第六話「愛国者の挽歌」
攘夷主義者のバンを見つけた大淀、そして利根屋。
即座に十手を抜いた。
「EPDだ! 動くなよ、カスどもが」
これは利根屋の言葉。大柄な利根屋は、肉食獣のような大音声が出る。
EPDは、「江戸市警察」の略である。
「神妙にしなさい、警察です!」
大淀もいった。
大淀は、利根屋のうしろに隠れている。
「おい、テメー。もしかして、あたしを盾にしてないか?」
「そんなことないですよ?」
大淀は、相棒の背中にしがみついたまま、まじめな顔で答えた。
「私はただ、昇進を目前にして、こんなところで殉職するのは嫌なだけです」
「あたしが死ぬのはいいのか? おいお前ら、こいつを射て、このおかっぱ頭をな」
テロリスト二人、長州の志道聞多と伊藤俊輔は、警官たちが突然言い合いを始めたので、咄嗟に判断力がなくなり、ぼうっとしていた。
「なんてことを言うんですか」
大淀は、反論した。
「利根屋さん、私は、大学卒の高プロ人材で、日能研一位のインテリですよ? つまり社会にとって有用な人間で、ノーベル賞も貰える素晴らしい逸材なんです。高校中退の、夢も希望も未来もない、どうしようもないろくでなしの犯罪者の利根屋さんが、私の身代わりになって死ぬのは名誉じゃないですか」
大淀は、そういうことを本気で思っている。一種の病気であった。
「なんだと! このやろう」
「ぼ、暴力はいけません。ああっ、しまった、利根屋さん、テロリストどもが逃げていきますよ」
「なにっ」
利根屋は大淀の胸ぐらを放し、あたりを見回した。テロリストたちは、一目散に走って逃げている。神妙にしているわけはない。
利根屋は憤慨した。
「あのくそどもがーっ、警官のコミカルなお喋りの途中で逃げやがって。追え、大淀」
「はい!」
二人は、追った。
志道聞多、伊藤俊輔。
のちの井上馨、伊藤博文であることは、すでに述べた。
井上は、初代外務大臣。
伊藤は、初代内閣総理大臣となった。晩年、伊藤はこのときの逃走劇を回顧して
「あの時ばかりは、真に危うい所であつた。幕吏がわれわれのバンを見付けた時には、最早これまでかと、流石のおれも蒼くなつたよ」
と述べている。
この物語の時点では、伊藤も肖像写真のようではない。
髪は黒く、髭も生やしていなかった。特徴のない普通の若者である。
「大淀、左のくそを追え!」
テロリストどもが二手に分かれたのを見て、利根屋が指示をした。大淀はそうした。拒否する理由はない。
十番と靖国の交差点の角にある宝石店――大量の暴徒が押し寄せ、略奪している――の横の路地を、聞多は直進、伊藤は曲がった。
大淀と伊藤、路地を走る。
「待ちなさーい!」
十手を掲げて、大淀は駆けた。伊藤も駆ける。
追う大淀、逃げる伊藤、どちらも、足は速くない。
当時の日本人は、走るという動作を知らない者が多かったという。
日常の衣装である着物が駆け足に適していないこともあり、幕末になるまで日本人の歩行法は、現代とは違っていたと考えられている。
当時の流儀では、片方の手と足が、同時に前に出る。
右手と右足、左手と左足、のように、現代とは逆であった。走るには無理がある。
なので、二人の競争も、現代の基準からすると、相当にのろのろしたものであったのは疑いない。
それに、疲れやすい。
疲れると、人はキレやすくなる。
「追ってくんじゃねーっ!」
路地の真ん中あたりで、伊藤は背中に掛けていたカラシニコフ銃を構え、振り返った。
銃床が金属製で、折り畳みができるようになっているタイプだった。町中で取り回しがしやすいように、テロリストはよく、この型のカラシニコフを使用した。
銃口を向けられた大淀。
テロリストに対し、毅然と対応し、敢然と、命がけで立ち向かった。――わけはない。
「ひええっ」
両手を挙げ、情けなく降伏し、命乞いを致しました。
「た、助けてください、おねがいします」
「うるせーっ! おめーは今から死ぬんだよ!」
のちの総理大臣も、まだこのときはチンピラである。
カラシニコフの銃口を前に突き出し、引き金をひいた。
が、弾が出ない。
「あ? なんでだよ、くそ! 不良品かテメーっ! 何もしてないのに壊れた! 意味わかんねーっ!」
「あ、安全装置が外れてないとか……?」
インテリの性、大淀は思わずアドバイスしてしまった。
伊藤は安全装置を外し、再び構え直した。
「あああああ、今のなし、待った! や、やめてください」
大淀はさわいだ。
「本当は、警察なんてなりたくなかったんです。幕府に洗脳されてました。攘夷主義者になります、今日からなります、もうなりました、今! ほんと。同志です。ね? だから許して、あああーーっ」
「やかましい! 往生せいや!」
伊藤は、引き金をひいた。
ばばばばば――、カラシニコフ銃の発砲音が路地に響く。
「ひいいっ」
大淀は手のひらで顔を覆い、あげるべき声をあげた。
だがそのとき奇跡が起こった――。大淀は死ななかったのだ。
「おわーっ」
伊藤は、カラシニコフを上方に連射しながら、ぐるぐると回っていた。
なにが起こったのか。――この人物は、若い頃から口舌の徒であった。
尊王攘夷を唱えながら、銃もろくに射ったことはなく、そのうえ、反動の大きな七・六二ミリ口径の弾を、銃床のないカラシニコフで連射したため、銃身を制御できなくなった。
大淀は、呆然と見守っている。
「ぎゃあああ、助けてくれーっ、あーーっ、……ウッ」
カラシニコフ連射男は、仰向けに転んだ。ごしゃッ、という、真っ赤なトマトが潰れるような音がした。駐車場の車止めに当たった後頭部が、衝撃で破裂したのだ。
伊藤俊輔は、死亡しました。
「し、死んでる……」
「おーい、大淀ーっ」
そこへ、利根屋が駆けつけてきた。
右手に、レミントンM870ショットガンを持っている。
「おい、無事か? 銃声が聞こえたぞ」
「はい、あの、大丈夫……みたいです。すみません、この人がいきなり射ってきて」
「殺したのか? わっはっはっ、お前、なかなかやるじゃん」
死んだ男の身体を足蹴にして調べながら、利根屋は愉快そうに笑った。大淀は訊ねた。
「利根屋さん、もう一人のほうはどうなったんです?」
「心配するな。そこの交差点にいるよ。もう悪事はできないようにしてやったぜ、こいつでな」
利根屋は、M870ショットガンのショルダーハーネスを揺らして、げへへへと笑った。ショットガンは、暴徒から奪ったという。
そして、射った。
大淀は、見に行った。
交差点の真ん中で、もう一人のテロリストが倒れていた。
背中の真ん中を射ち抜かれている。ショットガンから発射された十二ゲージ弾が、背骨ごと脊髄をへし折っていた。
志道聞多は、死亡しました。
「あたしら、英雄だな」
利根屋がいった。テロを未然に防ぎ、多くの人命を救ったのだ。殺戮を企んだテロリスト二名は、処刑した。
「やりましたね……」
大淀はまだ、心臓がどくどくと音を立てているのを感じていた。
これはもう、昇進は絶対間違いない。