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擬死態  作者: 面映唯
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3

 担任を化学室に呼び出したのは水城だった。「先生ちょっとだけいいですか?」水城は手を合わせ、上目で担任を見た。担任は何かサプライズでもあるのだと思ったのだろう。躊躇いなく承諾した。何と言っても今日は卒業式だ。それとも、単に水城の顔が整っているからという理由だけでついていったのか。何と言っても担任はバイオレンスなレイプ魔だ。何といっても担任はロリコンだ。年齢差別、ロリ至上主義。それを知っているのは被害者だけだ。だが被害者は口を割らない。その理由を学校の教師という職に就く担任は心底理解していた。


 罪を犯してもばれなきゃいい。ばれないだろうかと怯えるのではない。ばれないために裏付けるのだ。


 水城の後を歩く担任。手元には今しがたクラス委員から送られた花束を抱えている。担任は黙ったままだ。それは水城も同じ。


 水城は担任を化学室に誘導した。化学室後方の扉の前まで行くと、「どうぞ」と中へ促した。担任は扉の窓ガラスから中を窺っていた。あれ、と思ったに違いない。クラス全員ではなかったとしても、数名の生徒がいるはずだと思っていたのだ。しかしガラスの向こうに人影はない。好物のセーラー服姿の女子中学生がいない。


 担任は訝りながら引き戸の扉を開けた。これもサプライズの一つかもしれない、扉を開けて入れば、隠れていた生徒たちが飛び出してきて、「先生、ありがとうー!」とクラッカーを鳴らしてくれるかもしれない――ああ、その幼い顔。化粧をしていない垢ぬけないその顔、身体つき。セーラー服の赤いリボンが眩しい。リボン以外の服が透けていく――ああ、ああ、ああ、ああ、サプライズなら早く出てきなよ――。


 担任の思った通り、これはサプライズだった。


 担任が扉を開けたとき、担任の左側、教室後方の死角に明衣は隠れていた。女子中学生の裸体を妄想して注意にかけた担任の身体がのんきに教室内に入ってきた。全部入ったのを確認して、素早く開いていたドアに明衣の手が触れ、ぴしゃッと閉じられた。


 秀逸だった。


 扉が閉まる音に、当然担任は驚いた。左回りでドアを振り返ろうとした途中、明衣の姿が見え、視線が合う。


 担任の顔が引きつった。

 担任は逃げようとした。

 明衣の閉めたドアを開けようとドアに掌を乗せた。

 明衣はそれを許さない。


 慌てた担任は前傾姿勢になっていた。開きかかったドア。脛をひっかけてやると、驚くくらい簡単にすっ転んだ。ゴンという音とドアにぶつかった担任の額との音が相まって鳴り、ドアの前で膝間づきながら喚く声。明衣は必死に顔を手で覆う担任の手を剥ぎ、ネクタイの先を掴んだ。


「哀れね。どうしたの? 可愛い生徒がサプライズ仕掛けてんだからそんなに慌てて出て行こうとしなくてもいいじゃない。そんなに私が怖いの? まあそうよねえ。死んだと思った人間が次の日には生き返ってるんだから。ゾンビ映画は虚構だからこそ面白いものね。現実ならさぞ驚いたでしょう。朝のホームルームで私の顔を見たときのあなた、とても顔が強張ってたわよ? それもそうよね、死人に口はないものね。殺してしまったこと自体は偶然だったの? 偶然死んだ人なら何をしても許されると思ったのかしら。確かに正解。私が仮に死んだとして、そのあとに私をめちゃめちゃに犯しても、死体を解剖しても、血抜きにして剥製にしようがホルマリン漬けにして持ち歩こうが、私は構わなかったわよ。

 でも私は生きてたのよ。

 勝手に死んだと思って私を犯したのは誰? すぐ通報すれば傷害罪程度で済んだ話、勝手に死んだと思い込んだのは誰? ほっぺをぺちぺちして、許してくれ、ってあなたが一言でも言えば私は許したわよ。本当よ? そのつもりだった。示談で済ませれば罪なんて追わなかったのかもしれないのに興奮して取りつかれたように腰を振ってたのは誰? どうせ死んでるんだから、殺人犯になったんだからっていい気になって拳を握ったのは誰? 痛かったわよ。ホント不快だったわよ。あなた、自分が女に生まれてたらとか考えたこともないでしょう? 思った以上に恐怖よ。それはどんなに気の強い女でもね。自分の知っている男が化けの皮を剥いだみたいに女の身体を無理矢理制御して乱暴するの。初対面、知らない男、複数だったら尚更よね。女の自分が敵うはずもないんだから。ねえ、わかる? あなたにも味わわせてあげるわよ。私が受けた痛みと恐怖」


 明衣は手にしていたネクタイの先に素早く本結びでロープを結んだ。引っ張れば引っ張るほど結び目がきつくなる縛り方だ。担任は何をする、と抵抗して暴れかかった。しかし、担任の手が明衣に触れることはなかった。次の瞬間には明衣は「いいわよ」と口にし、その声は、独り言というよりは、誰かに呼び掛けるような口調だった。


 担任の身体は何かに引き寄せられるように引きずられていった。蟻地獄から出ようと必死にもがいているのに、一向に前方に進まない――その光景は、上りエスカレーターを必死に下ろうとしている子どもの様だった。自分の身体がうまく制御できない。自分の思い通りの方向に身体が進まない。思い通りに動いていたはずのものが突然動かなくなる。何か得体の知れぬものに自分の身体を制御される感覚。


 床に尻もちをついた状態で、担任は足をばたつかせながら後ずさる。自分は前に進みたいのに、無理矢理後ずさらせられて、背中が教室の壁にぶつかった。


 明衣はその光景を立って見下ろしていた。


 いやあ、滑稽。


「ねえ、ネクタイって恐怖だと思わない? 意外と強度があるのよ。そんなもの毎日つけてるって恐怖じゃない? 自分で首絞めつけてるのよ。あなた学校の飼い犬ですか? よく飼い犬の散歩で犬が進みたい方向に逆らったとき、飼い主はリードを引っ張るでしょう? 自分の意志が通用しないってのはこういうこと」


 明衣の結び付けたロープは、教室の欄間を伝って廊下側に落ちている。


 廊下では、水城がそのロープを引っ張っていた。担任の身体を引きずるのは、欄間を支点に介しているとはいえ女子中学生には重いだろう。しかし、水城は引っ張り、担いだりしてロープを引っ張った。直接担任の苦しむ姿が水城には見えていないからロープを引っ張れるのだろう。水城にしてみれば、ロープの結び目の先に担任のネクタイが結ばれているだなんて思っても、見えない。だから無責任にただ、ロープを引っ張れるのだ。


 水城の手元には、ロープから担任のもがく振動が伝わっていた。きっと今担任は宙に浮いているのだろう。水城が引っ張ると息詰まるようなかすれた声、教室の壁に身体が当たり、暴れる振動で欄間の窓ガラスをバンバン鳴らし、足をばたつかせる振動、引っ張ったロープを緩めると、地に足がついたようで脱力したように動きがなくなる。


 担任はなかなかしぶとかった。


 明衣は、そろそろネクタイが切れてもおかしくない、ロープとネクタイの結び目が解けないかと思案していた、ちょうどそのとき、担任がネクタイとロープの結び目を解こうとした。素早く明衣は止めに入る。馬鹿だねえ、あんだけ引っ張ったんだから結び目なんて固くて人の指じゃ解けないわよ。やるならネクタイを緩めるべきでしょうが。


 明衣は担任の顔を平手打ちした。一回、二回。今度は拳を作って腹を殴った。「ねえわかる? この痛み。自分の身動きが制限された状態で、こうやって暴力奮われるの。普通に殴られるのとでは感じ方が違うでしょう? あなたみたいな人、普通に殴られた事すらないからわからないか。弱い者にしか振るわず、強い者の前ではヘこへこして、危ないと思ったら真っ先におびえて逃げるものね。確かにそれは正しいわ。でもわかるでしょう? ねえ、わかる? わかる? わかんないの? ねえ……」


 明衣は殴り続けた。腹の次は顔面だった。担任の顔は赤く腫れあがっている。鼻は曲がり、瞼は大きなたんこぶができたかのように膨らんでいる。最後の力を振り絞ろうとしたのか、担任はポケットに手を入れた。携帯か……明衣は一瞬思ったが出てきたのは煙草だった。最後に一本吸わせてくれ、なんて言うわけでもあるまい。もう恐らく首を絞めつけられすぎてしゃべれる状態じゃないだろう。煙草を吸ってもむせるだけだ。担任がポケットから取り出したラークのボックス。出てきたのは、葉巻ではなくライターだった。担任はおぼつかない握力の中ライターに火を灯し、ネクタイに火を近づけようとしているが、瞼が腫れて視界が定まらないのだろう、上手くネクタイに火をつけることができず、胸の前で前後左右不規則にライターの火を揺らすだけだった。


 炙るように前後左右にライターの火を揺らす担任の手。図らずも、ライターの火がネクタイに何度か触れている。ネクタイが焼き千切れるのは時間の問題だった。


「早く! もう一度ロープを引っ張って!」


 明衣は水城に呼び掛けた。しかしすぐにロープは引っ張られなかった。


 明衣が水城に呼び掛けたとき、廊下で立ち尽くしていた水城は怯えていた。古い中学の教室だ。壁は薄い。その壁一枚反対側で担任の首を自分が絞めている、その恐れを思い出したのだ。最初はそんな恐れも抱かなかった。それはきっと担任の苦しむ顔や姿が見えていなかったからだろう。担任がもがく姿をあたしは見ていない。あたしはただロープを引っ張っているだけ。しかし、次第に苦しむ声、ばたつかせる足、振動、そして明衣が殴りつける音、そういった五感に連想され、怯えはじめた。


 もしかしたら、あたしはとんでもないことをしてしまったのではないか、そういう感情が渦巻き始めていた。


「なにしてるの! 早く引っ張りなさい!」


 明衣が叫んだ。担任のライターがネクタイを集中的に炙り始めた。早くしないとネクタイが焼かれて千切れる。


 明衣が怒号を挙げた。


「退くな! 自分の信念疑ったら負けよ! 疑えないから信念なんでしょ! もうここまで来たら止まるも退くもないのよ! 同じ!! 進め!」


 ――理屈は知らない。ただ、何か温かいものを感じた。明衣は言っていた。「相手の背景とか知らない。私が受け取ったものがすべてなの」


そう。自分が感じたことがすべて。あたしの心は今温かい。温かいんだ……信念を曲げるのなんて今じゃなくたっていいはず。ずっとこのまま続いていくはずだった信念だ――。


 水城は肩にロープを背負った。

 力強く引っ張った。

 教室では、壁に沿って担任の身体が浮き上がった。

 焦げ付いて千切れかかっていたネクタイが、引力によって千切れた。

 担任は重力のまま、落下した。




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