第23話 豹変
あんなぼろぼろの剣で神剣に立ち向かおうというのだろうか。
無造作に降りあげられた剣を私は神剣で受け止めた。
この剣も、先程の塊と同様、触れれば砂に帰すのだろうと。
「ははッ、やはりな!」
確信と威勢に満ちた声で、私は起きるべき事が起きていなかった事に気がついた。
受け止めた?
この剣も例外なく飛礫のように砂に帰すはずだった。
けれども、立律若日子神が振り下ろした剣は天叢雲剣を受け、その土塊を落とすだけで、その形を変える事はなかった。
「これがただの剣だと思うなよ!」
さっと一振りすると、こびりついた砂が落ち、中から研がれた岩のような美しい剣が現れた。
「堅さ比類なき金剛石の剣だ」
「まさか、神剣よりも硬い剣があったなんて」
「神格の差だ。貴様のその剣、神剣でなければ、あの一撃で断てたはず。
私の力を込めた剣と物の怪が使う神剣が同格とは多少なりとも腹が立つが、それはそれ。
神剣の強さを物語るというならば納得できよう」
要するに、私は神剣の力を持ってやっと、立律若日子神と互角に戦えるということなのだろう。
「狐、死ぬ覚悟は良いか」
「覚悟は元より」
私と彼の距離は10メートル程。どれだけ早く動けてもこの距離は一度に縮められない。
剣の強さは同等。ならば、これは神剣ではないと思う方がいい。
まだ、人の姿を保っていられる。
耳が、目が、一つ一つ全ての神経が相手に注がれる。一挙手一投足見逃さない。
つもりだった。
立律若日子神が一歩踏み込んだ瞬間、まるで弾かれたように飛ぶと、10メートルの距離が一瞬で掻き消えた。
まるで低空を飛ぶ鳥のように、地面すれすれを滑空するように距離を詰めてきた。
私の身体を裂くように振られた金剛の刃。獣の感性がまだ残っていた。
身を縮めて空中を飛んだ身体は皮膚一枚切られた程度の傷で神の斬撃を交わす事ができた。
素肌についた赤い線。痛みは僅かだ。
尻尾を頼りに空中で身体をひねり立律若日子神の方を向いた。
「宙では動きもとれまい」
あの間合いを一瞬で詰めてきたカラクリを理解できた。
地面に石の台を作りそれを発射台のようにして飛んできたのだ。
私が身をかわし、飛んで行ったはずの彼は、私のすぐ傍で石の壁を作り上げそれに張り付くように足をつけていた。
まずい!
その瞬間、石の壁が勢いよく動き、立律若日子神が私に向かって投げ飛ばされた。
狙いはどこ?
ちりちりする鼻先。くすぐったい耳元。なぜにもこんなにも興奮しているのだろう。
剣の切っ先が私の首筋を狙っているのが理解できた。
神剣を立てて、首筋を断とうとしている金剛の剣を受け止める。まだ自分は着地さえしていない。
剣を交え、宙。
支えるものは風のみ。
たぶん、一秒後には地面。
私の中で、全ての感覚が警鐘を鳴らす。まだ一秒が終わらない。
長い長い一瞬。刹那が永遠。
立律若日子神が笑っているのが分かった。
勝ちを確信したのだろうか。
興奮が抑えきれない。獣の感性が理性よりも早く指示を出す。
立律若日子神が圧し掛かるように私に剣を立てている。
このままだと、私は地面に激突して、その勢いに金剛の刃が私の首を浚うだろう。
させない! ――でも、どうやって?
剣で? ――でも、私にはそんな腕もない。
逃げる? ――でも、空中だから。
私のできる事は? ――ない。
本当に? ――本当に。
他にできる事だよ? ――狐火が残っている。
それしかない! ――それしかないよね!
どれだけそれが短い時間だったのか私には分からない。ただ、それは私が地上に落ちるまでだったのは確かだ。
私の手は、いや、剣を含め身体の全てが炎に包まれた。
「はあああああぁぁぁぁぁぁあぁっぁぁあぁぁぁぁぁ!」
私の雄叫びが狐火を真っ赤に染めていく。
炎の熱にやられたのか、金剛石の剣がグラついたのが分かった。
狐の野生はまだ問いかけた。四本足で駆けるこそが獣と。
剣が折れる音がした。
たぶん、あの金剛石の剣だろう。炎に包まれた私にはもう、見えない。
邪魔なのは神剣。それを投げ捨てると、四肢を自由にした。
地面まで後わずか。尾っぽはこれでもかと揺れ、私の身体を宙に滑らした。
最初に地面に着いたのは私だった。
立律若日子神はまだ落ちていない。四本足は彼を追随して、身体を宙に誘った。
宙にいる、彼の肩を私の両腕が押さえつけると、受け身を取れないようにして、そのまま地面に叩きつけた。
手の先から感じる力のこめられない身体。気を失ったのだろうか。
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
遠吠え一つ。
勝った。
遥か上の神格を持つ神に私が勝てた。
「神様……」
私は神剣を拾い上げると、それを杖のように地面に突き立て、立ち上がった。
「神様、さぁ、戻りましょう。人世に――」
揺らぐ身体を支え、神様に手を伸ばそうとしたその瞬間、身体を締め上げるようなめまいが身体中を走り抜けた。
「――ッ」
危なかった。これが、戦いが終わった直後でなければ、確実に私の意識はあのめまいでけし飛んでいた。
僅かな緊張感が残っていた事に、安堵し、すぐさまその安堵を反省した。
「これでも……」
めまいの原因はすぐに理解できた。視線や気配を超えた殺気。
それが、他の全てを退けて、私だけに向けられた。
「これだけして、まだ立つのですか」
土ぼこりを払い立ちあがった姿は、疲れ切った様子の欠片もなかった。
高天原の副管理人であり、律令の神。その言葉は法律、その行動は道徳と言わしめた規律の化身。
高天原でも規律はありそれは全て立律若日子様が考えているとのこと。創始以外の神を除いて最も高い神格と人望を持つ神。
たかが狐が、神使でさえない者が歯向かって勝てる相手ではなかった。
「たかが狐と手を抜いていたが、これほどとは」
歯が立たない。
私の全力に彼は驚いたかもしれないが、それは子供を相手にしている大人が思いもよらない子供の攻撃に驚いた。そんな程度の驚きだった。
「この一撃に次はないと思え」
やばい、
やばい、
やばい、
やばい。
立律若日子を中心に大気が震えているのが分かる。
地震のようなその振動に、私の足はもう棒と同じようなものだった。
「こんなところで……」
「そう、死ぬのだ」
死という覚悟が、現実味を帯びた。
もちろん、覚悟は決めていた。それに対して揺らぎはしなかった。
だが、それでも少し。ちょっとだけだけど。
今の自分を後悔してしまう。
それほどのものだった。
「死ね! 狐よ!」
岩の槍でもない、金剛石の剣でもない。生身の拳。
山と思えるほど大きい槍とも戦った。比類なき硬さと言われた剣とも戦った。
それでも、尚。この神の拳は恐ろしかった。
立律若日子がその拳を構え一歩踏み出した刹那、嵐がない高天原で、まるで人世の雷のような大きい音が轟いた。
「なんだ!」
あまりに大きな音に、私の身体は電流が走ったようにびくついた時、黒い大きな人影がさっと私の傍を通り抜けた。
「えっ――?」
人影が誰かなんて考えなくても分かる。ここにいるのは、私と立律若日子。
そして、神様だけだ。
風のように走り抜けた神様は、立律若日子の目の前に立つと、躊躇いもなしに、持っていた剣で彼を斬りつけた。
「えっ? あ、あの――」
「気にするな。人世が壊れかけた音だ」
かみ合わない会話。血まみれでその場で倒れている立律若日子と血で濡れた剣を持った神様。
あまりにも唐突過ぎたそれに、私はこれが舞台の中であるかのように、現実から乖離した何かに感じてしまった。
「香ヶ池が、大蛇にでも戻ったんだろう。その余波が高天原まで響いただけだ」
いや、それよりも。神様が持っているその剣。どこをどう見ても神剣・天叢雲剣だ。
なぜ、神剣がもう一本?
神様の持つ剣の刀身は凪いだ湖のように透明で光り輝いており、僅かに沿ったそれは見ているだけで寒さを感じるほどに鋭く研ぎ澄まされている。
その姿形はまるで、生き分かれた双子のように神剣とそっくりだった。
「これは偽物だよ。本物を真似て作らせた奴だ」
はっきりとは分からないが、確かに私の持っている剣とは微妙に雰囲気が違う。
そして、神様もいつもと雰囲気が違っていた。
普通ならば、私を助けるために立律若日子を斬ったと思いたかったが、そんな雰囲気は微塵も感じられなかった。
「神様……」
なぜ、そんなことをするんですか――
「やっぱりそうだったんですね」
――と本当は言いたかった。
口に出したくなかった言葉が漏れた。
確信とは言えない僅かな揺らぎは、ずっと前からあった。
「知っていたのか?」
神様の言葉に私は恐る恐る頷いた。
最初の違和感は、妻奈備神の言葉だった。
「地鳴りの式が起きる少し前、神様は妻奈備神に会っていますよね」
「どこでそれを?」
神様は驚いた顔を見せた。絶対に気付かれていないだろうと思っていたのだろう。
私も妻奈備神のあの言葉がなければ気付いていなかったのかもしれない。
「煮つけですよ。神様が好きだった」
「どういう意味だ?」
「教えません」
きっと些細な会話だったに違いない。
妻奈備神が作った煮つけを私は自作と偽って、食卓に出した。毎度私がご飯の用意をしているのだ。
神様がそれに疑いを持つはずがなかった。
妻奈備神は自分が料理をしていることを秘密にしていて欲しかったが、自分の評価を聞きたかったのだろう。
神様と話しているその場で、さりげなく、その味の感想を聞いたのだろう。
妻奈備神も、まさか神様と自分が話しているそれが高天原を巻き込んだこの事件の綻びとなるとは思っていなかったはずだ。
そして、それは、私にも向けられた。
その時に漏れた言葉が『この間の煮つけはどうでしたか? 彼の神も気に入ったそうでしたが』だった。
私にも理解できる。
内緒で作っていたそれが誰かに食べられた時、きっと感想を聞きたくなる。
良かったら密かに喜べるし、悪かったら内緒でよかったと胸をなでおろせる。
神様が気づかなかった私と妻奈備神の些細な繋がり。それが、私に疑惑の種を植え付けた。




