四、喜友名の罪
より弱い者に槍を向けるとしたら、被害がないのは最上位の人だけ。弱い者苛めっていうのは最上位にいる人たちが最下級の人たちを憐れんで、という意味合いの言葉な気がしていたが実際は違った。言われてみれば、強者も弱者も見る人の視点によって変わってしまう。階段の途中にいる人は地面にいる人たちから見れば強者だけど、頂上にいる人たちから見れば弱者だ。一番上に立っている人以外は皆弱者になり得るということに気づいたとき、遥か遠く上の方にいる人には到底届かないんだと思った。
それもこれも、何を基準に区別するかによって変わるから難しい。「お客様は神様です」そういった文化も、きっと弱い者苛めを助長する一つなんじゃないかと思った。同じように、オタクという言葉の語源をはっきりと理解して話せる人がこの社会にはどれだけいるだろうかとも思った。オタクと一口に言えどもアニメだけではない。ある趣味、事物には深い関心をもつが、他分野の知識や社会性に欠けている人物――私鉄、JRの時刻表をすべて暗記している撮り鉄のクラスメイトが、読書家のわたしに向かって「お宅もオタクだね」と言った。
オタクを馬鹿にしないクラスの風潮はとても居心地がよかっただろう。互いが互いに好きなものを尊重していた雰囲気。それが本当に尊重していたかどうかは別としても、他人の好きなものを馬鹿にしたり、自分がつまらないのを言い訳にして他人の嗜好をネタにするために干渉しようとすることがなかったこのクラスは、とても居心地がよかったはず。
でもそれは嗜好という面で通用していただけ。
男と女、性別に関しては別問題。
女の人が映画で強姦に合うシーンを見たときに目を塞ぎたくなる気持ちを、男は多分知らない。皆が皆そうじゃないとは思うが、女だからという理由で馬鹿にされるのはちょっと違くない? 男が女を見下す理由は性別にあるの? 違うわよね。
でも先生は違った。担任の先生はそういう目でわたしのことを見なかった。生徒としても見なかった。
わたしを一人の女として見てくれた。
だから好きになった。
だから付き合っていた。
生徒と教師の恋愛がご法度だということはわたしも知っていたけど、それでもやめられなかった。なぜかって? だって恋愛ってそういうものでしょ? やめたくてもやめられないから恋愛なんでしょ? 別に不倫していたわけじゃない。時人先生は独身だった。未成年だって言われればそれまでだけど、未成年同士での恋愛は許されるのに、どうして教師と生徒の恋愛はタブーなんだろう。
あの頃のわたしは考えたくなかったから考えないようにした。考えてしまったら結論が出てしまうような気がしたから。法律とか、周りの目、友人、保護者大人、学校側の問題とか、今でなら簡単に想像できることが、あの頃のわたしはわかっていなかった。半分わかっているようなものだったけど無理に目を背けた。ネットでなぜ教師と生徒の恋愛がタブーかを調べたことがあったけど、調べたのは最初の一回だけでそれ以上深堀りして知る気にはなれなかった。わたしの中にある時人先生への恋愛感情が、ネットに並んだ正論を押し付けてくる字面によって、諭されてしまうような気がしたから。
それでも、中学卒業の前日に先生と別れられたのはちょうどいい機会だと思ったから。時人先生も言ってくれた。「もし僕のことを好きになる気持ちが変わらないようなら、大人になったらまた付き合えばいい」
わたしはその場で「絶対変わるはずがない。ずっと独身でいて」と、一夫多妻制ではない我が国の男性の隣に空いた、たった一つだけの枠を確保するような言葉を伝えた気がする。その言葉を口にした途端、とりとめのない感情を抱いた。自分が誰かの居場所を奪っているような気がした。よくわからなかった。以前のわたしであったら誰かの居場所を奪うくらいならと思っていたはずだが、このときは違った。
そうやって清々しく卒業できると思ったのに、わたしは窓から見てしまった。中庭で何かを埋める男子生徒の姿を。
最初は何を埋めてるんだろうって惚けてた。あそこはタイムカプセルを埋めた場所でもあるから、何かくだらないことを企んでいる男子たちの仕業なんだろうな、と妄想した。
でも見えちゃったの。
自分でも気持ち悪いと思った。三階から一階の中庭までは結構距離がある。でも見えちゃったの。ブルーシートの隙間からはみ出るネクタイが。
あのネクタイはわたしが卒業式に時人先生につけて欲しいと思ってプレゼントしたもの。クラスの皆は、わたしがネクタイを時人先生にあげたことを知らない。卒業式の最後のホームルームで、教壇に立って時人先生が話すたびに揺れるそのネクタイ――見るたびにわたしの心は先生を独占した気分でいっぱいだった。
そんなずっと見てたネクタイだから見間違るはずがない!
ない、ないけど……。
確証がなかった。
ブルーシートにくるまれているから、あの中に何があるのかなんてわたしにはわからない。
だから妄想した。
違う。あれは違う。と。
卒業式の日、校門を出ようとしたとき、声をかけてきた生徒がいた。その生徒は、クラスでは孤立している女子生徒。個々のグループを作って共生していたわたしたちのクラスの中で唯一、一人で行動していた生徒だ。
別に彼女を蔑んでいたわけじゃない。下見ていたなんて滅相もない。だけど、一人でいる人は大体が根暗で社会性がない人だと思っていただけに、彼女の問いかけには容易く返答できた。それは道端で一人日向ぼっこでもしている猫に、よしよし、と背中をさすってあげているのと同じような感じで。
「喜友名さん」
耳に聴こえた声がとても柔らかいものだと思った。女性特有の高い声音と柔らかい口調。初対面の相手と人見知りせずに話せてしまうなんて驚きだった。
メイ、とクラスで呼ばれている生徒と親交はなく、話したこともない。だから彼女と話すのは初めての経験だった。メイ、それが名前なのか苗字なのか未だに定かではなかったけれど、たしか名前の方だろう。苗字も名前で通用しそうだから未だに覚えられない。
「どうしたの?」
「ちょっと……」
彼女は要件を濁した。わたしはメイについて(・・・)いかなければ(・・・・・・)ならなかった(・・・・・)。連れて行かれたのは化学室だった。教室内に入っても一向に口を開こうとしないメイ。窓際に寄り、隣には名前の知らないクラスメイトがいた。彼女も同じように窓際から中庭を見下ろしていた。中庭では誰かがタイムカプセルを埋めたあたりで作業している。見覚えのあるネクタイがブルーシートの間から覗いていた。――違う。あれは違う――穴を掘り終えた生徒が、台車の上からブルーシートの包みを抱え上げた。穴の中に落とし込み、土をかけ始めた。土をかける生徒の後ろ、別の生徒が近寄って行った。数秒して二人は対面し、何か口にしているようだった。ここからでは、話の内容がわからなかった。
メイは口を開いた。
「あなたの彼氏を埋めた人を教えてあげようか」
メイの緩んでいたはずの頬がすっと落ちて凛々しくなった。凛々しいとも真顔とも呼べる顔でメイはもう一度言った。
「あなたの見てる妄想、壊して現実に戻してあげる」
その声と佇まいに、わたしは猫によしよしだなんてとんでもなかったと悟った。彼女の次の一言を聞いた途端、わたしは地べたに崩れ落ちた。
「私も時人先生と付き合ってたの。あなたが先生としたことを思い出してみて。それと同じことを私もしていたの」
当たり前のことを告げられただけであるのに――自分だけのものだと思っていたものを他人に奪われた感覚を抱き、絶叫した。落胆した。自分の大好きな人が大嫌いな人と交わっている――嬉しそうに声を上げている、頬は緩み、紅潮している。
これは恋愛だ。
恋愛を謳った拷問だ。浮気、不倫。心を弄ぶこと、詰られること。
犯罪に似た香りがした。被害者の悲しみがどっと流れ込み、わたしの心をバクっと啄んだ。