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先程まで息をしていた身体が地べたに寝転んでいる。顔が腫れた主婦は悲惨なものだった。店長の首はどこかの民族のように長く、赤い手形が残っていた。唯一幸せそうにくたばっているのは、強姦したい男と強姦されたい女の二人。穴に突っ込んだまま目を閉じちゃって、なんて幸せそうなんだ。なんて幸せそうなんだ。なんて幸せそうな顔なんだ。なんて憎たらしい顔なんだ。壊してえ壊してえなあ――青年は裸の男の頬をぺちぺちと叩いていた。すでに裸の男も女もこと切れていた。店長の首を絞めていた女子高生も、主婦をサンドバックにした男子高校生も同様だ。
すべて青年が思い思いの方法で殺していた。アダルトビデオに男の顔が映りこむと萎える。裸の男の昇天する顔など見苦しい。顔の表面をカッターナイフで削り取った。女の昇天する顔はさぞかし世の男性の興奮を誘うだろう。喉仏めがけて鍬を振り下ろした。みんな大好き女子高生は、若年というだけで憎たらしい。ロングヘアーの髪をハサミで切り、ショートヘアーにした。男子高校生の履いていたスラックスとシャツを着せた。「若い女の利点を駆使するのは構わない。でも気にくわない。お前は男として死んでくれ」喉元をカッターナイフでさばいた。
彼ら六人の利害は一致していた。そして、利害の一致した六人がそれぞれ行為に及ぶ姿を目撃する――という青年のあるまじき羨望とも紐づいた。ただ一つ、紐づけが行われていないのは、青年が思い思いの方法で三人を殺したという一点――殺しただなんてとんでもない。顔面を輪切りにされた裸体の男の手にそぎ落とされた自らの薄っぺらい仮面の化けの皮、打ち首となった自らの頭部を枕にして掴む両の指先、裸体の女の首から噴射した血液でにこちゃんマークを描く。二人の陰部は繋がれたまま、それは現実味を帯びたモニュメント。乱雑に切られたロングヘアーだった黒く艶のある髪が羽毛のように散らばっている。仰向けに倒れている稚いスラックスを履いた男の女子高生。白目を剥き、細長くなった首を自ら絞めていたような格好の中年の男と二人、川の字でおねんね。右手にカッターナイフ。左手で農耕の鍬を引きずり、徳利を咥える青年。青年は天井を見上げる。喉仏が連続で上下する。喉元をじんわり熱くするアルコール。青年は西瓜の種でも飛ばすように徳利を吹き飛ばした。割れる音が静寂に響く。右手の袖で口元を拭った。袖についていた血が、青年の口元を赤く彩った。これは口紅。右手のカッターナイフを放った。ポケットから煙草とライターを取り出した。ライターの火が紙巻の先に宿る。薄い煙が充満した。美術館内を歩くように、ゆっくりと、じっくりと、眺めた。青年にとって至極当然の行為だった。芸術が目の前にあるのならじっくりと眺め、掘り下げる。青年は窓の外へと振り返る。窓からの光が煙を煌びやかに見せた。
芸術は空想である。空想であるから芸術である。虚構は安寧だ。美しくなる。自我がない。生み出された架空の自我に魂が宿る。それを人の目を通させ現実にした。
六人と青年の間で利害が一致してないのはここだけだった。
嘘――を前提に世の中が回っていると知った。
自分の見ている真実は何だ。
青年の母親は正しかった。母親は己の欲と金のために息子を売ったのだろうが、無自覚とはいえ半分正しかった。
青年は一週間後に薬の効果によって余生を終える。窓ガラスには薄く青年の容貌が映っていた。煙草を吸い、煙を吐く。
「何をしてるんだ俺は……」
夢から目覚めるといつもそうだった。夢で見るのは大抵誰かをいたぶる夢だ。優しい母親が自分を無視した。それだけでこの上なく激怒した。母親の肩をひっつかみ、公共の場だろうと公衆の面前だろうと、そこがスーパーであろうとでかい声を上げた。「ふざけるな!」聴こえているのに無視するんじゃねえ。母親の怯えた表情と申し訳なさそうな顔が見えても、昂奮は治まらなかった。「どうして! なあどうして!」怒号を上げて問い詰める。頬を張った、のかはわからない。そんなことができる性格でもない。そんなことをしたら数時間後省みて申し訳ない気持ちになる。なんてことをしてしまったのだと、取り返しのつかないことをしてしまったと悔恨する数時間後の未来を忘れて、昂った感情のままに感情を吐き出し続ける。
青年は夢から目覚め、取り返しのつかないことをしたと涙を流した。なんてことを――指先が震える。指先から煙草が落ちる。涙が運良く地面の火種に落ちた。こうなるとわかっていながらやめられない。優しい人間はいつもそうだ。心の底から優しい人間だと思ったことは一度もない。「優しい」という仮面を被っているに過ぎないからだ。優しい人間は周りに気を遣う。誰かの自由を支えている。愚痴にしても、家庭、職場の取り巻く空気にしても、絶対に自分の本音を口にしない。誰かが愚痴を吐く。簡単に共感できた。同時に愚痴の対象にも同情した。その人にはその人の事情があるんだよ。少し我が儘じゃないか。どうか争いごとにはならぬよう――安寧を祈ってその場をまとめる。深く共感するように何度も肯き、「そうだよね、そうだよね」とひたすら首を縦に振る。無意識に自分を殺していく。それが優しい人間だ。本人も無自覚なまま自分の心を傷つけ続ける。
ふと目覚めたとき、いつも死にたかった。無意識に自分を殺し続けていたと気づくのは、いつも夢を見て目覚めた直後だった。飯をたらふく食べ、転がるように寝床へ入る。眠りにつく。誰かをいたぶる夢を見、そして目覚めた後、なんてことをしてしまったのだと優しい心がぐずりだす。
不条理だ。
自分を押し殺さずに優しくできる人間がいるのなら、話を聞きたいから教えてほしい。
他人の気持ちを慮れない人間がいるのなら教えてほしい。
優しい、と言われる人間が心の底から優しいはずがない。誰かの我慢の上に成り立つ自由を、誰かの我が儘が優しい人間の首を緩く締め付けることを、青年は知っていた。誰かの自由の代償と、誰かの我が儘の代償が、優しい人を化け物に変える。なんて不条理な世界なんだ。なんて滝のような愚痴を聞き、自分は可哀想な人間だとアピールする人の表情、愚痴を自らも共有している――陰口を一緒になってしているという背徳感。愚痴の対象者への心からの哀れみ。人なんて千差万別なのだから当然のことなのに、どちらかが我慢をしなくてはならない環境。どちらもが我慢せずに利便性をよくしようとは思わないのだろうか。誰かが我慢し、誰かが失ったものの代償を支払うことで、本当に環境が整備されるのか。新たな反発を生み、鬱憤をため込み、我慢ならなくなった片方が非行に走り、その理由を知ったもう片方は「私は悪くない」と自己を正当化しようと必死になり、政治家に責任転嫁し、争いを生み、皆が縛られていくばかりだ。それが自分の家族や恋人であっても、本気でそう思えるのか?
お前が嫌いだ――そう言えたら。
お前が嫌いだ――そう割り切れたら。
お前が好きだ――そう言える日は永遠に来ない。
じゃあどうすればいい。
お前が嫌いだから、お前以上に喧しく生きる。
革新は必要だ。
青年にそんな勇気も力も余力もない。
残っているのは緩く締め付けられ続けた、「優しさ」に満ちた弱弱しい首だけ。
薬に溺れられたらどれだけ幸せか。ゴムに薬を塗りたくり行為に及べば、明日の自分は相手の女性に申し訳ないという気持ちを抱かないだろうか。薬を飲めば、諏訪湖の御神渡りの上を堂々と歩けるだろうか。神様の足跡をたどれば神様に会えるだろうか。あわよくば神様になれるだろうか。天橋立を歩きたい。心臓にカッターを刺せば、地に滴った血が島を消し去ってくれるだろうか。この幻想を、優しい人が馬鹿を見る光景を、大して意味もない言葉の矛を真に受けて姿を消す主婦を、嫌われているのを知って大の大人が涙を堪えて平然としている……店長を、「どうして私は生まれてきたの?」と己に問い続けたJKを、愛したいのに愛されたいのに愛されることにおびえ続けた男を、体に傷を負い続け無言で誰かの悦を満たしてきた女を、涙を流し、通り雨に打たれ、涙か雨かわからなくなって泣き崩れる幻想と、馬鹿を見せた張本人がのうのうと生きる対比を、消し去ってくれるだろうか。
くぐもった窓ガラスには青年の顔が映っていた。血濡れのシャツ、左手に鍬の柄、右手に煙草はない。頬に張り付く誰かの血痕。涙に溶け、顎の下に流るる薄い血筋。滴った涙と血液は、地面の煙草のフィルターを汚した。自分の唾液と涙と誰かの血液が相まってイザナギ様の血になってはくれないだろうか――。
こびりついて消えなかった空蝉の嘲笑が。散った。
暁、淡雪が、空と大地の二面を急速に侵食した。邪悪は泡沫のようにブクブクと浮かび上がり、建造物、形あるものはぱちぱちと儚く弾ける。全部真っ白になったところ、西の空が東雲、風花に当たって舞い降り始める。夕日に映った薄雲を縫う一陣の朝ぼらけ。雲は陽に譲り、真っ白に染まった大地を照らす。熱を持った大地がじわじわと鳴り、湯の糸があちこちから登り、原型を変え、再生してゆく。
もののあわれ。出来上がったのは雅でも地獄でもない。
見れば、景色は百八十度変化した。
訝れば、景色がもう百八十度回った。
それは、災厄を抱えたままの常世であった。
破壊し、真っ新にし、創造したそれは、優しく、甘美で、美しく刷新されたはずだが変わらずそこに在った。
青年はゆっくりと笑い始めた。ゲラゲラと笑い始めた。笑いながら店を出ようとした。自動ドアが開かずに衝突する。ふらふらと跳ね返り、笑いながら自動ドアのスイッチを押した。笑っていると自動ドアが開いた。風除室で引きずっていた鍬を放した。押戸を開けた。朝焼けの中、笑いながら白い早朝の駐車場を歩いた。無断停車しているSUVが青年の目前に迫った。乗車している若年カップルの視線が注がれた。青年は笑い続けた。若年カップルは血濡れの青年を見、不安を抱いた。関わってはいけない、と車を発進させた。悪意はなかった。青年は轢かれた。車高の高いSUVの下で、青年は折れた鼻の穴から血しぶきを飛ばしながら、匂いを嗅いだ。血生臭い。高々に笑い続けた。血を吐いた。顔面に広がった。血濡れの手で髪をかき上げた。ゴホゴホとむせながら真赤に染まった青年は笑った。
「嘘まみれ」




