オアシスに湧く酒
仙台短編文学賞に応募して、落選した作品です。
序
追いかけても逃げ水には手が届かない。
だって蜃気楼なのだから。
それは誰でも知っている。
けれど、僕の場合は。
もう手が届かないと知っているから、いや、それがもう追いかけていたものとは違うのだと気付いてしまったから届かないのだ。
夢の中のオアシスに湧き出た、郁々たる美酒のように。
壱
青に変わった歩行者用信号機の向こうに、洒落たカフェが見えた。
店の中では、真っ白なコックシャツに真っ黒なソムリエエプロンを身につけた店員がきびきびと歩き回っている。
目に見える限りでは女性は一人だけ、男は二人で、皆、黒の帽子を被っていた。ふんわりと丸みを帯びた帽子は、確かキャスケットとかいう名前だったはずだ。まるでモデルと見まがうようなスリムで背の高い店員達によく似合っている。
店の入り口のあたりのオープンテラスでは、ビジネススーツの女性が、同じくスーツ姿の男性相手にタブレットPCを使って商談をしているようだった。どちらも自分より少し年上、三十に届くか届かないというところだろうか。額を寄せあってにこやかに話している様は、恋人同士のように見えなくもない。
――なんだよ、入りづらいな――
瀬上範人は心の中で独り言つ。
とはいえ、特にコーヒーが飲みたいというわけではなかった。単に座れる場所が欲しかっただけだ。
範人は道を渡ることをやめ、道に沿って歩き出す。
が、すぐにふらついて道ばたに立っているガス灯の柱に寄りかかる。
そういえば、経年劣化で既にLED交換された街灯があると聞いているが、このガス灯はどうだろうか。
未練だな、と範人は思う。LEDに替えるなら、ガス灯の姿をしていなくてもいいだろうに。
けれど、こうも思う。
ずっと変わらずにいてくれたら、それが一番のはずなのだ。
脳裏に浮かびかける顔がある。
しかし、範人は必死にそれを振り払った。
忘れたい顔だった。忘れなくてはいけない顔だった。
そのために、飲んでいたのだ。
まだ足りない。思い出すようではまだ足りない。
ガス灯を突き放して歩き始めた横で、銀行のシャッターが降りていくのが見えた。陽はまだ高い。
強い酒が飲みたかった。
砂漠に迷い込んだ旅人が、オアシスの水を欲するように。
昼間からイタリアンのファミリーレストランでパスタやピザをつまみにビールやワインをしこたま飲んできた。腹がふくれてもう量は飲めない。
つまみもチェイサーもなしで、蒸留酒を飲むのが理想だ。とはいえそんな店がこの時間に空いているだろうか。
その時、鼻先に冷たいものがぽつりと当たった。
見上げると、季節外れの入道雲がぐんぐん成長していくのが見えた。
稲光が、閃いた。ほんの一瞬遅れて、雷鳴が響き渡る。
近くに落ちたに違いない。同時に、大きな雨粒が地面を叩きはじめる。
店を探している余裕はなかった。
範人はとにもかくにも雨宿りすべく、すぐそばの雑居ビルへと逃げ込む。
入り口を入ってすぐ、足がもつれて転ぶように座り込んだ。すると、真っ直ぐ入ってきたのでは見つけられないような場所に、地下へと続く階段があった。這いつくばるように近づき、覗いてみると、わずかに見える階下で、人影がよぎった。
後ろ姿しか見えなかったが、若い女性のようだった。髪は肩に届かない長さで、元気よく外側に跳ねている。白のシャツに、黒のベストと共布らしい細身のパンツをあわせていた。
しっかりと伸びた背が、凜々しく見えた。
なぜだか、バーテンダーに違いないと思った。
弐
ふらりふらりとした足取りで階段を降りた先には、いかにも、という店名のこじんまりとしたカラオケバーとスナックがあるきりだった。もちろんまだ夕方とは言えないこの時間では、どちらも開いていなかった。
あの若い女性バーテンダーはどちらかの店員で、開店準備のために出勤してきたところなのだろうか。
しかし、あのきっちりとした姿はオーセンティックバーのバーテンダーが似つかわしいように思うが。
そう思いつつ足をすすめると、フロアの一番奥から飾りのない重厚な木戸が姿を現した。のぞき窓などはなく、中の様子は覗えない。看板もなく、店なのかどうかさえはっきりしないが、不思議とあのバーテンダーに思えた女性によく似合っていると思った。
思い切って、金色の手すりのようなドアノブを引いた。店でなかったら、などとは考えなかった。酔っていなければ、こんな思い切った事は出来なかったに違いない。
ぎい、という重い音を響かせながら木戸が開いた瞬間、思わず呻いた。
木戸の内側には、酒の王国が広がっていた。
黒を基調とした調度品で飾られた店内は、店の外にあったガス灯を思い起こさせるような照明に照らされており、正面には一本足の椅子が七つならんだカウンター、その向こうにはこの世に存在する酒で、ない酒がないのではないかと見まごうくらいの量の酒が、壁一面の酒棚に並んでいる。
そしてカウンターと酒棚の間では、先ほどの女性と思われるバーテンダーがグラスを磨いている最中らしかった。が、範人が店に入った瞬間こちらを向き、いらっしゃいませと声をかけてきた。一瞬ドキリとするような整った顔立ちで、不思議と少年のような雰囲気を持っているのは、化粧が薄いせいだろうか。
範人は酔いを隠すべく、足元のふらつきをおさえながらカウンターに進み、イスに腰掛けた。
「開いてるんだよね、この店? 看板が見あたらなかったけど」
「……はい。開店中です」
彼女の声は、ひと言で言うと涼やかだった。それでいて、喧噪の中でも聴きとれるような、女性らしい高音で凛とした声だ。しかし、女性の声に間違いはないが、少年の声と言われたら納得してしまうようにも思える。
「そうか、良かった。何を頼もうかな」
正直カクテルの名前などあまり知らない。有名なウイスキーでも頼んでみようか。
手渡されたおしぼりで手を拭いながら悩んでいると、手元にかち割り氷と無色透明な液体が入ったきらきらと光るグラスが置かれた。
「まだ頼んでないけど」
「水です。失礼ですが、ずいぶん酔っておられるようですね。今日はもうアルコールはやめておいた方がいいでしょう。ひと休みされたらお帰りください。もちろんチャージは不要です」
かちん、ときた。
「僕を客として認めてくれないってこと?」
「いえ、そういうつもりでは……」
彼女の顔が、寂しそうな色を帯びたように思えた。だが、かまわず続ける。
「客にもいろいろ事情があるんだよ。そこを理解して欲しいな。バーテンダーさん、酒が飲みたいんだ。頼むよ」
彼女は一瞬頷くように俯き、目を閉じたが、すぐにきりっとした表情にかわり、迷いない声で断言する。
「いえ。あなたはこの店のお客様です。お客様だからこそ、飲ませたくないのです。バーはお酒を飲むところ。お酒に飲まれる場所ではないのですから」
「……あ……うん。ありがとう……」
罪悪感が、高ぶった心を押さえつけていく。これではまるでクレーマーだ。
しかし、それでも、酒を飲みたいという欲求は消える事はなかった。
心の中が乾ききり、いくつもの大きなひび割れが痛みを発している。むろん、そのひび割れが酒で閉じるわけではない。酒は心の傷を癒やしてはくれない。ただ痛みを麻痺させるだけだ。
わかってはいる。わかってはいるのだ。
だから、妥協点を提案する。
「一杯……一杯だけ。ウイスキーでもブランデーでも。酔える酒を出して欲しい」
けれど、彼女も簡単には折れなかった。
「お客様はもう充分酔っておられます。それ以上飲まれても体を傷つけるだけです。バーテンダーとして、お酒をお出ししたくありません」
「頼みます。一杯飲んだら退散するって約束するから」
一度深く頭をさげ、そして、彼女を見つめる。
たまゆら、互いの意志の力がこめられた視線が交錯した。が、それは長く続かなかった。
彼女が諦めたようにため息をついた。
「わかりました。けれど、度数の高いお酒はお出しできません。お出しするものは、わたしに任せていただけますか?」
それが、彼女にとっての最後の譲歩なのだとわかった。だから、こちらも妥協せざるを得ないと思った。
「お任せします」
ホッとした表情で、彼女が微笑んだ。
「お好きではないお酒や飲み物はありますか?」
「いや、特に思いつかないかな」
「甘いお酒も大丈夫ですか?」
「甘すぎなければ」
「炭酸は大丈夫でしょうか?」
「別に嫌いじゃないけど、今はお腹いっぱいだから避けたいかな」
彼女が目を伏せつつ、左手の人差し指を細い頤にあてた。
ネイルアートだとか、飾るものが一切見あたらない手だったが、とてもきれいに見えた。
なにより、悩んでいる顔も一幅の絵画を見ているようだった。
見惚れていると、不意に彼女が視線を上げて、目と目があう。酷くこそばゆい感じがした。
「決まったの? 僕の飲む酒」
「はい。気に入っていただけるといいのですが」
言うなり、彼女はタンブラーをカウンターの上に置いた。そして、酒棚からハチミツ色をした液体の入った酒瓶を、冷蔵庫からコーラのような色をした液体を取りだす。
氷を入れたタンブラーにハチミツ色の液体が注がれ、コーラ色の液体でそれが割られた。
かき混ぜ棒で、くるりとひと回転。
美しい所作だった。よどみなく行われたそれは、魔法の儀式のように思えた。
どうやらカクテルのようだ。
自分が酒を欲した理由を忘れて、見入ってしまっていた。
参
頭を軽くさげながら、言葉を紡ぐ。
「では、ご馳走になります、それと……」
「……それと?」
言葉を句切ったことに、彼女が怪訝な顔をした。けれど、警戒心は感じない。もう信用してくれいる、と思った。
もちろん、それを裏切る事はしない。しようとは思わない。
「タクシーを呼んでもらえませんか?」
彼女はやわらかな笑顔を浮かべて頷き、電話機に向かった。
そう。飲むのは一杯だけ。今からタクシーを頼めば、飲み終わる頃には店の前までやってくるに違いない。
彼女が電話機に向かって二言三言言葉を交わしているのを見ながら、自分のために選んでくれたカクテルに口をつける。
――甘い香りがする。花……いや、果物……桃?――
桃が思い浮かんで、ひどく懐かしくて切ない気持ちがした。
そのまま飲み干すと、喉越しに飲みやすい渋みを感じた。
――これは……いいな――
甘みも渋みも、ゆったりと体に浸みていく感じがした。こういう酒もあるのだと思った。
「いかがです?」
このカクテルを選んでくれた、恩人が声をかけてくる。
「いいね。飲み過ぎ、食べ過ぎの身にはさっぱりしてて飲みやすいし、アルコール度数は少ないんだろうけど、満足感がある気がする」
「ありがとうございます」
「でもなんだろう、どこかで飲んだ事があるような……」
「特に大きな荷物を持っておられないようですし、お客様は地元の方ですよね」
「そうだけど……」
「なら、飲む機会もあったと思いますよ?」
いたずらっぽい笑顔が、心地よい。
「へぇ? なんてカクテルなの?」
「レゲエパンチです」
得心した。仙台発祥のカクテルと聞いた事がある。
「大学生の時、友達のアパートで飲まされた記憶があるな。焼酎をピーチネクターとウーロン茶で割って飲んでたはず。こんなに美味しくなかったけど……」
彼女の笑顔が、困惑したものに変わる。
「うーん。それはそれで、とは思いますが……正式にはピーチリキュールをウーロン茶でビルド……割るものです」
「そ、そうなの?」
確かめるように、もう一度口に含む。実はピーチリキュール自体飲んだ事がなかったが、やはり焼酎で適当につくったカクテルとはまるで違っていた。ずっと洗練されている。
「一説にはウーロン茶は二日酔いを予防してくれるとも言われています」
「僕の体を気遣ってくれたわけか。ありがとう」
「いえいえ。別の説では利尿作用があるカフェインが含まれているので、逆効果とも言われています」
「ええ……じゃあどうして……」
呆気にとられているこちらを尻目に、彼女は続ける。
「失礼ながら、お客様から少々ニンニクの匂いがしておりまして、ウーロン茶なら流してくれるかな、と」
これには苦笑いするしかなかった。
「そうそう、申し上げるのを忘れていました。急な雨で、すぐに来られるタクシーがないようです。一番早いところにお願いしましたが、三十分くらいかかるとのことでした。こちらでゆっくり酔いを覚ましてからお帰りください」
「お言葉に甘えさせていただきます。それと、もうひとつ甘えさせてもらえないかな」
「……さて、なんでしょう」
「愚痴を聞いてもらえないだろうか。今日僕が飲み過ぎていた理由なんだ。知りあいには言いづらい事だから、吐き出すところがなくて……」
にこやかに話していた彼女の表情が、プロの顔に変わった。
「……承りましょう。バーテンダーとして、秘密は守ります」
彼女の言葉に、深々と頭をさげた。
肆
大学に入ってまもなく、梅雨の足音が聞こえてきた頃、同じように今年入学した隣の学部の女の子と付き合いはじめた。
北海道出身で、地元ではなく、こちらの大学に入学してきた子だった。寮に入っていたのだが、同じ寮の女の子達とは特別仲良くはしていなかったらしい。また、サークルにも属していなかったし、講義では一人でいる事が多かった。
入学式の前日に水疱瘡にかかってしばらく登校できなかったせいで、最初の友達づくりレースに出遅れてしまったのが大きかったのだろう。
だからきっと寂しかったのだと思う。
たまたまバイト先が一緒になった僕に依存するかのように、いつも追いかけてくるようになった。
当時共学化が進んでいた県内の高校で、僕は男子校を経験する最後の学年だったから、そんなふうに女の子に近づいてこられたらいちころだった。かわいらしい名前も僕を引きつける一因だったと思う。桃子という名前だった。
そう。レゲエパンチの香りのひとつだ。
ただ、そんな表面的な理由だけで付き合っていたわけではない。
音楽の趣味も似ていたし、なにより、同じ小説家が好きだった。仙台を舞台にした小説を書く作家で、作品は映画化もされていた。彼の書いた新作がでる度、僕たちは恋人だという事も忘れて議論したものだった。それに、仙台をモデルにした街が出てくる漫画も好きだった。よく似た景色を探して、二人で街をさまよったのはいい想い出だ。
ただ、そんな幸せな時間が続いたのも、大学を卒業するまでの四年間までだ。
三年生の冬、彼女の父親が他界した。
彼女はその時点で故郷北海道に戻る気だったらしいが、母親にせっかくだから卒業だけはしろと説得されて最後の一年間もこちらで過ごした。
もっとも、彼女は母親を支えるべく就職活動は故郷の起業ばかり受けていて、ほとんど会えなくはなってしまったが。
そうなると、今度は僕のほうが彼女を追いかけるために就職活動で北海道の会社の面接を受けに行ったりしてみたのだが、結局彼女は北海道の小さな会計事務所に、僕は地元の大きな商社に就職する事になった。
親が心配してくれた事もあったが、なにより住み慣れたこの街を離れる事に抵抗があったのだと思う。互いに、相手より親や街を選んでしまったという事だ。
LINEやメールでつながり続ける事も出来ただろう。けれど、幽かなつながりを持ち続けたとしても、きっと何かの拍子に切れてしまったに違いない。その糸の色は、赤色ではなかったのだ。
僕たちはきれいに別れる事を選んだ。
そうして僕が彼女を記憶の隅に追いやる事ができはじめた時のことだ。
入社した頃の研修で同じチームになった同期から連絡が来た。 性格的にウマがあったのか、研修中やその後も、一緒に国分町に飲みに行った中の男だ。ただ、一年ほどこの仙台の本店に勤めていたが、北海道支社に転勤していた。
結婚するので、式に出席して欲しいという。
嫁を貰うというのだ。
LINEで送られてきた相手の写真を見て驚いた。
相手は、桃子だったのだから。
伍
「そうして、結婚式の招待状が届いたんだ。そろそろ出欠の返事を出さないといけない。決心しないと……ね」
レゲエパンチを飲み終え、彼女が新しいグラスに注いでくれた水を二杯ほど飲み干した僕は、席を立ちながらそう締めくくった。
彼女から代金を聞き、支払う。
タクシーが到着したと、電話があったのだ。雨はもう上がったらしい。
「大丈夫ですか?」
確かに足元はまだふらつきそうな気がする。深い酔いはそう簡単には醒めてくれない。彼女の心配はもっともだった。
けれど、タクシーまで歩く事ぐらいまでは回復できたはずだ。これ以上甘えるわけにはいかない。ほかに客が来なかったおかげで、長居しすぎてしまった。
僕が木戸まで歩くと、彼女が近づいてきた。
まだ歩き方が頼りないのかもしれない。
「大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「いえ……すみませんがお見送りはここまでで失礼します。バーテンダーはBar(店)の中にいるからバーテンダーなのです」
じゃあ店から出たらなんになるだろう、と聞いてみたかったが、やめておく。なんだかナンパみたいだ。
「難しいね。哲学だ」
「Bar(店)の外に出てまで仕事をするほど働き者ではありませんから」
僕は笑った。
勝手な事情でくだを巻いた僕を楽しい気分に替えてくれた彼女に感謝だ。また来てみたい気持ちも強いが、もしかしたらあまりいい印象を持たれていないかもしれない。看板を出していないという事は常連のためだけの店という可能性もあるし、もう来ない方がいいような気がした。
ドアの外に出て、彼女にお礼を伝える。
「じゃあ、これで失礼します。本当にありがとうございました」
ところが彼女は笑顔でこう答えた。
「こちらこそありがとうございます。またいらしてください。ぜひ飲んでいただきたい一杯があります」
「飲んでいただきたい一杯ってなんだろう? でも、僕はあまりいい客じゃなかったと思うし……」
「そんなことはありません。だって、あなたはこの店の最初のお客様なのですから」
あ、と思った瞬間には、木戸は閉じられていた。
それを今、もう一度開ける勇気はない。なにしろこの店で飲む酒は一杯だけという約束をした。今日はもう客になれない。
これ以上タクシーを待たせるわけにもいかず、階段を登り出す。
事情があったのは僕だけではなかった。
彼女にも……この店にも、最初の客という事情があったのだ。
きっと、自分の店を持つのは夢だったに違いない。はじめてこの店を開いて、どんな客が来るのか胸を弾ませながら待っていたのに違いない。いや。そもそも、まだ陽の高かったあの時間、店は開けていなかったのかもしれない。
僕は彼女の夢を傷つけはしなかったか。
酔っているのに、酔っている気がしなくなっていた。
後悔は、なによりの酔い覚ましにるのかもしれない。
陸
一番いいスーツを着てきた。
いつも身綺麗にしている父を見習って仕立てたスリーピースだ。
色は、陽の落ちた今の時間によく似合う濃紺。
Barは紳士の集う場所。オーセンティックバーを開いた彼女も、そういう客を望んでいたに違いない。
僕はこの店の、最上の客になろう、そう思っていた。
悔やんでも悔やみきれない過ちを犯した翌々日、紳士の背広とその誓いを身に纏って、木戸を開いた。
ぎい。
軋んだ音を立てて開いた木戸の内側には、相変わらず酒の王国が広がっていた。
相変わらず、ほかに客はいなかった。
「開いていますか?」
その言葉に、彼女がにこやかに笑いかけてくる。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
僕は迷う事なく、この前座った椅子に向かって足を進める。
客はやはり僕だけだった。
椅子に座った僕に、彼女がおしぼりを渡してくる。両手で、捧げるように。
僕も、賞状でも受け取るように、丁重にそれを受け取った。
「お言葉に甘えてまた伺いました」
「今日は見違えますね。結婚式にでも出席されたのですか?」
「からかわないでください。今日は結婚式の招待状の返事を書きに来ました」
「ここでお書きになるのですか?」
「だってあそこまで話して、結果をお伝えしないのも不親切だと思うし」
「それもそうですね」
僕らは笑った。
往復葉書の返信部分を切り取ったものとペリカンの万年筆をポケットから取りだす。
そして、彼女が見ているその前で、ご出席の「ご」を消し、出席のしたに「いたします」を書き加えた。
彼女を見やると、静かに頷いて見せた。
なぜだかホッとした。
「気になっていました。僕に飲ませたい一杯がなんなのか」
「今日のお客様にはぴったりだと思います」
そう言いながら、彼女はタンブラーをカウンターの上に置いた。そして、酒棚からハチミツ色をした液体の入った酒瓶を、冷蔵庫からコーラのような色をした液体を取りだす。
氷を入れたタンブラーにハチミツ色の液体が注がれ、コーラ色の液体でそれが割られた。
かき混ぜ棒で、くるりとひと回転。
――これは――
この前とまったく同じだと思った。間違いなくレゲエパンチだと思うが。
上目づかいに彼女に視線をおくる。
だが、彼女は何ごともなかったかのように、そのカクテルを勧めてきた。
「どうぞ」
勘違いなのだろうかと半信半疑のまま、カクテルを口に含む。
花のような、桃のような香り。飲みやすい渋み。やはりレゲエパンチだ。
もう一度、彼女を見やる。
「レゲエ……パンチ?」
彼女は首を横にふり、明確に否定して見せた。
「これは、姑娘です」
「姑娘?」
「はい」
「レシピが違うの? レゲエパンチと同じ味に思えるけど」
「よい味覚をお持ちですね。レシピは同じですよ」
何が何だかわからなかった。狐にでも化かされているような。
「レゲエパンチのことを、北海道では姑娘と呼びます。気分を出すために、氷だけは北海道の水を使ったものにしてみました」
なんとなく、言いたい事がわかってきたような気がする。けれど、そのまま彼女の言葉を待った。
「あなたのお付き合いされていた女性は、北海道に行って苗字が……名前がお変わりになると伺いました」
「そのとおりです」
「でも、あなたは姑娘が嫌いではないでしょう?」
見透かされている事が、気持ちいい。
「そうだね」
「だから、北海道の姑娘とも、いいお付き合いをされてください、と言うつもりでした」
「つもりだったって?」
「わたしがどうこういう前に、あなたは答えを出されていました。蛇足だと思います」
「でも、出した答えを認めてくれるのは勇気になるよ。ありがとう。北海道でもこのカクテルを飲んでくるよ。ところで……」
「ところで?」
「この店の名前ってなんていうのかな?」
「当ててみてください」
僕は素直に思っていた名前を口に出す。
「オアシス……かな」
「じゃあ、それにします」
彼女はいたずらっぽく笑った。
〈了〉