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何を言っているんだこの子は……。「どうしてそう思うんだい?」幼い子どもと話すように零は聞いた。
「あんたの心が泣いてるから、だって」
「だって?」
「私もわかんないわよ。自分の中にいるもう一人の自分がそう言ってるんだから」
零は戸惑った。彼女らには十年近く他人と会話することを禁じてきた。会話を許したのは自分の心。己との対話のみだった。まさか、心の中に作ったもう一人の自分が長い年月をかけて自我を持ったとでもいうのか? というよりもそれ以前に、なぜ彼女たちは十年近く言葉を口にしていないにもかかわらず普通に言語を操れるのだ。舌の筋肉、声帯が数十年機能していなかったというのに、驚くほど快活に話せている。
「わかんない。考えても無駄よ。世の中には科学的根拠で説明がつかない神秘がたくさんある。プラシーボみたいなものよ。ずっと心の中では会話してたから、無意識に喉は動いてたりしたんじゃない? それよりもあいつら四人の話よ」柒はいきだった。
「わたしはあなたの元に、どうしても出て行った四人を呼び戻したい。でもきっと彼らはあなたが思い描いた予想図通りに動くとは到底思えない。残酷だけど……彼らはあなたに感謝なんて一ミリもしてない。人間らしい愛、情、親孝行なんてとんでもない。強いて言えば玖が少し戸惑ってた。でも戸惑った結果、独り立ちの方を選択した。彼も外界に染まればそのうち身分を自覚し出す。今までは五人しか見えてなかった。それも自分と肩を並べるほどの五人と。だけど、外の世界に出れば自分より弱い人間がごまんといることを知ることになる。人はその程度の環境の変化で変わってしまうもの。
少なからず、わたしは零、あなたから情というものをもらった。それがどういうものかわたしには皆目見当がつかないけれど、それでももらったのだと思う。だから今度はわたしがあなたの思いを掬ってあげたい。だから……」
「もういいんだ」零は耐えられずに言った。「もう終わったことだ。選択肢を増やしたのは自分自身だ。本当にそばにいてほしかったのなら、独り立ちする選択肢など増やさなければよかったんだ。でもそうじゃない。無理やり私の隣にいて仲良くなるんじゃなく、自分の意志で私の隣を選び、仲良くならなければならないんだ。無理にここに連れてきてもらっても意味がないんだ」
零は肩を下した。
「ごめんなさい」と柒が言った。「とにかくあなたの隣に四人を連れてくればいいものだと思ってた。でもそうじゃないのね。わたしはまだ、そういうのに疎い」柒は身に染みているようだった。
「今のあなたの話を聞いて思ったのだけれど……」柒は続けざまに話した。「いつか嘘でもいいから自分の隣にいてほしいって思ったりしないかしら」
「それはないよ、柒。曲がりなりにも私が育てた精鋭たちだ。子の意思が一番に尊重される」
「じゃあ、私が殺してあげるわ。あなたは黙ってなさい。だってそうでしょう、あいつらを殺さない限り零は永遠に迷うかもしれないじゃない。あなたのそういう計画性のないところが嫌いなのよ、見境なく思ったことをポンポン口にする。馬鹿ね、計画を立てるのはそっちの役目だろう、私は奇襲を仕掛ける役。もう、ああ言えばこう言う」
「もういいんだ」零が鼻を啜る。「私は柒、きみにそれだけ気遣ってもらっただけで胸がいっぱいだ。それだけで十分だ」
「ホラ吹くのもウソップがいいところだわ。零はそんな奴じゃない。十年一緒に付き合ってきた私が言うんだから間違いないわ。零は自分の意思に背けば私たちを痛めつけた」
「それは拷問と教育のために……」
「そう、ポンポン口の言う通り……自分の意思に背いた奴に怒りを向けずにはいられないはず。それが手塩にかけて自分が育ててきた子どもだからって我慢できるはずがない。本当は『馬鹿息子』って言って殺りたいはず」
「そんなこと……」
「ほら」柒が指を差した。指先は零に向いていた。零の目に向かっていた。
「その目よ。お前たちは可哀想な奴だ、って憐れむ目。何度もその目をわたしたちは見てきた。いつもあなたはその目をした。だからわかる。自分の言うことを聞いておけばこんなことにはならなかったはずなのに、命令に背くからこうなるんだ、仕方のない奴らだな、ほれっ、そうやって何度も痛めつけられた。あなたは自分の子どもだからって理由で怒りを抑えられるほど利口だったかしら。違うわよね。嫌だと思ったら子どもだろうと神だろうと皆殺しだわ。ねえ、そうでしょう?」
零は昔の自分を思い出していた。昔は気に入らない奴がいればすぐに喧嘩を売った。それに見合う技量を手にしていた零は、いつも相手を痛めつけた。ほれみろ、俺の方が強い。粋がるのもほどほどにしろよ。自分の力量を見誤るんじゃねえよ、小童が――。
理不尽であったと自分でも思った。零が痛めつけた相手はそれ以降零に歯向かうことはなかった。それどころか、自分を崇拝する部下になった。
――どうして努力をしない。やられたらやり返したいと思わないのか。自分をみじめにしたそいつに一泡吹かせてやろうとは思わないのか?
別に何人連れてこようと零は構わなかった。二人でも十人でも五十人でも。もちろんサシでもよかった。しかし一度叩き潰した相手は二度と零に歯向かうことはなかった。
不思議であった。頬が、瞼が、膨れ上がるほど殴られた。見下された。粋がっていた分、完膚なきまでにやられた自分に羞恥を抱いた。そこに怒りは芽生えないのか。零は若いころから「いつか見返してやる」それが口癖であった。何度もやられては立ち向かった。相手を負かすための努力を惜しまなかった。突き動かす原動力は怒りだった。
今思えば、それが何に対しての怒りであったのか定かではなかった。無論、自分を叩きのめした相手への怒りもあったが、必ずしも怒りが生まれるわけではないことは、零が叩きのめした相手が二度と自分の前に現れないことによって理解できていた。
怒り――それこそが零の原動力であったが、年老いた今の零には、若い頃にあったはずの怒りはなかった。
拷問の際、五人に憐れむような目を向けた。身動きを取れない状態にして、彼らを思う存分見下した。動けないのをいいことに鞭で叩いた。スタンガンで気絶させた。彼らは澄んだ瞳でよく零を睨んだ――。
「そうか……私の怒りは」
「どう? 思い出した?」
見れば柒が腰に手を当て仁王立ちしていた。
隙だらけだった。昔の自分が蘇ったような気がした。その余裕そうな態度。自分の力量を知らずに粋がる小動物。――壊したい。
「そう、その目だわ、その目。何度も睨み続けたその目」
零は宙を舞った。身体をひねりながら宙を舞い、柒の顎に足をかけて首をねじろうとした――。
きっと昔なら成功していた。
零は地べたに転がった。
「私は零の護衛よ。主人より弱い護衛なんて護衛じゃないわ。ただの壁よ。それも張りぼてのね」
柒は零の攻撃を避けた。土産を残して。
零の肘はびりびりとしていた。それも左右の肘両方ともだ。
「クレイジーボーン」柒が呟いた。「上腕骨だっけ。ぶつけるとびりびりするじゃない。あれ意外と自分でやっても快感なのよね」
柒は間合いに入った零の足を避け、零の両肘を両手の手とうで叩いたのだ。
「はは、はは、ははははは」
零は突然笑い出した。おかしくて仕方なかった。自分より弱い人間が部下になることはあっても、自分より強い人間が部下になることは一度たりともなかった。
「面白い。自分で相手を叩きのめすことがこの上ない快感だとはき違えていた。違うな。人を操ることの方が快感かもしれない。今まで自分より強い相手に恵まれなかったから気づかなかったんだ。お前たちは皆私より強かったんだ。お前たちの方が強いと経験でわかっていたんだ。だから拷問のとき、私は怒りを覚えた。若い頃に何度も立ち向かったあの頃と同じ、怒りを。ふふ、どうする、柒よ。どうやって我が息子たちを灰にしようぞ。私を裏切った彼らに仕返しをしたい。私の元を離れ、外界に出たところで世界は壊れ切っていることを教えてやる。私が匿ってやっていたということを事実にしてやる。束になってかかってきても勝てるんだろうな?」
「勿論だわ。私を見くびらないで」
「ではどうやって、接敵に持ち込む? 向こうは柒のことを見くびって相手にしないはずだ。五人の中じゃお前が一番下だったからな。こっちから叩きに行くか?」
「それはないわ。簡単よ。待っていれば向こうからやってくるわ。五人の中で一番弱かった私がこの界隈で有名になれば自ずとね。強くて神経質な奴ほど、確信が得られないものを確かめられずにはいられないのよ。強いから自分の力量を試したいと思うし、単純にどっちが上かを決めたいとも思う。神経質な一面もあるから、そんな馬鹿なって思っちゃうのよ、あいつら。好奇心、探求心、懐疑心がごちゃ混ぜになってね。私だって一歩間違えればそっち側に行ってるわ。でもわたしが止めてるから。鬱陶しいわよね、自分がもう一人いるって。でもあなたには冷静さが足りてない。いつも気づかせてあげるのはわたしじゃない。お前は戦闘能力皆無だろ。お前と戦ったら一発殴っただけで私が勝つわよ。わたしもそう思う。だから二人で一人なの、わたしと一緒じゃいやなの?」
先程も思ったが、何とも奇妙な光景だった。零の前に立っているのは十代半ばの少女だ。当然一人の。彼女はまるで一人芝居でもするように一人二役、声音を変えて演じている――ようには見えなかった。彼女の中には二人いる。彼女たちは一つの身体を共有して使っている。口をパクパクと動かしているその体の向こうに、対立する二つの魂が見え隠れしている。
――チートだ。
数多くの場数を踏んできた零にはわかった。
拷問を受けていたのはわたし。
戦闘能力を高めていたのが私。
わたしが我慢して、
私が攻撃する。
わたしは受け身で、
私が働きかける。
わたしは視野が広いから作戦を立てる。
私はそれに従って行動するわ。癪だけどね、案外まともだから付き合ってあげてる。
そう、よかった。わたしはてっきり嫌々かと思ってたから。あなたのことを思って好きそうなシチュエーションで作戦立ててるの、気づいてる?
もちろんだわ。
そう、それはよかった。




