桜色への復讐
もし、あの水筒が桜色で無かったならば……。
きっかけは会社に届いた段ボール四箱だった。
中は五百枚ずつ白い紙に包まれたA4のコピー用紙だ。これを階段を上がって二階の部屋まで運び、段ボールを開けて中のコピー用紙を棚に並べ直さなければならない。一つが五キロの重さだから、全部で二十キロ。男性なら平気だが、女性にはちょっときつい作業になる。
その日は疲れていたから、そのままにしておいてもよかった。しかし放っておいても誰も運ばない。気付かないふりだ。又は気づいていても、自分の仕事ではないと思っているのか。放っておけば段ボールは明日もそこに置かれたままだろう。いつも他の人はわざと忙しそうにパソコンのキーを叩いたり、その前を素通りして喫煙室に行く。
ちょっと重いだけだ。女だってできない仕事ではない。少なくとも今まで、私は何も考えずにやっていたことだった。正確に言えば私か、去年入社したS子のどちらかがやっていた。
私が働いているのは、社員が八人ほどの中小企業だ。事務は私とS子。社長の他、残りの五人の男性は営業職なので、外に出て事務所にいないことが多い。
振り返るとS子はデスクに座って、どんよりと曇った窓の外を眺めていた。先月妊娠が分かったので、妊婦に重い荷物を運ばせる訳にはいかない。私は黙って一つ目の段ボールを持ち上げ、コピー機が置いてある二階に運んだ。
そして二つ目、三つ目の段ボール。やっと最後の四つ目の段ボールを持ち上げた時、デスクの上の黒い電話が鳴った。私は段ボールを両手に抱えながら、チラッと電話が鳴っている事務所の部屋を見た。S子が急にお腹に手を当て、辛そうな顔をした。私は持っていた段ボールを降ろすと、走って電話を取った。
「お待たせしました。○○商事でございます」
要件をメモして電話を切った。顔を上げると、さっきまでお腹を押さえて苦しそうにしていたS子は、自分のデスクの引き出しからチョコレートを出し、口の中に放り込んだ。私と目が合うと
「妊婦って一度に沢山食べられないから、すぐにお腹がすくの。二人分だし」
私はメモを社長の机の上に置くと、再び最後の段ボールを持ち上げた。
何のことはない。いつもの通常の職場だ。他の人が面倒な仕事を見て見ぬふりをするのはいつものこと。誰がやるとかやらないとか、そんなことをウジウジ考えている間に、自分が仕事をやってしまった方が気楽だ。
ふぅ。
段ボールを四箱とも運び終わると、背伸びをして腰を叩いた。
このくらいの作業で、なぜこんなに疲れるのだろう。私はあと二年で四十歳になる。ここの職場では、社長を除いて私が一番年上だ。S子は一番若い。本来ならば一番体力があるはずである。それがS子は妊娠しているために皆から大切にされ、身体を使う仕事は堂々と免除されている。そしてそれが全て私への仕事として回ってくる。
本来ならば自分は一番いたわってもらってもおかしくない。それなのにS子の分まで体力を使い、それが当然のように周囲から思われている。S子の子供と自分は何の関係も無いのに、自分はまるでS子の胎児の奴隷のようだ。
おかしい。
なぜ私は泣きたいくらいに悲しくなったのだろう。
それだけのことなのに。それほど辛いという仕事ではない。それでも怒涛のように沸き上がってきた。自分が惨めだ。そしてどうしようもない疲労感。これは正常な自分ではない。
階段を降りて事務所に戻ると、部屋には誰もいなかった。S子はまたトイレにでも行っているのだろう。デスクにはS子の水筒が置かれたままになっていた。それはピンクよりもさらに淡い、桜色をしていた。
もう、この水筒とかかわりあいを持ちたくない。おととい、この水筒のことで社長から呼び出されたからだ。
「妊娠して体調が悪いのに、君からきつく言われたとS子さんが悩んで相談にきました。お茶も飲ませずに働かされて具合が悪くなったって。本当ですか」
「お茶を飲むなとは言っていません。朝の忙しい時間だけ、デスクに座っていて欲しいと言っただけです。S子さんもそう言って分かってくれたと思っていたのですが」
私は社長に事情を話した。
ここの職場には職員用のコーヒーサーバーがある。お茶が飲みたい時、みんなそこでコーヒーを煎れて飲むことになっている。
「妊娠したからコーヒーは飲まないことにしたの」
そう言ってS子は自分用の水筒を持ってきた。そして業務開始時間と共に給湯場に行って、湯を沸かして麦茶を煎れている。
「コーヒーサーバーの代わり」
そう言って給湯室に行ったきり、毎朝二十分は帰ってこない。
「仕事はじめの最初の十分は問い合わせの電話が一番多いから、その時間はデスクで待機してもらってもいいかしら」
S子にそう言っただけだ。すると
「では私だけお茶が飲めなくていいのですか。他の人はコーヒーサーバーで飲んでいるけれど、私は妊娠しているからコーヒーは飲めないのです。それで喉が渇いて体調が悪くなったらどうするのですか」
実際、昨日私はそれ以上言わなかったし、S子の愚痴も別のことに変わっていた。
「コンタクトの処方で眼科に行ったら、妊婦は診察代が高かったの。妊婦加算だって。それで文句を言ったら、妊娠している人にはお医者さんが特別丁寧に診察するからだって言われたの。ひどいでしょう」
あの後、S子は私のことを社長に言いに行っていたのか。私の話を聞いている社長は明らかに面倒臭そうな顔だった。
「いろいろ大変だろうが、君もS子さんが入社する前、二週間夏休みを取っただろう。お互い様ということで。S子さんは妊娠中だから大切にしてあげてくださいね」
女同志のゴタゴタはどうでもいい、社長の顔に現れていた。もうこれ以上は話しても無理だ。私はS子にも社長にもそれ以上言わなかった。そして毎朝、問い合わせや苦情の電話は私一人で受けていた。S子はそれを知ってか知らずか、電話対応が終わったくらいの時間に、水筒を持って自分のデスクに戻ってくる。
桜色の水筒だった。
私は桜の花びらと同じ、淡いピンクが好きだ。一番好きな色だ。子供の時にピンクと黄色のおもちゃがあれば、どちらがピンクを取るか姉と喧嘩をしていたくらいだ。
しかしあの日、私はその桜色に対して腹を立てていた。
それは段ボールを運んだ次の週、待合室の椅子に座っている時だった。土曜日は産婦人科の待合室は混んでいて、なかなか自分の診察の順番が来ない。
ふと見ると、待合室の壁にポスターが貼ってある。そこにはリボンの絵がデザインされていた。くねくねと曲がった桜色のリボンが、手を交差させた女性の形になっている。その下に『子宮がん検診を受けましょう』の文字。
それだけではない。周りを見ると壁紙も病院の定番の白ではなく、ほんのり淡い桜色。受付の事務員の服も桜色。置いている女性誌の表紙まで、全体的にピンクっぽい。
要するにここに来ると桜色、すなわち女性が強調され過ぎているのだ。ここにいるだけで『お前は女性なのだ』と、イヤでも思い知らされる。逃げられない儀式のようなものだ。ここ以外の外の世界で何をしようと関係ない。例えば他人が見ていない場所で働くとか、困っている人を助けたとか、会社に大きな利益をもたらしたとか。そういった事をいくらやって自分の正体を隠したとしても、ここでは自分が女性であることを否応なしに見せつけられる。
お前は女性なのだ。
女性でありながら、女性ではないのだと。
ここにいると桜色が息苦しい。
「お待たせしました。次の方どうぞ」
呼ばれて私は診察室に入った。
「最近、疲れやすくてイライラするのです」
ボソッとした声で医者に訴えた。白黒のMRIの映像を過去のフィルムと見比べていた医者は、その映像から目を離さずに答えた。
「大丈夫ですよ。術後の経過は順調ですから。お薬はこのまま続けてくださいね。ホルモンを調節する薬ですから、人によっては更年期のような症状が出ることがあります。そのせいでしょう。普段の生活は無理しないで、できるだけ休むようにして、もう少し薬を続けてください」
診察は五分で終わった。
診察を終えて、私は病院の前にある薬局に処方箋を出した。薬剤師はいつもの人と違って、何だかたどたどしい。真新しい白衣の胸元を見ると『実習生』という名札が見えた。私に薬を渡す作業は、見習いの実習生で充分というものなのか。隣に白衣の薬剤師が、その実習生を気にして心配そうに立っている。実習生は私に向かって教科書を読むように説明を始めた。
「お待たせしました。前と同じ薬です。一日二回飲んでください。これは水が無くても口の中の水分で、すぐに溶けるタイプのものです」
前から飲んでいるから、言われなくても分かっている。待ち時間が長かったから、早く帰らせて欲しい。それなのにこの実習生は長々と説明する。面倒なので、そのまま黙ってうなずいた。実習生はさらに続けた。
「妊娠の可能性はありますか」
さすがに私はムッとして「いえっ」とだけ答えた。子宮がんで子宮摘出手術後の再発予防のために薬を飲んでいるのに。私の不機嫌を悟ったのか、隣に立っていた薬剤師はあわてて言い訳をした。
「念のためにお伺いしました。申し訳ありません。この薬は妊娠している人が飲んではいけないので、一応全員に聞くことになっています」
私はちょっと聞いてみた。
「ふぅん、妊娠している人が飲むとどうなるのですか」
実習生は自分の知識を発表できると思ったのか、喜んで説明した。
「妊娠が継続できなくなる可能性があります。あ、でも妊娠していない人が飲まれるには問題ありません。安心してお飲みください」
顔を上げると、薬局の白い壁にも同じ『子宮がん検診を受けましょう』と書かれた桜色のポスターが貼ってあった。私は無言でひったくるように薬を受け取った。
イライラする。それは医者が言うように今の薬の副作用なのだろうか。それもこれも、全て私が悪いのか。違う。悪いのは桜色だ。あの淡い色にイライラしたのだ。私はあの桜色の待合室で一時間待ったのに、医者も分かってくれなかった。
ふとS子の言葉を思い出した。
妊婦加算。
「妊娠している人にはお医者さんが特別丁寧に診察するって言われたの」
私は命をかけているのにきちんと話を聞いてもらえなかった。
医者は妊婦にだけ丁寧な診察なのだろうか。
私はただ「薬を続けてください」だけしか言われなかった。
この「水に簡単に溶ける薬を続けてください」だけ。
妊婦が飲んではいけない薬。
年中トイレに行って帰ってこないS子。その分私が仕事をしても、それでもまだ私が働けと言われる。みんなS子を気遣うフリをすることによって、優しい人間になったと自己満足をしている。
どこに居ても私だけが取り残されている。
デスクに置かれたままのS子の桜色の水筒。
女であることを思い出させる色だ。
それから一か月後。
私は一時間遅刻で会社に出勤した。会社では社長や営業の社員が喜んで私を迎えてくれた。
「ああ、やっと来てくれた、待っていました。いやぁ、あなたがいないと朝はパニックだよ。電話は鳴りっぱなしだし、書類の場所は分からないし」
「遅れてしまって申し訳ありません。手術の後の検診に行っていたので」
本当の病名は会社には話していない。去年、胃潰瘍という理由で夏休みを取り手術を受けたのだ。私は急いで仕事を片付けていった。
S子はあれから二週間休んでいる。会社に届いた電話によると、流産の処理は大したことはなかったが、精神的なショックで起き上がれなくなっているらしい。おかげで事務の仕事は私一人でやるようになった。しかし忙しさはほとんど変わりない。今までも朝、S子は給湯室から出てこなかったし、少しでも体力を使ったり面倒な仕事になると、途端に具合が悪いと言ってほとんど仕事をしていなかったから。それどころか何かあるごとに回りの人から
「S子さんは妊娠しているから、大切にしてあげてね」
と言われ続けていた。今は、そう言われることもなくなった。
「あなたには一人で全部やってもらって悪いね。助かるよ。S子さんは困ったものだ。そろそろ体調も良くなっているはずなのに、いつまでも出勤しないで」
「体調が悪い時はお互い様です。私が頑張りますから、ゆっくり休ませてあげてください」
「そう言ってもらえると助かるよ。S子さんが休んでいる間はお願いしますね。お菓子を買ってきたよ。忙しそうだからコーヒーも持ってくるね」
一人で仕事をしている私を見て、社長がコーヒーサーバーからコーヒーを持ってきてくれた。
たまっていた書類を片付けたあと、私はゆっくりコーヒーを飲みながら今朝の診察を思い出した。
医者は私に最近の体調を尋ねた。
「どうですか。身体の調子は。イライラしたりすることはありませんか」
私はニコニコして答えた。
「いいえ。最近はとても気分が良くて、体調も良くなりました」
「そうですか。それは良かった。今まで再発予防のためにホルモンを抑える薬を飲んでいましたが、そろそろ薬を中止して良いでしょう。あとは定期的に検査を受けてください。薬を中止してホルモンが普通に自分の身体から出るようになったら、もっと体調も気分も良くなるはずです」
医者は私の方を向いてニコリとした。帰り道、薬局を覗くともう実習生はいなくなっていた。
ホルモン剤は医者から言われて、今日から中止する訳ではない。すでに一週間前から飲んでいない。途中で薬が足りなくなったからだ。確かに薬で無理に抑えていたホルモンが戻ってきて、一日ごとに今までのイライラが消えていくのが分かる。
S子は退院した後、ずっと会社を休んでいる。
「ここの仕事は心配しないで、ゆっくり休んでくださいね」
電話口で社長がS子にそう言っているのが聞こえた。
けれど覚えていて欲しい。結局どんなに優しい言葉をかけられても、そんなものは表だけの優しさだ。一か月もすれば周囲の人間は忘れてしまう。本当の苦しみはその後からやってくるのだ。忘れようとしても、それは追いかけてくる。S子もいつか気が付くだろう。あの桜色の壁の息苦しさに。
S子は昔の私と似ている。きっと私とS子とは、これからうまくやっていかれるだろう。気が付くと窓の外は桜が満開だ。
私はS子が大好きだ。
桜色の水筒はS子のデスクに置かれたままになっている。
私はその隣に、自分の桜色のコーヒーカップを置いた。
妊婦加算がテーマです。
もう少し推敲してから投稿する予定でしたが、妊婦加算が今月で無くなることが決まったので、早めに投稿することにしました。