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柒の二つの声が、ソファに座る零の脳内で対話していた。最近はそれを頭に思い浮かべるのが日課であった。私の娘はこの二人だけ。愛する娘のためならば、父親は何でもする所存。
零はソファから立ち上がった。窓を開け、ベランダに出ると、何か思い至ったように、ベランダに出て数秒もせずに室内に戻った。ソファの前に置かれたテーブルにあった煙草とライター、携帯用の吸い殻入れを手に取った。それを持って、再びベランダへと出る。
窓は開け放たれている。
ベランダにあった物干し竿に肘をかけた。煙草にはまだ火をつけていない。ケースから取り出してもいない。物干し竿に肘をかけた零は、目の前に広がる景色を眺めていた。
目の前と言っても大した景色ではない。一本の路地を挟んだ向かい側に建っているのは、築三十年ぐらいだろう木造二階建て賃貸アパートだ。まだ住んでいる人がいるのかというレベルで劣化しているのが見て取れるが、視線をおろすと玄関らしきところに自転車が数台止まっているのが見えた。住んでいる家族がいるのだろう。
そうやって見たものをそのままの意味で理解できるうちは幸せなのだろう。
零の頭に、数週間前の新聞のとある一面が広げられた。どうしてこうなったかがまるで読めない――とある飲食店で起きた事件の記事だった。主犯格とみられる青年を、早朝その店の駐車場に無断停車していたカップルが目撃している。血濡れのシャツと口元。早朝にもかかわらず、声を荒げて笑っていた青年は、笑いながらふらふらと歩いていた。
運転手は隠すことなく供述した。「確かに轢いてしまったはずなんです。気が動転して不注意で正面から……本当です! だって明らかにやばい人が車のフロントのすぐ向こうに見えるんですよ! 血もついてたしめっちゃらりってたし! 手なんか震えまくりですよ。ギアを入れ間違えたのかもしれないし、アクセルとブレーキを踏み間違えたのかもしれない。とにかく後ろに下がりたかったのに前に進んだ。どっちにしてもあの人俺の車にぶつかってきてましたし、後ろに下がるしかなかったんです。すぐに車を降りて確認したけど、その人はどこにもいなかった。車の下にも。轢いたことすら不思議でならなかったっすよ。ガンツみたいなやつが現実にあるんじゃないかって本気で疑ったよ」運転手は力説した。
自分が無断停車、過失運転致死の罪を負ったかもしれないのに、淡々と話したという。嘘をつこうというそぶりは全く見せなかったという。それよりも体験したことの興奮が大きかったようだ。確かに轢いたはずの人間がいない。轢いていないのかもしれない。駐車場をくまなく見渡したが見つからない。
「並行世界にでも移動したかな」
零はやっと煙草を取り出し、火をつけた。




