三、八条の罪
逆らえないんじゃない。逆らおうとしていないんだ。
動物を調教する。猫が「お手」をしたら餌がもらえる。しなかったら顔をはたかれる。自然と「お手」をするべきだと猫も思う。
そういうのじゃない。
自分で決めて、自分で行動する。
だからこれは洗脳なんかじゃない。
俺の意思による行動の結果だ。
人間だって知らず知らずのうちに社会という飼い主に調教されている。礼儀、挨拶、しきたり、慣習。上下関係。してはいけないこと、罪を犯せば法で裁かれる。裁かれることを知っているから大抵の人間は罪を犯さずに生きるのだ。飯、金、真面目に生きていて偉いね、毎日出勤ご苦労様、頑張っているね、という称賛の餌をもらって。
俺は、首に掛けられたロープに手をかけている水城を見下ろした。失禁と脱糞の臭いは確かにあったが、慣れてしまったのかさほど臭いと感じなかった。喫煙者が服に付着したタールの香りに疎いのと一緒だろう。
下駄箱に背を預けて水城はしゃがんでいた。目は閉じていた。口を開け、舌が出ていた。そっと首元に指を忍ばせる。
脈はなかった。
それを確認して、ベルトに手をかけた。
学校の校舎に入るとき、律儀にスリッパが並んでいた。三つあった。校舎内に既に二人いるということだ。
俺が同窓会の知らせを聞いて断らずに訪れたのは、『タイムカプセル』あの言葉がひんやりと背筋に悪寒を走らせたからだ。当時はよくわからず言われるように作業をしたが……あのとき抱いた興奮のおかげで今は生きるのが楽しい。あの快感を教えてくれた明衣、あいつには感謝しなければならない。
あの日からというもの、俺はとりつかれたように犯罪を繰り返していた。犯罪というか、俺にとってはゲームだった。計画を立て、頭で構想を練り、様々なシチュエーションを想像して脳内で試行錯誤する。出来上がった計画を実行する。思い通りに計画が進んだとき、事前に想定していたシチュエーションが訪れたとき、「そんなこったろうと思ったよ」と相手より自分の方が一枚上手だったと見下す快感――。
最初に手を出したのは強姦だった。
すぐに飽きてしまった。
あまりにも簡単に進んでしまうものだから、現実味が薄れていった。
もっと、捕まるか捕まらないかギリギリのところで生還したかった。
その後もいろんな犯行に及んだ。
俺の計画は完璧だった。俺の犯行は完璧だった。結果も完璧。だから俺は捕まらない。裁かれない。ただ、唯一完璧ではなかった俺のゲームがある。それは、初めて法を犯した中学の卒業式の日だった。
タイムカプセルか……。くそっ。あれがばれれば俺は呆気なく捕まってしまう――捕まること自体には何の戸惑いもない。もし仮に完璧な犯行に及んだ俺のことを嫌い、「舐めてる輩に目にモノを見せてやる」と、意地になってこじつけた嘘の証拠を突きつけ捕まえようとする警察官がいたとしても、結果理不尽に手錠をかけられたとしても、逮捕されたこと自体には恐怖も後悔もない。自分の知らない証拠が出来上がっていること自体が犯罪の証拠を残していないという証拠――納得して捕まるのだから当然ことだ。自分が納得してもいない点をここぞとばかりに指摘され、「ざまあみろ」と相手を天狗にさせることこそが俺の最も嫌うことだった。
誰しもそんな経験があるだろう。自分が気にしている点を指摘されると自然と苛立つ。自覚したコンプレックスを蔑まれるのはいい気がしたものではない。自分でわかっていることほど相手に言われるのは嫌なものだ。「いい加減勉強しなさい!」「今から勉強しようと思ってたのに……」「いつになったら進路が決まるの!?」「そうはいっても、やりたいことがわからなくて悩んでたのに……」親と子、然り。
中学卒業の日、俺は証拠を残してしまっていた。それを突きつけられれば真っ先に捕まってしまう。廃校になって校舎が取り壊されると聞いたとき、そのまま証拠も一緒に消えてしまうのではないかとも思ったが、同時に逆に見つかってしまうのではないかとも思った。
でもなんてことはなかった。
玄関のロータリーからは、中庭の光景がよく見える。ガラス張りになっているからだ。そのガラス張りの向こうで、炎がわんわんと燃えている。あれだけ燃えていれば証拠も一緒に燃えちまうだろうな。穴をそれほど深く掘った覚えはない。
あの見知らぬ男もそう言っていた。
学校に訪れてすぐ、俺は中庭に向かった。中庭の花壇の端には、タイムカプセルを埋める際に場所がわかるようにと立てられた看板があった。俺は無造作に触れようとした。そこで声をかけられた。
「八条だな」
声のする方を向けば、男が立っている。その顔に見覚えはない。俺はすぐに警戒した。ポケットに入っているナイフの柄を握った。
「そんな警戒するなって。ナイフなんて物騒なものしまえよ。あ、ポケットにしまってるか」
その男は、俺のポケットにナイフが入っていることを見破った。手汗が吹き出し、ナイフの柄をねっとりと濡らす。
「そんなに構えるな。俺はお前に有益な知らせを持ってきただけだ」
「どういうことだ」
「まあ聞け。お前の犯した罪は知っている。卒業式の日、担任にしたことだ。今じゃ他の様々な犯罪に手を染めていると聞いたが、そっちの方は完璧に証拠を消しているみたいで真実にすらたどり着けそうになかった。ただ、唯一八条、お前の犯罪を立証できる証拠があるんだよな。それはお前自身も多分わかっているとは思うが、お前が一番最初に法に触れた、あの卒業式でのことだ。
まだやりたいことがあるだろう? まだ刑務所に入るわけにはいかないよな。なら、俺に従え。従うなら証拠は燃やしてやる」
男は俺のことを知ったような口をきいた。そして、ポケットに入っているナイフどころか、俺の一番恐れていることも見破った。
男の言った通りだった。
俺の犯してきた罪は完璧だった。ただ、一つだけ完璧ではない罪があった。それは中学三年の卒業式でのこと。俺が犯罪の奥ゆかしさに虜になるきっかけとなったあの日から、俺は抑えられない衝動の当てつけとして法に触れるようになった。
後ろめたさはない。あるのはこの悦が時間によって風化してしまわぬかという恐れ。
中学三年の卒業式で犯した罪。それ以降の罪は、完璧だった。
男は、自分に従えば証拠を燃やしてやると言っている。
脅しに乗るのは癪に障るが、それよりも俺の犯してきた罪の中で唯一完璧でないそれの証拠を消すことさえできれば、俺のすべての犯罪が完璧となり、完成する。
「ああ」俺は答えていた。
「オーケー。水城のことは知ってるな?」
「今日来るんだろ」
「そうだ。そいつを殺してもらいたい。ただ、普通に殺しても面白みがない。熟練のお前にはつまらないかもしれないが付き合ってくれ」
男は水城を殺す手立てを話した。
輪っかのついたロープがすでに下駄箱の上に用意されている。それを使い、水城の首に輪っかをかけて、ロープは下駄箱の上を伝って反対側から引っ張り、絞殺するということだった。
「一人じゃ難しいはずだ。水城に輪っかをかけた後、反対側の下駄箱に移動して引っ張るまでの間に、水城が輪っかを外すかもしれないからな。下駄箱の上に登って上からかけるなり、まあそのやり方は任せる。とにかく下駄箱の上をロープが伝った形で絞殺してくれ。そしてもう一つ……」
男は水城を殺すことに加え、もう一つ条件を出した。
「殺した後、レイプしろ」
「は?」
「なにも考えるな。お前は俺の言うとおりにすればいい。そうすれば完璧なお前が唯一残した証拠は燃やしてやる」
俺は男との会話を思い出していた。なぜかはわからなかった。セックス自体にさほど興味もなく、淡々とした腰の動きとしか認識していなかったため、男が「殺した後、レイプしろ」と指示しなければ自ら行為に及ぼうとはしなかった。思えなかった。しかし、証拠を消す約束をした手前、こうして水城と行為に及んでいる。
思えば、初めて強姦したときも同じような感情を抱いた。セックス自体の快感はそれほどではなく、被害者が目の前で泣き叫びながら、やめてくれ、やめてくれ、ともがく姿もそれほどではなく、ただ、俺の中で事前に想定していた犯罪の計画通りに進んでいく、いわば、自分の思い描いたシナリオ通りに進むゲームが楽しかったということだった。一度見た映画を再び見る行為――二度目は登場人物がどういう行動をするか知っているため――そういう感覚に近い。
俺の犯罪の脇役となってもらった被害者に、申し訳ないという気持ちは一切なかった。「お前らはいいよな。被害者になれば被害者面できるんだから。誰かに慰めてもらえるんだから」被疑者に慈悲はあるはずもなかった。自ら「俺は殺人犯だ」と告白する馬鹿もいない。いたとしたら人生の終局地点一歩手前だ。
人間の黒い感情。復讐、恨み、憎悪、悲しみ。こん畜生、涙、は新たな関係性を生むだろう。こん畜生、と思えば隣にいるあなたが「ムカつくね」と同情して寄り添ってくれる。涙を零せば「つらかったよね」そうやって恋人が背中をさすってくれる。強い感情は他人にも伝染する。葬式で皆が泣いていれば自分も悲しい気持ちになる。ドラマで復讐しようとしている警察官に同情する。
俺はきっかけを作ってやったんだよ。
お前らがつまらないと豪語する日常を色づかせるために。
いいよな、お前たちは一人じゃなくて。
感動ポルノで涙を流せば皆友達だ。一致団結。素晴らしい。素晴らしいよ。北斎の波みたいに絶景だよ。
同じだと思っていた孤独な人の周りに何人もの友人がいたと知ったときの落胆は計り知れないが。
「悪いな」
俺は腰の動きを止めた。射精に至る前に立ち上がってベルトを締めた。
――あばよ。悪く思うな、水城。お前にだって一つや二つの小さな罪、あるだろう? いやお前だけじゃない。どんな人間にも過ちの一つくらいはあるものだ。だから、世の中の人間は殺されても文句が言えないんだよ。
俺は水城の亡骸に向かって呟いた。
ガラスの奥で、中庭が燃えている。炎の高さが先程よりも増し、赤に混ざって黒煙、白煙が混ざり出した。早く出なければ証拠と一緒に俺まで消されてしまう。足早に玄関を抜けた。玄関を出て左手側には職員用の駐車場があった。閑散とした駐車場に、一台のセダンが止まっている。俺は車に乗り込んだ。
キーを刺してエンジンをかける。
すぐに暖房が作動した。今日は朝から冷え込み、エンジンを切る前に電源をつけたままだったんだろう。
そのときに気づいた。助手席に見たことのない茶封筒が置いてあった。すぐに違和感を手にした。警戒しながら俺は茶封筒を手に取り、封を開けた。もしかしたら、証拠を消すと約束した男からのものだと思ったからだ。
注意深い俺はゆっくりと茶封筒の封を開け、中に入っていた三つ折りの便箋を取り出した。指が乾燥しているせいか、滑ってめくれない。舌で指に唾をつけ便箋をめくると、どうやら四枚ほどあった。
一枚目の冒頭に宛名はなく、文末にもなければ筆名も書かれていなかった。それは茶封筒も同様。封筒の表裏、どちらもを俺は確認したが見当たらなかった。
俺は便箋に書かれた文章を読み進めた。淡々とした文章の羅列だった。~~だった、~~だった、という文章が幾重にも続いている。だからこそ奇妙だと思った。今までいくつもの犯罪を計画し実行し、途中で数多に及ぶ予期せぬ場面に遭遇した経験からわかる。これはちょっとおかしい――でもおかしいという言葉にするほどおかしくはない。毎日通学する道路、常に人はいないが今日は人を見かけた。そしたらその人物が次の日のネットニュースに載っている。そんな風な違和感。
俺は文章の中に吸い込まれるように読み入った。一文読んでその意味を訝った。この文はどういう意味だ、こういう意味かもしれない、前後の文が関係している。謎を解いているようだった。
そして最後の段落。
「きっと注意深いあなたは、この文章を何かのメッセージやら謎解きのための道具と勘違いしたかもしれない。でもそれは違う。これは、有名な谷川俊太郎の詩。深いでしょ? あなたの場合、絶対に自分からは読まないし、読んだとしても詩の良さなんてわからないのだろうけど、何かのメッセージだと思って読めばすごく趣のある詩だと思ったでしょ? 人間そんなものなのよ。こうしたい、って意識して物事に没入するのとしないのとでは、全然得られる結果は異なる。
ねえ、気づいてる? あなたはもうその車に入って三十分は経ってる。
あなた自身が歩く『証拠』だとは思わなかった?」
どういう、ことだ――。苦しさと眠気が同時に襲ってくる。
直感的に理解できた。この苦しみに耐えても五体満足な未来はやってこない。この眠気に従えば、再び瞼を開けることはない。
視界が白けている。酷いヤ二クラだ。煙草でも吸いすぎたのだろう。
視界が揺れる。横になろうか、なるまいか。寝てしまおうか、寝まいか。耐えようか、楽になろうか。再び目覚めないと知って眠りにつく。そんな人きっといない。だから俺は瞼を閉じた。すっと楽になった。痛みも、苦しみも、視界も――中学時代やたらと日本の文化を批判した反骨心も、隣り合わせの汚らしい濁世も。
全部消えた。