【鬼のいない鬼ごっこ】
零 れい
肆 しし
陸 ろくろ
柒 なな
捌 はちは
玖 きゅうき
「柒、憎いか?」
締め切られたカーテンの隙間。日差しがカーテンから逃れようと顔を出している。縦に伸びた一筋の光が肆の太腿に射した。アノラック生地のズボンはじわじわと太腿に熱を作り、温めていくが、肆は一向に太腿をずらす気配がなかった。それどころか、一度決めた目標は達成するまで絶対に変えないというスタンスの、頑固でプライドの高いスポーツ選手のように、身体の態勢を頑固に変えずにいる。この状況で肆がスポーツ選手なのだとしたら、彼の目標は「柒が動く」ことだ。彼女が動かない限りは、肆は柒の腹の上で馬乗りのまま、体勢を崩すことはまずない。
時間が止まっている。部屋に置かれた生活用品たちは物音を立てない。箱ティッシュから出た舌は揺れない。風がない。無風。テレビの電源は消えたまま。電気が通っていない。ベッドの上で仰向けに寝ている柒が動かない。ベッドの軋む音が一切しない。身体が揺れない。柒も、肆も。
時間は止まった。だが音はかすかに聞こえる。ジーーっと無音の空間が鳴る。これは耳鳴りか、無音のノイズ。カーテンの遥か遠く、向こうでミンミンと蝉の声。歩行者信号の音色。交じり合う車のスキール音、ふかしすぎたアクセルの音は、比較的大きな国道の交差点と行き交う車の交通量を想起させる。
時間が止まっている。止まっているのはこの部屋だけだった。肆は柒の左耳を右手の指先で触れたまま静止、柒は仰向けで棺に入れられた死体のようにピクリとも動かない。
鼓動が聴こえない。膨縮しない胸、腹。
――幾分時間が経った。小一時間経った。
馬乗り状態の肆の臀部の下、柒の腹部が一瞬痙攣でも起こしたかのように小さく跳ねた。
肆は見逃さなかった。
「やっぱ生きてるわな」
時間が動き出す。
肆は口を開いた。柒の反応はない。未だに死体そのもの、あるいは時間が止まっているかのように静止している。
「こんな顔になっちゃって~」
整形でもしたのか、以前よりもこけた頬をさする。肆は続けて右掌をゆっくりと握り、拳を作った。左手を柒の口元に持っていき、人差し指から小指まで彼女の口に引っ掛けた。下顎を思いきり下げる。一般人がこんなことをされれば、咄嗟に「痛い」だの「やめて」だの叫んでしまうだろう。しかし柒は、「痛い」とも「やめて」とも叫ぶことはなかった。肆の行動に身を任せていた。
あんぐり、と口を開けさせられた柒。喉の奥の口蓋垂がはっきりと見えるが、やはり揺れていない。上下に動いてもいない。呼吸をしている所作は見られない。
肆が右手に作った拳を柒の口の中に入れようとする。当然拳の方が大きく、入りきらない。無理にでも入れようと押し込んだ。柒の口の端が裂けた。ピリッと音が鳴ったように両の口角から血が滲むが、構わず拳を押し込めばすっぽりと口腔内に収まった。柒の舌の上で拳をぐりぐりと動かすが、舌に反応はないどころか、呼吸すら感じられない。唾液が溢れれてきているようでぐちょぐちょと音を鳴らす。裂けた口角の血と唾液が混ざる。見下ろす肆は喉の奥まで拳を入れる勢いで拳をねじ込んでいるが、未だに柒は目を閉じたままだった。突っ込んだ拳に呼吸の息も当たらない。
こいつはいつまで息を止めていられるのだ。
本当はもう死んでいるのではないか。そんなことが肆の頭に過る。
しかし、ここで拷問をやめてしまっては柒の思うつぼで、本末転倒だった。諦めて肆がこの部屋を去った後に、柒はむくりと起き上がって逃げる光景――が脳裏に映る。
肆にとって、柒が死んでいてもいなくてもどちらでもよかった。肆たちが受けてきた拷問まがいな英才教育では、どのみち息を止めていられるのは最長で一時間半だった。その中でも柒は息を止めることが苦手な方で、一時間でもいっぱいいっぱいだったはずだ。
――もうそろそろ一時間半が過ぎる。さっきの腹部の一瞬の動き、あの際に少し酸素を吸ったのだろう。もうギリギリなはずだ。他人に擬死を使う際は呼吸しながらでも騙せるだろうが、同業者には効かない。肌を密着させてしまえば簡単に呼吸していることがわかる。他人なら息をしているか確認されたときだけ息を止め、疑似的に瞳孔を開いていればいいが――同胞はその手筈を知っているため、長時間肌を密着させるのだ。【擬死】は効かない。
柒の口元が最初に比べて大きく引き裂かれている。まるで口裂け女――赤いボディペイントを施したクラウンの様。両頬を血液が伝っているが、肆は構わず拳を奥へ奥へ、食道の中にでも入れてしまおうとぐりぐりと押し込み始めた。
――柒の腹部が揺れる。
ぼろを出し始めたな――と肆はいい気になった。「仲間を裏切るなんて柒も馬鹿だよなあ。俺たちゃ言っちまえば同類なんだよ。逃げ出せば殺されるんだ。他の殺し屋に殺されることはなかったとしてもさ、同類は殺し方を皆知ってんだ。整形して顔を変えたみたいだけど、逃げられるわけないって散々教え込まれたの忘れちまったのか?」
肆の拳は唾液でぐちゃぐちゃになっている。出し入れすれば悦を得られるだろうか。べっとりと拳を覆う唾液が股座から出てくる汁や潮の感触を抱かせる。しかし、拳だ。正直感触が気持ち悪い。が、肆は決して抜こうとしなかった。口を塞いでしまえば窒息して死ぬだけだ。悶えて、悶えて、ううーううー唸って、暴れても、決して抜いてやらない。馬乗りになった状態で、女の柒が男の肆をどかして抜け出せるはずもなかった。柒も肆も、戦闘の教育を受けてきた同胞とはいえ、同じ教育や訓練を受けても男と女ではどうしても差が出た。それは柒本人も当時から自覚していたはずだった。
――さあどうする?
次第に柒の腹部が動くようになってきた。限界が近づいているのだろう。しきりに上下する腹。「おうどうした? 苦しいのか? 息を吸ってみろよ。まあ吸えねえようにしてるのは俺なんだけどな」
肆が口元を緩めた。
――その悪趣味な憎き顔――へらへらとした表情――昔っからそうだった。きっと今も私の上でそんな表情を浮かべているんだろう?
瞼の裏で微笑んだ。
柒が目を開けた。肆は悪趣味な憎き気持ち悪い表情などしていなかった。半開きの口の端を両側に引っ張って「いっ」と叫ぼうとしたのだろう。だが最後まで「痛い」と口にしなかったのはさすが同じ訓練を受けてきた同胞なだけあった。しかし、肆は油断した。『感情を失くせ』散々教えられてきたのに忘れちゃったの? 気の緩みは一瞬でもお釣りがくる。「いっ」と口にしたそのコンマ一秒すら同胞には大きすぎるのだった。
目を開くと同時に思いきり口を閉じた柒は、肆の反応を見ずに柔軟な右足を鞭でも振るように大きく蹴り上げ、肆の後頭部を強蹴した。その勢いのまま肆の股の下から逆上がりするように抜け出し、抜け出す際に肆の両足首を掴んで勢いのままもう一回転した。肆のの上半身が抜けないように下に押し付け、海老反りにさせた――いや、海老にしては比喩が下手すぎない? これはヘアピンでしょ?
肆の臀部は後頭部に密着していた。
人間があらぬ方向に曲がるときの音は痺れる。ほらよく荷物を包むプチプチの緩衝材あるでしょ? あれを雑巾でも絞るようにねじったときのぶちぶちぶちぶちってやつ。快感じゃない? ファミレスに行ったら絶対割り箸を折って帰るの。折れ口の毛羽立ち、あのとげとげ、折れるときの音、繊維が一本一本絶たれていくような妄想、たまらないのよね。くしゃみしたときに細胞がいくつも死んでるって話聞いたとき、身体が震えあがるほどの快感を手にし、喜んだ。
柒は肆の上に跨っていた。すでに臀部が後頭部についているにもかかわらず、これでもかというほどに自分の臀部で押し付ける。その度に鳴る軋み。夜な夜なホテルでセックスをする若者たちと見境ない。ベッドの軋みなどではないあのプチプチを割るときのような、割り箸を折るときのような、一本一本折れる骨の音――ぎしぎしと鳴るベッド。聞くたびに濃厚な脳汁がぽたぽたと喉の奥に垂れてきているみたいだった――奥を突くたびに反応した女が喘いだ。鼻水や痰では味わいきれない濃厚なそれは、何度味わっても飽きなかった。
――逝く。
嗚呼、弱いって脆い……。肆の足首から手を放すと、彼の身体はどこかの美大生が作った造形物のような形をしていた。身体が柔らかすぎる人間がしたヨガのポーズにも見えた。死んだ人間に興味はない。柒はフリーキックを蹴る勢いで肆を蹴り上げた。
嗚呼、弱いって脆い。屍って人形。自分が同じようにならないためには強くなくてはならない。
信頼できるのは己の強さだけだ。権力やネット関連の強さも武器になる。でもそれって一瞬でひっくり返る可能性を秘めているはずだ。特殊な電磁波が地球を襲ったとして、電気やネットが使えなくなったらなんて考えると――。
一つのものに信頼を寄せすぎるのはよくない。
己の強さ、身体能力だけは万事共通だ。ネットで恐れられたハッカーも、権力を握った人間も、皆平等に血が流れている。流させることができる。だから逆に言えば、ネットで恐れられたハッカーが俊敏な暗殺者だったり、権力を握った人間がゴリマッチョな元軍人だったら柒は敵わない。
だから柒は強くなった。
強くならなくてもいい世界だったら、きっともっとおしゃれして、手足の指に一つずつネイルつけて、ピアスでもつけて、髪の毛先をアイロンで綾なして――。
幻想だよ。
騙されないように生きる。それがこの世界で生きる庶民の利口だ。
だから柒はそれを逆手に取った。人々が一番恐れる「人を殺した」という騙し方で。
悪いことだと思うか? 虫は強敵から身を守るために、毎日を生き抜くために、使っている知恵の一つだ。
自分が虫以下だと疑ったことはあるか?
――あと一人。