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第09話 戦端

 堅い決心だと思ったその意思。

 これは揺れないものだと思っていた。

 しかし、私が、蛇が悪いと口にしようとした瞬間、身体中にざらりとした何かが這いまわるような奇妙な感覚を覚えた。

 歪なその感覚に肌では一斉に鳥肌が立ち、喉を通る空気が急に冷たいものへと変わった。


 自分の仮説は正しかったのだろう。

 そうじゃなければ、こんな冷酷なほどの視線を向けられるはずがない。自分の考えが正しかったことを後悔してしまうほどの冷たい殺気。


 私は、逃げ遅れた子狐のようにゆっくりと素早く、気を向けられている方を見た。


「どうしたの?」

「……」


 今まで一言もしゃべっていなかった彼女がようやく口を開いた。


「香ヶ池さん?」

「そうよ」


 彼女の眼は人のそれでなく、大蛇のような絞られた目に変わりその色はホオズキのように真っ赤に染まっていた。

 それがあまりにも人の形をしているにもかかわらず人に見えなかったので、私は思わず彼女が彼女自身であるか問うてしまった。


「やっぱり、そうだったんですか」

「私としては素直に何事もなく終わってくれたらよかったんだけどね。

 世の中上手い事いかないもんね」

「な、なぜこんな事をするんですか」


 ただ香ヶ池さんが立っているだけなのに、今すぐ逃げ出したいような気分になってしまう。

 いや、本当は今すぐ逃げ出したい。

 でも、足が動かないのだ。


 私の後ろにいる二人も同じらしく、特に河津さんは気絶でもしているのではないかと言うくらいぴくりとも動かなくなっていた。

 まさに、蛇に睨まれたと言うところなのだろう。


「なんでって、邪魔だからよ」

「邪魔って! 何でですか」

「簡単よ。私が河津を好きだからよ」


 蛇の妄信、そして嫉妬。

 蛇の全てがそうではないかもしれないが、なぜかその言葉が続くだけでぞくりとさせられる。


「でも、高天原にばれたのは不味いわね。

 ごめんなさい、名無しの神原も狐も死んでくれる?」


 冗談のように軽い口調だと言うのに、香ヶ池さんのその言葉が本気なんだということが嫌でもこの気配に乗って伝わってくる。


「神様は高天原の長なんでしょう。

 神器の一つも持っていないんですか!」


 ピクリとも動かない神様を叱咤すると、私は二人を守るように香ヶ池さんの前に立った。


「神器?」


 私の言葉に神様ではなくて香ヶ池さんが反応した。


「あんた達、まだ私から奪ったものを後生大事に崇めているの」

「どういうこと?」

「どういうことも何も、あんた達が崇めている神器のうちの一つって元々あたしのものよ。

 狐も聞いたことがあるでしょう。あたしの名前を」


 神器は三つあり、まとめてそれを三種の神器みくさのかむだからと呼ぶ。

 昔に起こったちょっとした事件の時に作られた八咫鏡と八尺瓊勾玉。

 そして、天叢雲剣がある。


 八咫鏡か八尺瓊勾玉の可能性は限りなく0に近いだろう。

 両者とも作った神がはっきりとしているし、会ったこともある。

 神器の中で、唯一その制作者と会っていないものと言えば一つしかない。


 天叢雲剣。


 そして、都合の悪い事にそれを証明するかのように香ヶ池さんは蛇の神様である。

 いや、ここまで揃っているなら他に疑惑の余地はないだろう。

 天叢雲剣を所持していた八本の首がある大蛇。

 八岐大蛇。


 でも、それは死んだんじゃなかったのだろうか。


「でも、私はここにいるのよね」


 香ヶ池さんがそれだというのだろうか。

 だから、神様が昨日戦いになったらと言ったのだろうか。


「神様、もしかして知っていたんですか?」


 そうでなければ、あんなセリフを吐くことはない。

 香ヶ池さんが蛇だということ、そして、香ヶ池さんが加茂野さんを呪っていたこと。


「まぁね」

「そんな! 高天原は人間を見捨てたんですか!」


 雨が降っていた原因が加茂野さんではなくて、河津さんが原因だと。

 さっきの話ではそうなりそうだった。

 香ヶ池さんを止めなければ、加茂野さんはずっと呪われ続けていた。


「高天原は、八岐大蛇と争いたくないから、加茂野さんを見捨てたんですね」


 神様なら笑って嘘だと言ってくれるはず。


「あぁ、その通りだねぇ」

「あら、珍しい。

 名無しのあんたが簡単に認めるなんてね」


 戸惑いも何もなかった。

 いつもの何もない挨拶のように神様の口からはよどみない言葉が流れ出た。


「そうですか。それが高天原の方針なんですね」


 一殺多生とは言わないが、冷静に考えて被害の範囲が違いすぎる。

 加茂野さんには悪いが、香ヶ池さんが諦めるまで我慢してもらおうと。

 加茂野さんに呪われたままで我慢しろと、休みがちになっても仕方がないと。


そんなこと絶対に言えるはずがない。絶対に思えるはずがない。


「ごめんなさい、神様。私にはできません!」

「お清!」


 神様の咎めるような声。

 それでも、私は誰かを犠牲にして安寧を得るなんてできるはずがなかった。


「香ヶ池さん。私の言いたいことは分かりますよね」

「残念ね。結構好きだったよ、狐のこと」

「私もです」


 私の両の手から一瞬空気の塊が周りに向かって押し出された。

 少し青みを帯びた赤い炎がまるで、私の手から燃えだしたようにその姿を見せ、一瞬見せたその熱気はすぐに風へと変わり辺りに流れて行った。


 ゆらゆらと揺れる二つの狐火はその赤い色を私の銀色の髪にまで映し、私の髪そのものが燃えているようだった。

 自分で作り上げた炎に熱さは感じなかったが、周りはそうでないのだろう。

 熱さで歪んだ空気の層を挟んで香ヶ池さんの一挙手一投足を逃すまいと目で追った。


 香ヶ池さんの目はさっきと変わらない蛇の目。

 逃げるものではない追う側の目。

 とは言え、炎の中へ迂闊に飛びこんではこないはずだ。


「二人ともやめなさい」


 神様が私たちを止めようとはしたが、すでにもう遅い。

 気を抜けばその時襲われる。

 私だって止めたい気持ちはあるが、このタイミングでそんな事を考えようものなら死ぬのは私だ。

 狐火の穂先がゆっくりと螺旋を描き私の身体の周りを動き回る。


「狐は、何で戦うの?」


 香ヶ池さんが揺さぶりを掛けるように私に語りかけた。


「香ヶ池さんと同じです。私は私の心の思うままに従うんです」


 神様の意思。

 高天原の意思は保身のために一人の人間を見捨てた。

 私にしてみても、私を信仰してくれる多くの人間たちの内の一人。

 一人くらいその数が減ったからと言って私にはさほどの痛みもないし、悪ければ気付いてさえいない。


 呪いが解けたらまずは加茂野さんに謝ろう。

 そして、元気になって学校に来たら一緒にお弁当を食べよう。

 休日は散歩をしよう。

 夏の暑い日。

 麦わら帽子と薄手の白いワンピース。

 小柄な加茂野さんにはきっと似合うだろう。

 山の裾をぐるりと回って、川の音に耳を傾けよう。

 生きて空に感謝しよう。

 生きて地に感謝しよう。

 それが生きると言うこと。それが神と共に歩むということ。


「誰もの幸せを祈って何が悪い!」


 動かないなら。隙を見せないなら。

 私が動く。


 一気に距離を詰めようと力強く踏み出した右足。

 大きな一歩に私の赤に染まった髪が揺れる。

 その瞬間、それに合わせたかのように香ヶ池さんが一気に距離を詰める。


 早すぎる。


 二本の足で人は動くものだが、香ヶ池さんのその動きは、確かに二本の足で動いてはいるが、その動きはまるで地面を滑るよう。

 蛇が地面を這うように滑らかに、そして素早く動き出していた。


 力強く踏み出した右足にはすでに勢いを乗せてしまい止めることができず、すでに私の左足は次の場所に動こうと地面から離れていた。


 その僅かな隙を突くように、毒牙のような白い香ヶ池さんの腕が私の左腕を掴んだ。

 爪を立てたような小さないくつもの痛みが腕を走った。

 痛みでその手を払いのけるよりも早く、私の周りを回っていた狐火が香ヶ池さんの手を焼き尽くそうとうねりを上げた。

 炎を嫌がって一歩後退。

 狐火がその手を焼きつけるよりも一瞬早く香ヶ池さんは身体を引いたが、私の身体はそれをすでに追い込んでいた。

 後ろに下がる動作は前に進む動作よりも遅い。

 至極当然で、それはほとんどの生き物に該当するのではないだろうか。

 後ろに下がるのが早い生物なんて私が知っている限りではエビくらいのものだ。


 後ろに引いてしまった彼女の身体は回避行動をとれず、無防備な身体を私の前にさらした。

 先程手を払いに行った左の狐火は右に比べて反応が鈍い。

 そう判断した私は右手で香ヶ池さんの顔を横から思いっきり殴りつけた。

 狐火をまとった炎の拳だ。私の力が多少人よりも劣っていてもその痛みは耐えられるものじゃない。


 真っすぐ前に伸ばした私の右手が香ヶ池さんの頬に触れた。

 はずだった。

 確かにその手は彼女を捕らえたにもかかわらず、手の先から伝わってきた感触は想像するものとは違っていた。

 ぺらぺらの和紙のようなその感触は何も抵抗がなく、まるで空を切るかのように香ヶ池さんを貫いた。

 あまりの出来事に一瞬事態を把握できなかったが、すぐにその謎を理解することができた。


 蛇の抜け殻。

 狐火の熱さに触れた抜け殻は一瞬で灰と化した。

 完全に空を切った勢いを止めることができず身体が大きく前に傾いた。

 このままじゃまずい。


 後は前のめりにこけるしかない身体は今の私ではどうしようにも制御ができない。

 本当に人間の身体は不便だ。

 脚は二本、腕も二本。耳も鼻もあまりきかない。

 頭の付け根とお尻のあたりにむずむずとする感覚が走る。


「狐の身軽さを甘く見るな!」


 二本の脚は地面から離れ、代わりに空中での舵を切るために私の髪と同じ色の尻尾が生えた。

 前のめりになった身体の方向は尻尾に任せ、その勢いに逆らわず香ヶ池さんに背中を向ける。

 蛇の抜け殻とはいえ完全に消えたわけではない。

 灰と化した抜け殻の少し後ろに香ヶ池さんは立っている。

 背中を見せた状態からさらに身体をひねり左足で相手を押し倒すように勢いよく前に伸ばした。


 足先に走る好きになれない感触。人を蹴り飛ばすこの感触はどうしても好きになれない。

 香ヶ池さんの身長が高すぎるのもあって、振り上げた左足は香ヶ池さんの肩までしか上がらなかったが、勢いを乗せたそれに当たった香ヶ池さんは私の攻撃を受け切れず大きく後ろに倒れこんだ。


「あいたた、脱皮したてなんだから優しく扱ってよね」

「そうこう言ってられないですから」


 尻尾と同じタイミングで生えた耳は常に香ヶ池さんの方を、警戒した尾は地面ではなく天を向いた。

 身体はいつでも動けるよう前のめりに、四本足のように両手を床に添えた状態を維持した。

 人間と狐の中間はある意味自由だし、ある意味不自由でもある。


「あ、あの、清原さん」


 そして、その不自由の代表点。


「見たらどうなるか分かっていますよね!」


 困ったことに人間の服は尻尾が生えることを想定していない。

 スカートの中で垂れ下がった尻尾が普段通りなら何の問題もなかったが、緊張に連動した私の尾っぽはどうしても下を向かず、上を向く。


 狐火の熱で渦巻く温められた風が、足を辿って腰まで這い上がっていく。普段あるところに生地がない何とも言えない居心地が悪い感じ。

 心を落ち着けようと何度か深い呼吸を試したが、大蛇と相対している事実がそれを困難にさせた。


「まぁ、もっとも。私の場合は、首を切られても死にはしないけどね」


 再生力が売りなのよと言葉を続けると香ヶ池さんは、私の蹴りなど物の数ではないというようにすぐに立ち上がった。


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