第06話 梅雨
田舎と言うには少し発展しているかもしれない。
しかし、都会と言うにはそこまでこの町は発展していない。
折の大地震から一ヶ月ほどの時間が経ち、時は七月。
雲間を覆っていた梅雨の気配も徐々に晴れていき、空には暗雲ではなく堆く盛り上げられた白い雲がとって代わり始めた。
季節は夏から真夏へと移る。
この町もそんな極当り前な夏の空を映す町だった。
ただ、一つだけ違うことを挙げるとすれば、それはこの町は神様がおわす町だったということだ。
大地震が起きた町の瓦礫をどけたのは自衛隊ではなく九十九神であったと。夜の気配から人々を照らし、食と暖を与えたのはかまどの神であったと。
こんな話にマスコミたちが飛びつかないはずもなく、寄って集ってその真偽を確かめようとするのだけれど、九十九神たちはいつの間にか現れては去り、その真相を掴むことはできなかった。 いつしかマスコミの中では、被災者たちが見た幻想として、憐れな与太話として片づけられてしまった。
もちろん、被災者たちもこの不運な災害に巻き込まれ幻覚を見てしまったのだと。そう信じようとした人たちもいた。
だが、困ったことに、この町の住人達はそれができないでいた。
不思議な事だが、その理由はいたって単純だった。
「次はっと。神原ぁ、読め」
「はい」
教師の言葉を受けて神原唯男は国語の教科書を持って立ち上がった。
教室で一番窓寄りの席。
首をひょいっと横に向ければ、彼のその席からグラウンドを見下ろすことができる。
教室にレースのカーテンなどついているはずもなく、遮るものがない窓から痛いほどの夏の日差しが入ってくる。
照りつける光に教室に敷かれている木目調のタイルが熱せられ、焼けついた鉄板の上で授業を受けているようだ。
やはりクーラーがないとすこぶる厳しい。風を入れようと窓を開けているが、夏の押しつけるような空気はどっしりと動くことなくまるで寒天の中を歩いているような気分になる。
「月日は百代の過客にして、行き交う時もまた旅人なり――」
暑さにやられているのだろう、普段は騒がしい生徒たちも今は騒ぐことなくその朗々と語られる声に耳を預けていた。
「ようし、そこまで。次――」
教師の言葉に彼は席に座り、代わりにその後ろに座っていた生徒が立ち上がって続きを読んだ。
今は平成で言うところのどれだけか。隣町のジーザスさんが生まれて二〇〇〇と少し。
世界は神の時代から科学の時代に進んだ。
とは言え、神社も寺も教会も。今もなお建造され続けており、神への信仰がなくなったわけではない。
高天原におわす神様もあっちへふらふら、こっちへふらふら。
そして、この男、神原唯男もその一人。
高天原を統治する長でありながら、地上の人間に恋をしてこの学校へと降臨した。
高天原の任を放棄して、地上に降臨して早一年。
神の力を使いちゃっかりとその意中の女性と同じクラスに紛れ込み、まるで学生よろしくその人の傍で学生生活を楽しんでいた。
そして、今から一ヶ月前。
地上に住まう神の力を矯正する地鳴りの式。人で言うところの大地震に立ちあい、人々を助けるために自らが神であることを明かしてしまった。
本来なら神であることに気付かれたなら、神は神たる行いをしなければいけないと決まっている。
要するに、敬意でも畏怖でも崇められる行いをしなければいけないということになる。
にもかかわらず、この神原と名乗っている神様は正体を明かしたにもかかわらず平然とその後も学生としてこの学校に通っている。
そして、この私。
学生に扮して学生生活を続けている神様にお仕えしている狐の神使。
地上で使っている名前は清原狐子。
「今日の晩御飯は何にしましょうか」
神様と私でこちらに来ているわけだから、もちろん、食事その他身の回りの世話は全て私の仕事。
とは言え、それらは本来、神使の仕事には入っていない。
暑さに押しつぶされた静かな教室とは対照的に外は蝉の騒音が響いていた。
地上に来て二度目の夏。
昼には蝉、夜には蛙か。
夏の声は耳に煩かったが、人が住む世界で味わった四季は高天原のそれとは違っており、この煩わしささえも私にとっては心地よかったりもした。
内と外、静と騒。
二つの音に耳を傾け、私は青空に転がっている大きな太陽を仰いだ。
今日も夏だ。
「はい、そこまで。今日の授業はこれで終わりだ」
夢想していた私の耳へ教壇に立つ教師の言葉が割り込むと、それを追従するように授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
「さてと」
机に掛けてあった二人分のお弁当を持ち上げると、神様の机の方へと寄って行った。
「神様、お弁当ですよ」
「うむ、ありがとう」
神様は私が差しだしたお弁当を受け取った。
いつもこうして、私が自分と神様の分のお弁当を持っている。
「神原君。一緒にお弁当でも食べないか?」
「うむ、もちろんだ」
神様を神原君と呼んだこの男性の名は河津大海といい、このクラスでできた神様の中の良い友達だ。
神様よりも一回り縦にも横にも大きい身体を持った河津さんは、その体型には似合わない控えめな性格の方で、動きも非常にゆっくりしていた。
少しぽっちゃりとした男性の温厚さという雰囲気をそのまま表したような彼は、その身体には少し小さめの机を持ち上げて、神様の近くに持ってきた。
「あっ、私も、私も。狐、一緒に食べよ」
「香ヶ池さんは今日もパンなんですか?」
「そだよ」
私を狐と呼んだのは香ヶ池ほおずきという女性。
すらりとした長い手足を持ち、身長は男子にも勝るとも劣らない高さ。
三年生が引退した剣道部の主将を務めている彼女は、その赤みがかった短髪と大きな瞳が印象的で、特に女性に人気がある。
とは言え、人気だけで主将になれるわけではなくその実力も相当なもの。らしい。
「狐はお弁当?」
「はい。毎朝作っていますから」
「神原は幸せ者だねぇ。狐みたいな美人な子にお弁当を作ってもらっているんだから」
「そうかい?」
神様はさっそく渡されたお弁当を開け、手を合わせた。
せっかく作ったお弁当なのだからもう少しゆっくりと見てほしいとは思ったが、その思いも空しく神様は手を合わせるとすぐさま箸を持ち、中身を堪能する間もなく食べ始めた。
「……まぁ、いいですけどね」
いつもながら、淡い期待だというのは私自身も自覚していた。
「何か言ったかい?」
「何も」
私も包みを開け、静かに手を合わせた。
食べ物に感謝、そして朝早くからどうしようもない神様のために作った自分へ労いの意味も込めて。
「いただきます」
「ごちそうさま」
私がいただきますと手を合わせたのとほぼ同じくらいのタイミングで香ヶ池さんが最後の一つをポンと空中に放り投げそれを見事に口でキャッチした。
「まだ、食べ終わってないじゃないですか」
「いいほ、すぐにたへ終わるかぁら」
香ヶ池はパンを咥えたまま口を何度か動かして、そのままそれをごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
「相変わらず、何度見ても飽きないですね。
テレビのびっくり人間コンテストとかに出られるほどの特技ですよ」
神様の影響もあってか、最近は徐々にテレビを見るようになってきた。
「狐もテレビを見るんだね」
香ヶ池さんのすらっとした体型はまかり間違っても太っているとは形容しがたいものだった。
しかし、彼女が持っていた袋いっぱいのパンは確実にあのお腹の中に封印されているはずだ。
その体型維持の秘訣はやっぱり運動ですかね。
体型的に似合わない大きな胸とその大雑把な性格。男性的で女性的。
不思議なその魅力に女性である私も憧れる。
「たまにですよ」
あれだけの量を食べてその体型を維持できるのが羨ましく、私はお弁当を食べながら誰にも見られないように自分のお腹をつまんだ。
最近、神様に付きあって家でテレビを見るようになって動く量が更に減ってしまった。
困ったことにいい感触が親指と人差し指の合間でうにうにとうごめいている。
「そんな気にすることないとは思うんだけどねぇ」
私の指先で上下に揺れている贅肉と言われるものをマジマジと見ながら神様はしれっと言葉を吐いた。
「何を見ているんですか!」
「そんなの気にしないんだがねぇ。
ねぇ、河津」
「えっ? あっ、うん。僕もあまり気にしないよ」
神様と比べ、河津さんは悪いと思っているのか目線をそらしながら少し照れたように私に言葉を掛けてくれた。
神様にももう少しそういった感性を持ってもらいたい。
「気を使わなくて結構です。ダイエットしますから!」
私のその言葉を聞いた香ヶ池さんが、そうだと何か思いついた様に言葉を投げかけると、自分の席に戻って、カバンから雑誌を取り出した。
「これとかどうよ。ツボ押しダイエット。血行が良くなって痩せるらしいよ」
香ヶ池さんが見せてくれたページには、赤地に黄色の文字で「痩せる!」と大きく書いてあり、その下にはどこを押せばいいのかなどの詳しいやり方などが書いてあった。
確かに、香ヶ池さんと比べれば太っているかもしれないけど、自分ではそこまで太っているとは思いたくなかった。
雑誌に大きく書いてある「痩せる」という文字と「今からでも間に合う夏の水着ダイエット特集」という文字が、自分が如何に太っているかと煽られているようで少し悲しくなってしまう。
「よしよし、私がお清のためにこれを授けよう」
困っている私がよっぽど楽しいのか、神様はにこにこしながら懐から小さい石を私に手渡した。
「これは?」
どこかで見た覚えがある。どこだったかは覚えていないが、この乳発色の瑪瑙色をした石。それに数字の「9」のような形。
ん? これって……
「や、八尺瓊勾玉じゃにゃいですか!」
驚きすぎて舌がうまく回らなかった。
「これで、ツボを押すときっと痩せる――」
「――なッわけないでしょ!」
この方はもしかして本当に大馬鹿じゃないのだろうか。
「もしかして、これ以外にも持っていたりしないでしょうね」
「何が?」
神様は笑って言葉を返した。
これがとぼけているのかどうか、本当に分からないのが困りものだ。
「って!」
私の言葉に神様の左手が何かを隠すように動いたのが分かった。このタイミングでこの怪しい動作を私が見逃すはずがない。
「今隠したのを出して下さい!」
「えー」
「えー、じゃないです!」
神様が渋々出すと、やはり、いや、あまり考えたくはなかったが、そこには八尺瓊勾玉と対をなすと言われている八咫鏡があった。
「……これは、私どう申し開きすればいいのでしょうか」
「家に鏡がないので借りました」
「そんな理由で貸して貰えるはずがないでしょ!」
自分の主が、まさか神世から三種の神器を盗んでくるなんて。
どう頭を回転させても、高天原に告げる良い言い訳が思いつかない。
「まさか……最後の一つもここにあったりしませんよね……」
「最後の一つ?」
あぁ、今ほど神使になった事を後悔したことはない。
「確か、天叢雲剣でしょ」
とぼけた神様に代わって、香ヶ池さんが答えた。
「!」
しまった!
こんな神世の実情をぺらぺらと人世で話していいのだろうか。
過去、和洋問わず人々は聖杯や聖剣などの神世の宝を得るために争いを起こした。
学生である彼女たちがまさか戦争を起こすとは思わないが、それは十分に気をつけた方がいいのではなかったのか。
困惑して言葉が出なかった私を見かねてか、神様はすぐに口を開いた。
「さすが、よく知ってるねぇ」
さすが? 確かに人世でも高天原の話は有名だが、さすがというのは表現としてはおかしくはないだろうか。
これは、神様も結構焦っているに違いない。
「狐子を驚かせるために、わざわざ偽物を作って来たんだけどねぇ」
「偽物なんですか!」
「ははは、もちろんじゃないか」
これは信じていいのだろうか。私はほんの一瞬、神様の言葉を疑った。
いや、疑いたくはなかったが、これだけの事をしでかすと疑いたくもなる。
「清原さんも大変だね」
「ありがとうございます」
唯一、話に参加していなかった河津さんが優しく私を慰めてくれた。
「驚いたかい?」
神様の言葉に私はもういいですと言葉を残すと、残りのお弁当を箸でつつき始めた。
この数年。神様の神使をやっていて分かった事がある。
神様は何を考えているのか分からない。
だから、こうやって頭を悩ましてはならないのだ。
これが神使をやっていて、心が病まない為に学んだことだ。
「そう言えば、狐。話が変わるけど今日の放課後どこかに行かない?」
「いいですけど。ご飯の買い出しと用意があるんで、そんなに長い間いけないですよ」
「そうなの?」
香ヶ池さんは少し残念そうな顔を見せたが、すぐに何か思いついた様な顔をして言葉を続けた。
「――あっ、でも、あの子が休みだから雨かも」
あの子という言葉に河津さんの表情がほんの一瞬だけ陰りを見せた。
その表情にどういう意味があったのか理解はできなかったし、何だか聞いてはいけないような気がした。
「あの子?」
私が感じた微妙な空気を読もうともしない神様は、私と香ヶ池さんが話しこんでいる間にずいっと入りこんだ。
「うん、何かさ。その子が休みだと雨が降るっていう有名な子がいるんだ」
「それはまた奇妙だね」
雨。
もとい天候は自然の力かもしくは神様の領分だ。
神様と言っても天候なんぞ操れる者は多くはない。
ましてや、神の力を借りていない人間がそう易々と天候などを変えられるはずがない。
「でしょ」
話に乗って来たのがよっぽど嬉しかったのか、香ヶ池さんはそのまま私を置いてきぼりにして話を進めた。
「一度話をしたことがあるんだけど、特にその子が特別な子ってわけじゃないんだよ。
静かでちょっと内向的かな。元々身体が少し弱いらしいけど、その噂も相まってかな?
来づらいのか最近は休み気味なんだよね」
身体が弱くて休みがちな女の子。
神秘的と行ったニュアンスが漂うその子についた噂は拭い難いものらしく、噂は廃れることなくそう言われ続けているらしい。
「へぇ、人でもそんな方がいらっしゃるんですね」
私は最後のおかずを口にすると、両手を合わせて箸をしまった。
「いや、普通はいないでしょ」
「ですよね」
お弁当を片付けポットからコップにお茶を注ぐと神様の前へ、そして自分へと出した。
「そうだ。神原が、その噂が本当か確かめてみたらいいんじゃないかい?」
「加茂野さんに失礼だろ」
香ヶ池さんの言葉にいち早く答えたのは、神様ではなく河津さんだった。
休めば雨が降ると言われたその女生徒の名前は加茂野彩音。
出席番号は九番。
身体が弱い証明であるかのように肌は石膏で作られた日本人形よろしく白く透き通っており、黒くて長い髪は背中まで垂れ下がり、前髪はおでこの部分でバッサリと直線に切っていた。
おかっぱと言えば、よく聞く髪型。
「ふむ、その子は加茂野というんだねぇ」
「神様、加茂野さんとは同じクラスですよ」
「うむ? そうだったか?」
一瞬呆れ顔を浮かべそうになったが、神様が元々からこんなものだと思いだしすぐにその表情を浮かべることすら馬鹿らしくなった。
「奇々怪々だが、河津はそれを探るのは嫌なのかい?」
「嫌ってわけじゃないが……迷惑じゃないのかな」
この事に関して、河津さんはどうも乗り気ではないらしく、香ヶ池さんはそれに対してイライラした態度をとった。
「ってか、こんな不思議な事は神原にしか頼めないでしょ。
ってことで、よろしく。それにそんな噂がたっているのは加茂野だって嫌だろうしさ」
河津が乗り気でないことがそこまで嫌だったのか、怒った香ヶ池はそのまま席を立つと空になったパンの袋をそのままに教室から出て行ってしまった。
「はてさて、どうしたことかな」
「で、どうするんですか。神様」
「やるしかないだろう」
困った顔をする私に、呆れ顔の神様はやれやれと首を振って答えた。
「でも、本当なんですか? 神でもない人が天候を操るなんて」
「実質、難しくはないだろうね」
私の当惑した疑問に、神様はあっさりとそう答えた。
「ジンクスとか予感みたいなものだ。
悪い予感ほどよく当たるって言うだろう。
予感なんていうものは人間四六時中しているものだよ。
その予感に事実が符合したら、『これだ!』って思うだろ。要はそういうことなんじゃないのか」
加茂野さんが学校を休んだ時に雨が降る。
最初は偶然だったかもしれないが、次に雨が降った時に加茂野さんが休んだらそれを関連付けさせることができる。
もちろん、晴れの日に休むこともあるだろうが、その時は誰も気には留めない。都合のいいように解釈しているように感じてしまうが、ジンクスや予感が今でも普通に使われるということは実は極当り前のことなのかもしれない。
「言いたいことは分かりましたが、神様が虫の知らせを否定しちゃダメでしょ」
「えっ? そなの?」
「一応、人間に予言してくださる神様もいるんですよ」
神様の言葉を聞くことを職業にしている人間も当然いるし、人間に言葉を与える神様もいる。
浅からぬ関係は今も昔も変わらない。
「まぁ、授業が終わったら教師に聞いてみるとするか」
「ですね」
神様の言葉から察するにこれはすぐに終わりそうだ。
「河津はどうする?」
「あっ、そだな。僕もついてくよ」
「決まりだな。じゃあ、放課後に」
神様の言葉に従い、昼休みは終わりを告げた。