《卒業式1》
卒業式の日まで真子のいじめは続いた。
いじめる理由なんてなかった。目の前にイラつくやつがいたらイライラするでしょ? だからそれを発散させるために真子はいじめ続けた。
卒業式が始まる直前だ。明衣がトイレに行ったのを見て、真子は口元を綻ばせた。自分は酷く鬼畜な人間だと思えた。だからと言って鬼畜な人間をやめるつもりはない。学校の隅っこで怯えているよりも、学校の隅っこで権力を行使する方が圧倒的に効率がいい。権力は見せびらかさなければ権力ではない。相手に恐怖を埋め込まなければ洗脳できないのと同じ。いざという時のためだけに護身術を習うくらいなら、普段から相手をぶちのめすことができる格闘技をやった方が効率的だ。攻撃は最大の防御ともいう。行使し続ければひっくり返されることも少ない。
真子は後を追うようにトイレに向かった。やることは決まっている。幾度となく明衣にしてきたことだから手慣れている。
以前は明衣がトイレに入ったことを、空き教室の隅から、廊下の角から、確認してからトイレの戸を開けた。しかしそれは以前までの話。確実に南校舎二階のトイレに入ると真子は知っていた。要は手名付けているのだ。「トイレに入るときは南校舎のニ階な」真子は口酸っぱく言って聞かせた。「逆らったら――」脅した。実際に別のトイレに入った明衣を見つけ次第いたぶった。彼女は何回か気絶を経験した。それからは、学校内で南校舎の二階以外のトイレに明衣は入らなかった。
――明衣は確実にそこにいる。真子は口元に笑みを浮かべながら南校舎二階のトイレの戸を開けた。清掃用具のロッカーの戸を開けると清掃用のシンクがある。中にあるバケツを取り出し、それに水を並々に入れるだけ。明衣は馬鹿だ。なぜか清掃用具のロッカーの隣の個室にいつも入る。別の個室に入ればホースでなければ水をかけることができない。バケツの水で一気にびしょびしょにさせるためには、清掃用具のロッカーにあるシンクの淵に上って、そこから隣の個室にバケツを空けなければならないからだ。
最後の最後まで馬鹿だ――そう思いながら真子はシンクを上った。壁の淵に手をかけ、背伸びをすると、ぎりぎり隣の個室内が覗けた。明衣が便座に座る姿が見えた。片手で持っていたバケツを持ち上げる。個室の壁の上にバケツを乗せようとしたとき、いつもとは違うことが起こった。明衣がしゃべったのだ。「最後の最後までそんなことするんだね。今辞めれば全部許してあげるけど」
真子は不思議に思ったが、ここまで来て止まる手ではない。バケツを個室の壁の上に乗せ、底を押して傾けるようにバケツごと放った。うまくバケツが下を向いたようで、いつも通りばしゃー、という音だけが鳴った。ずぶぬれになった明衣を想像しただけで胸が高鳴った。口元が綻んだ。自分でもにやけていることが分かった。見届けることはせず、シンクから飛び降りてトイレの戸を開け放った。真子は楽しみで仕方なかった。何事もなかったかのように体育館に入場する列に戻った。
真子は列に戻った後も変わらず楽しみで仕方なかった。これから明衣がどんな姿で入場するのか。ずぶぬれのまま入場するのも面白い。運動着に着替えて入場するのもまた滑稽だ。頭に想像しては興奮が収まらなかった。
名簿順で明衣は真子の十人ぐらい前だ。だから入場する際の明衣の姿をしかと後ろから眺めることができる。はは、楽しみだ。一緒にいじめたことのある前の女子生徒に「いま明衣のやつに水ぶっかけてきた」「マジで!? あんた鬼畜じゃん!」と話しながら二人でくすくすと笑っていた。
その笑顔が凍り付いたのは次の瞬間だった。真子の隣を颯爽と通りすぎたのは明衣のはずだ。なのに彼女の服は濡れていない。それどころか髪の毛まで乾いている。なぜ、なぜ、なんで……前にいた生徒が「明衣全然濡れてないじゃん。嘘つくなよ」と、ほら吹きとなった真子に呆れていた。「あれ、おかしいな。ほんとにかけたはずなんだけど」と返答するので精一杯だった。
結局、後味の悪い卒業式となった。式中、真子は明衣のことで頭がいっぱいだった。どうして、なんで、とずっと頭を悩ませていたが、次第にその理屈がわからないという苛々の矛先は、明衣に向いた。ふざけんなよあいつ、許さないから――そう思ったときに思い出したのが、トイレの中で明衣が呟いた言葉だった。
――今辞めれば全部許してあげる――
許すのはお前じゃねーんだよ。
立場のわかっていないその言葉に、真子の苛々は更に積もった。
最後に何かしてやりたくなった。クラスでの最後のホームルームが終わり、真子は仲のいい生徒には目にもくれず、一目散に明衣の席に向かおうとした。今に見てろ、と。そう思って一歩を踏み出そうとしたとき、「ついてきて」と背後で呟かれた。即座に振り返るとそこに明衣の姿はなく、教室後方の扉からちょうど姿を消したところだった。――早くない? と真子は一瞬訝った。明衣の席を確認するが、そこに明衣の姿はない。
イライラが沸点に達しそうだった。生意気、生意気生意気生意気。なんなの、あの自信満々な態度。ムカつくムカつく。私に散々いじめられておいて、あいつは私に逆らえる立場なの?
クラス内でどのグループにも所属せず一人で過ごす明衣は、真子から見れば差別対象になり得る立場の人間だった。
――うざい。そう心の中で吐き散らして真子は教室を出た。廊下の先に、明衣の姿がある。左に曲がった。すぐに走って追いかけた。真子も左に曲がった。渡り廊下を渡って、教室棟とは反対側の棟、視聴覚室や化学室などの南棟に明衣は消えていく。すぐに後を追う。
「遅いじゃない」
後ろから声がし、咄嗟に振り返るがそこに明衣はいない。前を向き直るとそこに明衣がいる。不気味に微笑んだ。嘲笑に思えた。
ムカつくムカつくムカつく!! 真子は明衣を殴りつける寸前まで血が上っていた。明衣が化学室に入った。真子は追った。明衣が窓際に向かって歩く背中。今すぐその背中を振り返らせて、胸倉をつかんで、顔をひっぱたいてやる。
脳内で真子が想像した通り、現実はほぼ、その通りに進んだ。窓際にたどり着いた明衣が振り返ると同時に、真子の手が明衣の肩を掴み、対峙した。「タイムカプセル、開けるの楽しみね。私があなたにいじめられていたことを作文に書いていたとしたら、他のみんなはどう思うかしら。このご時世……」明衣が微笑む。「しゃ、しゃ、しゃか」と何度も口にした――何よその顔。社会的に抹殺とでも言いたいの? 胸倉をつかんだ真子は、思いっきり右腕を振りかぶった。躊躇なく明衣の頬をひっぱたいた。その勢いで、真子の左手からするりと抜けた。
カーテンが揺れていた。
真子は逃げた。




