第八話「ロング・グッドバイ」
数日間は、何事もなく過ぎた。
その日の朝は、雨だった。
年若い一人の武士が、奉行所にきた。
文字通り一人で、供も連れていない。
傘を、自分の手で差している。
そのわりには、両刀の拵えがよく、髷も奇麗に整えている。
羽織は、このごろ流行りの羅紗を用い、袴も、小倉袴の高級品であった。
が、それでいて、嫌味でない。
奇妙な青年であった。
「おはようございます」
江戸市警の過激なストは続いていた。が、彼は、門前に張られたバリケードに悠々と近付くと、ごく普通な調子で、同心や小者たちに挨拶をし、すっとピケを通過して、建物のなかに入っていった。
――あれは誰だろう。
みな訝しんだが、その容儀、足取りともに、あまりにも落ち着いていて自然なので、たれも声をかけたり、留めたりする者がいなかった。ただ、奉行所に入っていく彼の後ろ姿を見送るとき、その羽織の背に小さく染め抜いた、長州毛利候の家紋があったのを認めたのみである。
「どうも、身内の者がお騒がせを致しました」
桂小五郎――という名札を受けた受付の足軽は、化政文化のビキニ美人が表紙を飾る週刊誌を閉じて、口を半開きにしたまま、相手の顔をまじまじと見た。長州の名士と名高い桂の名は、小学校中退レベルのこの足軽でも知っている。
見ようとして、見上げた。
桂、背が高い。
五尺八寸といえば、メートル法に直すと一七五センチくらいで、当時の平均男性より、二十から三十センチほども長身になる。
「お奉行さまにお取次ぎを願えませんでしょうか」
桂は生涯、礼儀正しい男であった。
後年、明治政府の有り様に絶望し、神経病で死ぬ彼は、若いころから下の者への気遣いが行き届いていて、このときも丁寧な物腰を崩さぬまま、お願い致します、と慇懃に頼んだ。その際、足軽の手に二分銀を握らせるのも忘れなかった。
桂がきたのは、もちろん逮捕された俊輔と聞多を釈放させるためである。
彼のねらいは、すぐに成功した。
「ほんとに反省しています」
彼らはそういって、神妙な面持ちで牢役人にあいさつをした。
身元引受人の男――桂が、二人のうしろに控え、だまって立っている。
「ほんとに反省……? えっ、いや、釈放とかないですよね?」
牢役人というのは、大淀のことである。
「スト破りの罪」
というものを食らった大淀は、この数日、便所臭い湿った留置場の番人をやらされていた。
「おまえら、もう何もするな。十手を置いて出ていけ」
筆頭与力は、大淀と利根屋の十手を没収し、この配置に落とした。
それから四日経っている。
「先ほど、あなたの上役の方に、保釈金をお納めしました」
桂は懐から領収書を出し、大淀に見せた。
保釈金は、二両であった。
おかしを万引きした少年よりも安い。
「そういうばかなことがありますかっ」
この二人は、大量殺人を企んだテロの容疑者ですよ、と大淀が続けようとしたとき、その声を聞いて、利根屋が目を覚ました。
「おえーっ!」
朝から酒を飲み、泥酔して寝ていたこの元刑事は、そのあたりにびちゃびちゃっと吐瀉物を吐き散らかした。白っぽいものが跳ね、桂と大淀の袴の裾にちょっとかかった。
「ちょっと、利根屋さん! うわ、きったな……。あの、すみません」
「いえいえ、これくらい大丈夫ですから。ご案じなさらずに」
桂は、涼しい顔で答えた。
内心は、苦りきっている。
――なんじゃ、この女。ぶち殺すぞ……。
ぐちゃぐちゃに切り刻み、残飯に混ぜて、サルに喰わしてやるけんのう。待っとれや、ワレ……。
神経病的な潔癖症が、桂という人物を作っている(この物語はフィクションです)。
ただ、それが表に出ない。
「彼らもしばらくこちらのご厄介になり、とても反省しているようです。もう二度と駐車違反はさせませんけえ、許してやってつかあさい」
「駐車違反?」
大淀の細い眉が、ぐっと寄った。
同時に、肩が下がる。彼女の癖で、眉間にしわが寄ると、かわりに肩の力が抜け、なで肩になるのである。
駐車違反――。
どうも、そういう罪になっているらしい。
保釈証明書の書面でも、駐車違反、という罪状になっている。
「まこと、身障者の駐車スペースに停めるなど、武士としてあってはならんことです。両名には、私からも厳重に注意しますので」
「ちょっと待ってください」
大淀は、あわてた。
「彼らの容疑は、テロ準備罪です。保釈なんてとんでもない。バンの中から大量の武器弾薬と、化学兵器も出てきたんです。それはどう説明するんですか」
「あなたに説明する必要はないと思いますが……」
そんな風に前置いて言っているあいだも、桂は爽やかに微笑している。
「車内に立ち入った際、あなた方は、捜索令状を奉行に申請しましたか?」
「えっ……」
それは、していない――。いや、できなかったのだ。奉行所のストライキは今でも続いているのだし、申請したとしても、令状など発行してくれるわけはない。
「幕府法修正四条の規定はご承知でしょう?」
呆然としている大淀に、桂の言葉が続いた。
「令状のない立ち入り捜査は違法です。その結果として見つかった証拠は、毒樹の果実となり、すべて無効になります。証拠なしのため、先ほど町奉行に公訴棄却を申請しました。彼らの罪は駐車違反です。――おい、行くぞ」
桂は二人の「駐車違反者」に手で合図した。
「うへへへ、いや、どうもどうも」
「じゃあな、お巡りさん。また遊ぼうぜ」
彼らは、出て行った。
便所臭く湿った、今はゲロの臭いまでする留置場には、大淀と利根屋だけが残された。
「なんだあ? お、おーい、大淀ォ、あ、あいつら、逃げちまったみてえだぞお?」
「こんなことがあって良いわけがない……」
ひきつった大淀の口の端が、ぴくぴくとわなないていた。
大淀は手鏡をかざして、身なりを少し整え、衣紋掛けの羽織をまとった。
「どこ行くんだあ?」
酔っ払い利根屋のうわずった声。
「こうなったら、お奉行に直訴するんです!」
兇悪なテロリストどもを野放しにしてはたまらない。それでは出世が台無しになるではないか。
ちょうどその日、八重洲北町奉行所は、一人の客人を迎えていた。
「突然の来訪にも関わらず、いやはや、かたじけのう存じます」
一橋家用人、平岡円四郎については、以前のくだりで述べた。
慶喜の重臣で、主人が幕府宰相となった現在では、官房長官のような立場の要人である。
「ストライキと聞いておりましたが、なかなか片付いておりますな」
平岡の用件は、それである。
町奉行所のストライキがいつまでも続き、江戸の治安がいつまでも崩壊したままでは、さすがに幕府の威信に関わってくる。
「ははは、いやいや、ストライキなどと申すのは、口だけのこと」
町奉行・浅野備前守は、奉行所のなかを案内しながら、貴族のように愛用の扇子で口もとを隠して言った。
「みな、民の安全を守るのは我らを置いてほかにない、と信じております。のう、安藤」
「は、然様に」
筆頭与力、安藤は、上司の言葉に鷹揚にうなずいてみせた。
「市警の空気も数年前とはすっかり変わりました」
安藤は言う。
「町方が賄賂をとり、汚職まみれ、などというのは過去の話でござる。市民の平和と財産を守り、徳川家に従順な者だけを守ります。テロとの戦いは今が正念場。このような重大な任務をまっとうするためにも、公方さま恩顧の旗本、御家人衆に対する、今まで以上の手厚い保護と、充分な福利厚生、税金で遊べる快適なレジャー施設が必要なのです」
「うん……。実はそれについてはな、公も先ごろ、いたくご憂慮あそばされていた」
「と、申されますのは?」
安藤は慎重な調子で、平岡の顔色を窺った。
「先日のテレビ討論で公が申されたのは、世界のクジラを守れ、ということであったのだが、それがいつの間にか、御家人を解雇する、という風に伝わってしまったのだ。どうも誤解があったようでなあ」
「はあ?」
「だから、町奉行所のほうでもな、ストライキのようなことはやめ、今まで通り、安心して職務に精励してほしいのだ。――時に、テロとの戦いといえば、最近、長州の攘夷主義者を二人、摘発したとか聞きましたが、お奉行、それはまことで?」
「ああ、その件」
浅野備前守は、首筋に扇子をぴしゃりと当て、だめだめ、という風に手を振った。
「先ほど、釈放いたしましたわい。もう出た頃でござろう」
「それは何ゆえ」
「長藩の公事師めがやり手でのう。捜査が違法だとか証拠が無効だとか、ごちゃごちゃ言っておったのう。安藤?」
「捜査官の怠慢でござる」
あとを引き取って、安藤が答えた。
「すでに十手を没収、適切に処分いたしました」
それはスト破りをしたからで、事件とは無関係なのだが、そのことは黙っていた。
二名の捜査官は、修正四条に違反し、被疑者の権利を無視。令状を請求せず、過剰暴行を加えた――安藤は罪を並べ立てた。
「ふーむ、そういう警官が居たんでは、こまるな……」
平岡は顎に手をあて、真剣な表情で考え込んだ。
「それでは諸外国に対し、示しがつかぬ。日本は遅れた野蛮な国と思われ、ますます列強に乗じられるではないか」
「はっ、ごもっともです」
安藤は、宰相補佐の面上に立った憂色を敏感に察知し、何度も首肯した。
――その警官たちに会ってみようか。
平岡は、ふと考えていた。
政治の道に進まなければ学者として名を残したであろうこの男は、人は誰でも、適切な教育と指導さえ受ければ、真っ当に更正できるものと信じている。
――その警官たちに会って、日本の現状と、幕臣のなすべきことを説き聞かせれば、きっとわかるはずである。そうすれば将来、ウィキペディアの記事にのる逸話が増えるではないか。
「その捜査官たちに会ってみたい。彼らはどこに居るのか?」
「はい、彼女ら、ですが……」
「ほう、女性の警官かね。それはいい。日本はジェンダーに配慮した、平等で民主的な国として宣伝に利用しよう」
大淀と利根屋は、そのときちょうど、三人が曲がった廊下の先にいた。
高官たちの足が、はたと止まった。喧騒が聞こえる。
「あーっ!」
大淀が、さわいでいた。
「いい加減にしてくださいよ、利根屋さん! 死んでください!」
利根屋は、大淀の細い身体にしがみ付き、
「おえーっ! ふう……。ひっ。ぶっ、ぶえーっ!」
着物の衿を左右に開き、胸に顔を突っ込んで、黄白色のペースト状の物体を、びちゃびちゃっ、びちゃびちゃびちゃっ、と嘔吐していた。
安藤は、平岡に向き直り、
「あいつらです」
と、指差した。