《卒業式3》
「助けてくれてありがとう」
耳に届いたその言葉のニュアンスがどうも気にくわなかった。
ありがとうという言葉はもっと言われて嬉しくなる言葉のはずだ。しかし、今しがた化学室の壁を通して聴こえた「ありがとう」の声は、嬉しくなるどころか虐げられている、というような嫌みの意味に聴こえた。
「おいおい、卒業式にまでなっていじめかあ?」
教室棟のトイレの個室が空いていなかったため、化学室側の南校舎のトイレに来ていた八条は、便座の上に座りながら膝に肘をついた。
「いじめする人って何が面白いんだろう。ばれたときのこととか考えないのかねえ」
八条は「ばれる」ことを心底恐れている。先生に怒られること、友人に嫌われること、見放されること、陰口がばれるくらいならそもそも陰口を言わなければいいのだ。陰口がばれて憤慨する友人――そもそもその友人との関係性を事前に絶っていればいいのだ。「ぶつけたらどうしよう」と気にするくらいなら車に乗らない、「酔ってぺらぺら話しそうだな」心配するぐらいなら酒を飲まない。そう考えるようになってからは、親しい友人の前でも陰口は口にしないようになった。
いつでもどこでも監視カメラで誰かに見られている。そういう感覚で生きるようになった。
だから、今八条がズボンをおろした便座の上で古畑任三郎ばりのポーズをしているのも、八条の頭では誰かに見られているということを前提に行っている。
関わらないのが得策だ――紙でケツを拭き、ズボンを上げて水を流そうと取っ手に手をかけたところで思いとどまる。
――助けなくていいかな。
助けなかったせいで明日からの俺の運勢はがた落ち。助けなかったことをいじめられていた子に運悪く見られて、言いふらされて俺がいじめられる。
あ、でも、今日卒業式か。もういなくなるからどうでもいいじゃん。
八条は手に掛けた取っ手を引っ張った。便器の中の汚水が渦を巻くように吸い込まれていった。
早く教室戻ろー。
手を洗った八条は、軽快にトイレのドアを開けた。
――水が床にゆっくり滴る。
縦長の楕円が地面に吸収されるように平たく潰れる。
ドアのステンレスに張り付いた水滴二滴。
トイレを飛び出す八条の指先から滑るように零れる水滴三滴。
ぽつぽつぽつ。縦長の楕円が平たく潰れる。ぽたぽたぽた。
ドアが軋んだ音を唸らせて半開きのまま静止する。
八条は横断歩道で左右を確認するかのように顔を振った。右、左……右。よし、行こう、とは思えなかった。左に見えた化学室。教室後方のドアが半開き。その隙間に見えるのは担任だ。うん、多分そう。そしてその八条の見ていた隙間に入り込んで担任の身体に触れていたのは――。
「明衣」
あの地味な単独行動の明衣。女でそこそこ顔が整っているにもかかわらず、恋愛対象としては思えなかった明衣。その明衣が化学室後方のドアの隙間から見えただけなのに、どうしてか視界に収めている時間を長く保ちたかった。映画の試写会の登壇した芸能人を少しでも長く眺めようとするように、八条はじっと明衣の姿に見入った。
顔の整っている八条は、比較的恋愛経験も豊富だった。つい最近、卒業して離れるからという理由で別れた彼女もいたくらいだ。
そんな恋愛経験のある八条はこの現象を知っていた。
恋だ。恋愛だ。好きだ。そういうピンク色の感情。
でもどうして――理由はすぐにわかった。ぐったりとした担任の身体を、女子中学生のか細い腕で二つ折りにしている。信じがたかった。でも事実だ。海老反りを通り越して、みぞおち辺りを降り目にして後頭部と尻がくっついているのではないか。骨の折れる音が響いた。八条の元にまで届いた。一本一本きちんと折れるような細かい音。人身事故に遭遇したわけでもないのに、視界に肉片が飛び散った。これは小腸、これは腎臓、これは肺を覆っていたただの肉片、これは眼玉、脳味噌、品定め。その光景を見ていると、匂いがしてきた。臭い、臭い臭い。魚が臭いと言う人がいるが、人間の方が相当臭い。
でも悪くなかった。
よく、ガソリンの匂いを好む人がいる。
香水の香りがきつい。でもいい匂い。
満員電車で充満する汗臭さ。
制汗剤と分離しているのがわかってしまう嗅覚。
人間臭さ、それが八条にとってはいい香りに思えた。
いい香りに思えてしまったのならば仕方がない。小学生が夕飯のカレーの匂いに誘われて玄関のドアを勢い良く開けるように、八条も人間臭い悪臭に誘われた。半開きになった化学室のドアを一気に開けたとき、担任の上には明衣が乗っていた。それを仁王立ちで眺めているのは、水城だった。明衣は担任のあばらの上に尻を乗せて、バランスボールの上で跳ねるかのように上下に跳ねている。そのたびに、みし、ぎし、と骨が擦れたり歪んだりする音が聴こえた。
明衣の動きが止まる。
「あばら、突き出ちゃった。血はまずいな……」
そのときやっと明衣と水城は八条の存在に気づく。
二人は振り向いた。
「あなた確か……」
明衣が視線を送る。
「八条……」
水城が呟く。
「なに、してるんだ」
八条の鼓動が鳴っている。
「見てのとおりよ。担任を殺したの」
「殺した? どうして」
「やられたらやり返すのが普通でしょ? そうやって強さを誇示しないと、無鉄砲に近づいてくる『自分は強いんだ』と過信した弱者が多すぎてね」
「へえ、どうしてそれが過信だと?」
「愚かな質問ね。一歩引いて眺めて見なさい。驚くほど見えやすいわよ」
「……要するに、頭に血が上って、周りのことが見えず、自分のことしか見えてない人はみんな弱者だと」
「あら、頭いいのね。そういうこと」
「俺はその目で見たら、弱者か」
「ええ。殺気放ちすぎ。私を殺したい殺したいで頭がいっぱいそうね。どうしちゃったの? 善良な中学生じゃなかったの?」
明衣は微笑んだ。その微笑みは、芸能人がテレビのコマーシャルでさりげなくするものとは似ているようで異なる。明衣の微笑みは明らかに相手のことを憐れんでいる目つきだ。愚かだ、愚かだ、何だその醜悪。何が気に入らないんだ? 実力とは正反対の人物に上から見下ろされている気分は、癪に障った。
「ねえ、知ってる? 戦いってのはね、殴る蹴るだけじゃないのよ。サムライが刀だけじゃなくて足蹴りを使うのと同じ。拳が強いだけじゃ、女とは言えど、私には敵いませんよ。小童」
八条は歩き出した。明衣との距離を縮めていく。
「明衣さん! 八条空手やってる!」
水城が明衣に忠告を言い終える前に、八条は回し蹴りを明衣の顔側面に当てた。明衣はよろめいた。それを見逃さず、八条は明衣を羽織いじめにした。
ギリギリと歯ぎしりのような音が鳴った。僧帽筋が浮き上がる。八条の腕に血管が浮き上がる。明衣の足が浮き始めた。
おそらく明衣はもう気を失っている……そんなことは八条もわかっていた。しかし頭に血が上っていた。挑発するように「お前は弱者だ」と言い放った明衣に自分の力を誇示したかった。俺の方が強いじゃないか、なあ、なあ、なあ!
腕を緩めると、脱力したように重みを増した明衣の身体は、するりと滑らかに床へと落ちた。
八条は水城の方を見た。
水城はすぐに自分が喰われる側の人間だと悟った。
「いや……いや……」
半歩ずつ後ずさる水城に、八条はゆっくりと歩み寄った。
「殺しちまった。快感だなあこれ。もう一回味わいたい。なあ、水城ぃ」
虚ろな目、ゆらゆらと揺れる腕、身体、近づいてくる。それが異様な人間の雰囲気を作り出していた。水城はひたすら教室後方に後ずさる。八条と一定の距離を保ちながら後方へと下がり、ある程度したところで教室後方のドアが横目に見えた。
――あ、逃げなきゃ。
水城はドアに向かって走った。同時に、八条もドアに向かって動き出した。早くしなきゃ、早くしなきゃ追いつかれる――そういう思いが水城の心臓の鼓動を一層早めた。足を空回りさせ、もたつかせ、絡ませた。
普段であれば躓くだけだったはずだ。水城はドアの桟に躓き、転んでしまった。恐怖ですぐに後ろを振り返った。すぐそこに八条がいる。顔が近い。近い。近い。近いって!
思わず水城は反射的に八条の頬をビンタしてしまった。
それで目が覚めたのだろう。八条は水城の胸ぐらを右手で掴み、持ち上げた。
「お前、自分が俺より弱いってことわかってんの? 何その態度。弱いやつは強いやつに嫌われないように生きていくのが普通だろ。何その舐め腐った態度」
言い終えると、左手で水城の顔をはたいた。一回、二回。計二回程度だが、水城の頬は吹雪の雪山にでも来たかのように真っ赤になっていた。
水城は、はっとした。
その目つきが、八条には睨みつけているように見えて気に入らなかったのだろう。
左手を振りかぶった――。
「私たちの擬死って、対象者に人が気を失ったときの重さも感じさせるの」
背後――振りかぶられた左手首を握り、不気味な微笑みを浮かべながら立っていた。
「あなたは騙されたの。どう? 殺しの疑似体験は。人を殺すのって楽しかったでしょう? あなたは確かに私を殺したわよ。でも残念ながら私の方が一枚、いや二枚も三枚も上手だったわ」
八条は無理矢理左手をほどこうとしたが、力を入れても明衣は離さなかった。右手で掴んでいた水城の胸ぐらを離して落とし、空いた右手も使って明衣の手を振りほどこうとした。
「馬鹿、馬鹿。むきになったら戦いに勝てないぞ。戦いに必要なのは冷静さでしょう? 慎重に、かつ冷静に注意深く。基本でしょうが」
「うるせえ。お前は死んだはずだろうが」
八条は喚いた。明衣のことを確かに殺した感触を持っていた。それは経験したことのない感触だったが、確かに死んだはずだ。気を失ったのとはまた違うあの重み、気を失ったのとはまた別の脱力――現実感。
だが、目の前に動く明衣がいる。
「あなた、あたしが死んだ後、どうするつもりだったの?」
「ああ?」
「そのままにしとけば警察に捕まるって話よ」
「お前生きてんだから掴まんねえじゃねーか」
「殺人未遂も立派な罪だけど……まあそこは今論点じゃないか。でもあなたは私がこうしてあなたの左手を掴むまで私が死んだと思ってたんでしょ? 今ここに私が来て、あなたの左手を掴まずに床でくたばったままだったらどうするつもりだったの? 私を殺したと思って明日も生きてるんじゃない? 警察に捕まるかもしれない、人を殺してしまったと罪の意識を手にして明日も生きてるはずでしょう? じゃあ同じじゃない? あなたは殺人の罪を負ったの。いや負っていたはずなの。だけど私が生き返ってしまったからその罪をあなたが負うことはできなくなった。法ではね。だから私が裁いてあげる。死体遺棄罪で。いいでしょ? 殺人よりも刑が軽いんだから。
埋めてきなさい、担任の遺体を。ビニールシートに巻いて中庭に埋めなさい。大丈夫よ。タイムカプセルに入れ忘れたものがあるとか何とかいえば誤魔化せるわ」
「馬鹿にすんな!」説教染みた明衣の言葉が、頭に血を上らせる。八条は明衣の手をはじいた。
「いいえ、馬鹿になんかしてない。これはあなたへのプレゼントでもあるのよ」
「どういうことだ」
「あなたは多分、根っからの犯罪者だわ。多分、ゲームとか好きそう。これをこうこうこうやってって筋道を立てて、それ通りに現実の物事が進むと達成感を得るタイプ。だから、あなたがこの死体遺棄を成功させたときの達成感は、私を殺したときのものとほとんど変わらないはずよ。ねえ、気づかない? あなたは犯罪者として生まれてきたの。だけど社会があなたを調教した。悪いことをすると罰を与えられる。いいことだと思ってしたことでもないのに褒められた。そうやって世の中の善と悪が、いつの間にか自分の中の善と悪を上書きしてしまったのよ。そう考えると慣れって恐ろしいと思わない? まだ自分では気づいていなかった大切だったはずの感情を、慣れが消してしまうのよ。子どもの頃はパイロットになりたいとあれだけ夢見ていたのに、いつの間にかそこそこの大学を卒業して一般企業に就職。そこまでの思考の過程にあるのは、周りの意見に流されることに慣れてしまったという要因がある。そりゃそうよねえ。学校教育は自ずと周囲の変化を敏感にさせる。皆と同じように行動していれば安心だもの。皆と同じように行動しなければ視線が痛い。団体行動やコミュニティではそれが普通だし真っ当。
子どもの頃に抱いていた感情を、今でも思い出せる?
思い出せないわよね。
それが慣れよ。社会に飼い馴らされて信念を失くした人間の典型。
ねえ、思い出して。あなたにとっての善は何? 人に苦しみを与えることでしょう? じゃあ悪は? 世の中の善悪に騙されて生きることじゃない? 周りの思い通りのイメージで生きてしまっている自分じゃない? そうよ。そうなのよ。周りの思い通りに生きる自分って恥ずかしくない? 癪に障るでしょ。あなたの行動は周りの人間に読まれているのよ。あなたってそんなにチープなの? ちがう。ちがうわよ。この計画は、絶対にあなたを幸福にする。私は化学室から中庭であなたが担任の遺体を埋めるところを、最後まで見ててあげる。幸福な気分にならなかったら、ここにきて私のことを思う存分殺せばいいわ」
「お前死なねえじゃねえか」
「いやあねえ。わたしも人間よ? ナイフで切れば血が出るし、息を止め続ければ死にます。信じられないなら見てみる? 私の手首から血が出るところ」
明衣は八条に自分の左手首を見せた。手の甲を反らせた手首には、緑の数本の血管が浮き上がる。その一本の上に、明衣の右人差し指の爪がかぶさった。
音が聴こえた。実際には鳴っていない音だ。明衣の脈だ。手首の浮き出た青い血管が一定の間隔で跳ねている。
頭が急に冴えた気がした。ずっとその脈の動きを見ていると、落ち着いてきた気がした。
「いや、いい。やるよ」八条は首を振った。
「オーケー。それじゃあ早く担任の死体をビニールに包んじゃいましょう」
明衣はまた、にっこりと微笑んだ。