、素早く下駄箱の裏に移動し、力強くロープを引っ張る――引っ張ると宙に浮き足をばたつかせ、緩めると地べたにへたり込んだ、これ、なーんだ。


「屍」


 担任の気持ち、少しはわかった気がした。あたしにもまだ、善良な人間の心が残っていたみたい。ああ、結婚しなきゃよかったな。子どもなんて産まなきゃよかった。生半可に生きてたんだよあたしは。真偽は関係ない。自分が信じた方の道を進めばよかっただけなのに……。


 世の中の風評と倫理感の真偽に迷って、うだうだしていた最近のあたしが、一番の愚劣のように思えた。


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