第九話「楽園へようこそ」
それから、数日が経った。
会津。
「會」
の一字を染め抜いた会津藩旗が林立する、会津若松・保科正之空港は、徳川体制の北の守りとして、天保年間に開かれて以後、拡張が続いてきた。
当初、ロシア海軍の脅威から蝦夷地を守る後方拠点として整備されたこの空港は、しかし近年、会津藩に対して幕府が求める役割の変化に対応し、変わりつつある。
徳川幕府は、昨年の秋、
「京都守護職」
という、国内軍事組織を新設し、会津藩主をもって、その長官に任命した。
このころ、反体制派による活動の焦点は、江戸から京都に移っている。
都では、新たな運動が沸騰しつつあった。
「朝廷を擁して兵を挙げ、天子の名において、攘夷を断行する」
という。
彼らは、幕府に対する一切の期待を捨てた人々だった。
――幕府には、なんの能力もない。そんな幕府は倒してしまうべきだ。
革命的な幻想は、国内の悲惨な状態に裏打ちされて、膨張していた。幕府の外交政策は国内経済の疲弊を招き、人心の離反は急速に進んでいたのである。
長州藩の攘夷主義政府は、こうした動きに支援を与え、幕府支配の不安定化を図る一方、攘夷に共鳴する一部の公卿を通じて朝廷に働きかけ、攘夷の詔勅を得ようと政治工作を続けていた。
それが実現したとき――、日本は世界の列強諸国と結んだ条約を破棄し、海外に開いた港を閉ざし、列国公使に開戦を伝えることとなる。攘夷主義者が天皇を擁し、征夷大将軍の存在は無意味になる。徳川幕府は自動的に消滅するのだ。
「そんなことになったら、大変だ。えらいことだ。だれか行って、なんとかしろ」
その、なんとかしろ、と言われたのが、会津藩であった。彼らの受難の道はこのとき定まったと言える。
すぐに、即応の兵一千が、会津から京にのぼった。
離着陸する輸送機の数は甚だしく増え、出征する部隊や帰還する部隊、京都に送る軍需物資の貨物などで、空港は連日、あわただしい。
その空港の上空――。
レシプロエンジンの牧歌的な音を響かせながら、一機のユンカース52型機が飛来したのは、文久三年五月二十日、午前十一時十六分だった。
この日――ひどく暑かった。
気温二十八度、湿度三十八パーセント。
馬上、RPG7ロケット発射機を掲げる会津藩祖・保科左近衛中将の像に取り付けられた温度計が、そのような数字を伝えている。
滑走路には、陽炎が立っていた。
ユンカース機は、牛が畑を這うようなのんびりした動きで空中旋回を終えると、やっと両翼を水平にして、ゆっくりと地上に近付き、土埃を上げて、左右の車輪を地面につけた。
三基のプロペラが、まだ音を立てて回転している。
「それっ!」
尾輪が滑走路につくと、地上誘導員の足軽が待避所を出て、両手に持った紅白の手旗を振り、機首を誘導路へ向けさせた。機は左方向に転じ、垂直尾翼に描かれた三ツ葉葵紋が、一瞬、初夏快晴の陽光を反射して、閃いた。停止、の信号。
「東照航空、二〇六便にご搭乗いただきありがとうございます。当機はただいま、会津藩、保科正之空港に到着いたしました。長らくのご搭乗、お疲れ様でした。どちらさまもお忘れ物をなさらないよう、今一度お手回り品をご確認ください。東照航空にまたのご利用宜しくお願い致します……」
どのような身分階層出身者でも問題ないよう、電子音声で録音されたテープが到着を伝えていた。
乗客たちはぱらぱらと立ち上がり、荷物入れの鞄や風呂敷包みを取り出して、欠伸をしたり伸びをしたりしながら、三々五々、機を降りていく。武家髷の者もあれば、商人髷の者もあり、乗り合わせた旅人たちの素性はさまざまである。
そのなかで、一人だけ降りようとしない人物がいた。
「あの、お侍さま」
着きましたけど――前掛けをした客室乗務員の少女は、十四歳かそこらの年頃で、北関東の訛りがあった。飛行中は、乗客に茶や菓子を供して回るのが仕事である。
侍は、だまっている。窓を見ている。
ユンカース機の四角い窓ガラスに、おかっぱ頭の青白い顔が映っていた。
富士の山に似た裾広がりの磐梯山が、遠くの空に見えている。
――また来てしまった……。
手に、辞令がある。
「大淀つかさ女、右の者、陸奥国只蓑郡、橘ノ庄保安官を命ず」
大淀、戻ってきた。