第02話 神様
この世には、別々の者たちが住む二つの世界があった。
人が住む世界。そして、神が住む世界。
今から数百年という遠い昔、時代が江戸と呼ばれるその時まで、この人と神は互いに交流を持っていた。何が原因だったかは、今はもう定かではないが、人は段々と神との交流を忘れ、神もまた、人との交流を忘れていった。
人にとってそれが遠い昔であるほど時は過ぎていった。
****
殊の外、人間というものは時期外れものをありがたがる傾向にあるようだ。
季節外れの桜や季節外れ紅葉や雪。
季節外れのそれは神様のプレゼントだとでも言わんばかりに人間を喜ばす。時にはそれが間違いじゃないこともあるが。
「あぁ、頭が痛い」
私は、短い休み時間を全力疾走しながら思わず呟いてしまった。
夏も盛り始める六月の中、私は冷えた廊下を走り、心の中で騒いでいる不満を何とか押し込める。
私の呼吸に合わせて口元から白い息が漏れるたび、不満は徐々に怒りへと変わっていく。
今、学校にいるほとんどの人間は外を見ている。私は階段を駆け上り屋上へと急いだ。
今日6月7日、季節外れの雪が降った。
季節はもちろん、太陽が生き生きとしている夏だ。
私が何も知らない他の人間と同じなら、この不思議な天気に驚き、わくわくしながら教室の窓から空を見ていただろう。
だが、残念ながら、私にはそれができなかった。
そんなこと、私が口にしたら大抵の人間が不思議がるだろう。疑問はもっともだ。
答えは至って簡単だ。私がこの奇怪な現象の原因を知っているからだ。
夏に雪が降る。
間違いない! あの人に決まっている!
「まったく! 何しているのですか!」
ほとんどの生徒が外を注目している中、誰にも気づかれず教室を抜け出すことは簡単だった。
そして、こんな時、彼がどこで何をしているのかはだいたい察しがついている。
騒がしい教室をすり抜け、人気のない階段を駆け上がった先。立入禁止の屋上へと繋がる窓を抜け、私は彼を見つけた。
夏の日差しに焼け焦げた屋上のアスファルトは、空から落ちてきた雪にその温度を奪われ、今では薄く降り積もってさえいる。
「どうしたんだい?」
一面真っ白な屋上にただ一点だけ雪が降り積もっていない場所があった。
機械か何かでも使った様に綺麗な楕円が描かれており、その中心には件の彼が横たわっていた。
降る雪と同じくらい白く美しい肌を持ったこの青年は、端正な顔立ちをしており、水浴びをした烏のような綺麗な黒髪は長髪とはいかないまでも目にかかるほど長かった。
こちらが掛けた声に返事をしているのだから、もちろん、気づいているはずなのだが、彼の目は私ではなくて空のただ一点を突き刺す様に見ていた。
この学生服を着て空を見上げている男子高校生は一見して普通の学生に見えるかもしれないが、実は違っていた。
「……」
私が発する無言の圧力に屈したのか、それとも何か思う所があったのか、彼は上半身だけ起こすと、まるで悪戯がばれた子どもの様ににへらと顔を崩して笑いかけた。
「いや、彼女が喜ぶかなとねぇ」
本当に、頭が痛い。
これが頭痛の種というのだとひしひしと実感できる。
この言い表せないストレスをどうすればいいのだろうか。
この雪が降り荒ぶ中、学生服一枚で屋上に横になっているこの男性は、困ったことに歴とした神様なのだ。
愚かにも地上の人間に恋をし、この学校に降誕して早一年。
桜の季節に雪が降ったり、グラウンドに雷が落ちたり、秋に桜が咲いたりと無茶苦茶なことをしてくれる。
本来、神と人との間を取り持つ場合は、私のような神使を使うことが一般的だ。
神使とは字の如く、神の使い。この神様に仕える私がことを運ぶのが定例なのだが、この神様はどうしてもと言い張ってここまで降りてきた。
「そう言うことは止めて頂きたいと、何度も何度も何度も何度も申し上げたはずですが!」
ついでに言うと、この前はグラウンドに大量の魚が降ってきた。
海神とも仲のいい彼が、お願いしたところその健気な心に胸を打たれた魚たちが自らの命を賭してくれた。
確かに、一昔前なら降ってきた魚をありがたがって食べたであろうが、残念ながら今は神をも黙らせる科学の時代。
こんなオカルトじみて降ってきた魚を誰が一体食べるだろうか。
その思い空しく、それらは丁重に処理されて事件は終了となった。
「一応あなたは神様なのですよ。御自分のお立場をもう少し理解していただかないと困ります」
「ふぅ、君は何も分かってないねぇ。恋に打たれた私は神でも人間でもない。一人の男なんだよ」
何も分かってないのはお前だと叫びたい気持ちをぐっと堪える。
相手は仮にも神だ。何たって神だ。
千年を軽く超えて生きているにもかかわらず、学生服に腕を通した超若作りな男子生徒だとしても神だ。
この一年幾度となく彼女が喜ぶかなぁの理由で無茶をしてきたとしても、高天原に住まう立派な神なのだ。
「……」
なんであの時、神使になると二つ返事で答えてしまったのだろうか。
「神様ぁ、もう帰りましょうよ」
「何言っているんだいお。私と彼女が恋仲になるまで帰らないと言ったはずだよ」
「確かに仰いましたが、もう一年ですよ」
正確には一年と二ヶ月。去年、高校の入学と同時に神様は人世に降りられた。
ちなみに、私はその一ヶ月前から人世に降りて色々な所用をこなしていた。
「去年は出雲にも立ち寄らず、皆様がご心配なさっていたらしいですし」
それに付き合わされている私がもちろん帰してもらえるはずもなく、生まれて初めて、神無月の時に出雲以外で過ごした。
「そろそろ諦めもつくころでしょうに」
この一年、何をしてきたかというと奇跡の力を使って意中の人と同じクラスになり、後は前にも述べたとおり、ありとあらゆるものを降らしたり起こしたり。
贔屓目に見ても碌なことをしてきていない。我が主ながら恥ずかしくなる。
「こうなったら告白。告白です! それでスパっと振られて諦めて下さい」
「告白か。気乗りしないねぇ」
結局、この一年経っても進展しなかったのは、この面倒臭がりでのんびり屋な性格が原因なのだ。
ここで区切りをつけていただがかないと、もしかしたら何年もここにいなければならない。
折角、神使になったというのに人世に住み続けるなんてあんまりだ。
「お前は分かってないねぇ。古来、人と神との恋愛には順序があってだね。まずは、お告げから始まるのだよ。そして、そのお告げ通りに私が現れ、そして結ばれる」
「時間は十分ありました」
「私には足りな過ぎるくらいだ」
ぷいっと拗ねる様に言い放った神様を見て、私は思わず目の前で溜め息をつきそうになった。ここに降り立つ期間を決めているわけではなかったので、ダラダラとしてしまうと、本当にこちらの世界に居ついてしまうことに為りかねない。
ただでさえ、テレビやゲーム、インターネットと神様ともあろう方がはまりかけている。
このままでは非常にまずいというのは火を見るより明らかだ。
「じゃあ、お告げをしましょう。夢に出ますか?
幸運な事にここにはまだ稲荷信仰が残っているみたいですし、狐の神使である私が出ればある程度の信憑性が得られるかと思います」
「分かってないねぇ」
「何がですか?」
「今は神をも黙る科学の時代だよ。そんなことしても信じないって」
その言葉を神である当人が言えば身も蓋もない。
「いやぁ、それにしても。ここは高天原よりも住みやすいねぇ」
「神様、本当は遊びに来ているんじゃないですか?」
「私は本気だよ」
「本当でございますか?」
最近の生活を見ているとどう疑ってしまう。神様も多種多様いるが、ここまで俗っぽい神様もそうそういないような気がする。
「ちなみに言うとだね。もし、私が焦って告白して振られでもしたら。私は落ち込むよ」
「はいはい、そうでございますか」
取り合わない様にしようとした私を見て、神様はしっかり目を合わせると、口の端を少し上げて楽しげに笑った。
これは絶対によからぬことを考えているに違いない。
「その落ち込みようといったら半端ないだろうね。まずは、周りを巻き込んで引きこもるね。
ちょうど姉上も昔引きこもったことがあるみたいだし、姉上と一緒に引きこもるとするよ。
ついでに、私の友達も含めてね。そうすれば、大混乱だよね。
昔みたいに、太陽が昇らなくなるし、もしかしたら海も干上がるかもしれない」
海神と仲がいい彼のことだ。一緒に引き込まれたら本当に海で何かが起こるかもしれない。
「そうしたら、誰の責任になるだろう。
やはり、神使であるお清にも責任の一端があることは否定できないよね。
君がもっとフォローしていたらこんなことにはならなかったかもしれないんだし」
「それは、私の協力如何で世界が滅ぶと仰るのですか?」
「いやいや。ただ、恋に破れた男は何をするか分からないと言いたいだけだよ」
世間一般にはそれは脅しに値する。
しかし、困ったことに私は神使だ。
こんな神様でも一応神様だし、私は神様を補佐するのが仕事だ。
こちらの世界に降りてきて、この我儘神様の御蔭であらゆる技術が身についた。
料理・洗濯・日曜大工にパソコン・インターネット、その他諸々。些細な要求をこなすために神使という仕事の枠を超えてまで働いてきた。
「神様もいい年なんですから。全部が全部私に任せないでくださいよ」
生まれて千年と少しの私と比べて、神様はその何倍もの寿命を生きている。高貴な神になれば、ほとんど不死のような神もいる。
「で、次は何をなさりたいのですか?」
これが終わったらお暇に出してもらおう。
簡単に仕事を請け負ってはならないという安からぬ授業を受けたのだ。
今度はきちっと使える先は考えなければなるまい。
「じゃあ、彼女が雪を見て喜んだか見てきて」
「御自分で行ってきてください!」
びしっと教室の方を指差した先を見て、神様は「つまんないねぇ」と呟きながら渋々立ち上がり教室の方へと向かっていった。