第19話 激怒
狐子が走り出したのを香ヶ池は横目で確認した。
加茂野が香ヶ池を掴もうと伸ばした手を竹刀で叩き落とすと、加茂野の小さい身体に肩からぶつかるように当て身を入れた。
「ひっ!」
香ヶ池の肩が、加茂野の肺に突き刺さり、押しつぶされた肺が加茂野の口から悲鳴にも似た短い声を漏れさせた。
加茂野の軽い身体は、香ヶ池の当て身に耐えきれず後ろに吹き飛ばされた。
「加茂野さん!」
「河津! 今は自分の心配をしな!」
すぐに、香ヶ池はカツユの方を向くと、左上に大きく振りかぶり、そのまま斬りつけた。
左肩から右下へ、斜めに斬りつけられた竹刀をカツユは一歩後ろに下がって避けた。
香ヶ池は、避けられた竹刀をそのまま円を書くように回し、カツユに一度背中を向け、右足が大きく弧を描いた。
踵が風をうならせ音を立てたが、カツユがその場にしゃがみ込み、香ヶ池の右足は空を切った。
戦いの合間に敵に背中を見せるなどという隙だらけな瞬間をカツユが勿論見逃すはずもなく、叩きつけるように腕を伸ばした。
香ヶ池は、持っていた竹刀の先を地面につけると、上体を下げカツユの拳を避けると、竹刀を支えにして逆立ちするように足を振り上げた。
カツユは腕を伸ばしたままの体勢で香ヶ池の足を避けきれず、振りあげられた踵が顔に当たりカツユの身体がグラついた。
が、カツユはすぐに頭を引き戻し、グラついた体勢を戻した。
その瞬間、香ヶ池の下半身は半月のように弧を描き、ブリッジのように地面に足をつけ、上半身を起き上がらせながら、体勢を戻したカツユの顔を下方から竹刀で斬り上げた。
「よっと!」
カツユに背中を向けるような形で立ち上がった香ヶ池は、掛け声とともに、軽くジャンプして、前を向き直った。
「へひゅッ! 鬱陶しい蛇が!」
あれだけ竹刀で叩いたが、カツユはびくともしなかった。
「くそっ、表面のぬるぬるのせいで、上手く当たらないよ」
香ヶ池はまた、何度も竹刀を握り直した。
「俺は蛞蝓だからなぁ。そんな細いもん、あたるはずがねぇだろ」
「――ッ!」
その言葉に、香ヶ池はびくりと身体を硬直させた。
「な、蛞蝓?」
「あぁ、そうだ。てめぇら、みたいな下等な生物とは違うんだよ!」
香ヶ池は、手の平を服の裾で拭くと、もう一度竹刀を握った。
「道理で。さっきからずっと手汗が引かないはずだ。
それに、あんたに触れた瞬間の嫌悪感。河津バトンタッ――」
ため息をついた香ヶ池は一歩下がり、河津の方を見た。
「――チって、おい!」
香ヶ池が見た時、河津はうつ伏せに地面に倒れ込み、加茂野に踏みつけられていた。
「香ヶ池、ごめん。加茂野さん相手だと手が出せない」
蛭憑きと言え、人間の力。
河津には、それほどダメージは酷くなかったが、加茂野の身体はその力に耐えられず、殴っているはずの手や足は反動で青黒く変化していた。
「ちっ」
「やめろ、香ヶ池!」
河津を助けようと、香ヶ池は竹刀を振りかぶったが、河津がそれを声で制した。
悔しそうに強く口を締めた香ヶ池は竹刀を振るのを止め、殴る事を止めない加茂野の腕を掴んだ。
「痛いわね。何様のつもりよ。殺すわよ」
「はっ、やってみたらどうよ」
「あら、あなたじゃなくて、わ・た・し。この身体の持ち主を殺すって言ってるのよ」
加茂野は低い声で、離しなさいよと呟くと、掴まれた方とは逆の手香ヶ池の腕を掴み、爪を立てた。
腕に立てられた爪は予想以上の力で押されて今にも爆ぜそうなほど曲がり、香ヶ池の腕からは、人と同じように赤い血が流れ、香ヶ池は初めて感じた人間の痛みに顔を歪めた。
「あら、痛いの? ふふふ、楽しいわね。どうなの、人の身体って。不便よね」
神世の身体でももちろん、痛みはある。ただ、その感覚は人のそれとは強烈に違っていた。
「くっ――」
叫び声を上げない様に口を閉ざした香ヶ池を見て、加茂野の口は歪み、白い歯が見えた。
「痛いの? 痛いのよね。死んじゃったら、大変よね。
あぁ、素敵よ。あなたのその苦痛に歪む顔。気丈に見せようとする瞳。
圧倒的弱者であるにもかかわらず、まだ諦めないその心。壊したいわ。
あなたの心が折れた時、どんな顔をするのか想像するだけで、あぁ、いいぃぃぃひひひ!」
壊れた人形のように口はだらしなく下がり、首だけがかくかくと上下して笑う加茂野。
香ヶ池は、目の前にいる加茂野が今までクラスにいた同じ加茂野だと見られるはずもなかった。
「カツユ、早くこの女の足を折ってよ。
蒲焼みたく、皮を剥ぎたいの。捌いて、串刺しにして、炙ってさ。
あぁ、早く人間が焦げた臭いを感じたい。腐り落ちた屍肉を貪りたい」
「へひゅへひゅへっへ、頭は俺のだかんな」
カツユはそのぬるぬるした手を伸ばし、香ヶ池の右足を掴んだ。
粘着質の透明なねばねばが香ヶ池の足を這いずり、怪しく光を照らし返した。
香ヶ池は、自分の身体に走る不快な感覚に叫び、剥がそうと腕を動かすが、右腕は加茂野に掴まれたまま動かせず、左手を動かそうとするが、右手の熾烈な痛みと右足の不快感のどちらを排除しようかと動き回り結局何もできないでいた。
香ヶ池は、混乱していた。
今まで味わった事のない強烈な感情の信号は、すでに頭を何度も駆け巡るが、逃げ場がなく、どんどんと頭の中に溜まっていく。
整理できないほどの感情の信号はすでにそれを感情としての態をなしておらず、香ヶ池は子供のように叫び声をあげるしかなかった。
「香ヶ池、今助ける!」
河津は起き上がり、カツユから引き離そうと香ヶ池の身体を持った瞬間、滑るように右足を握り込んだカツユの手から乾いた竹を割ったような歪な音が響いた。
「あああわわあわわああぁうぅぅああうあ!」
その瞬間、足を押さえて、香ヶ池は転げ回った。
河津もすぐに自分が間に合わなかったことを理解した。
関節が逆にとかそんな生易しいものじゃない。太ももの途中から香ヶ池の足は既に曲がっていた。
スカートの裾から見える、香ヶ池の太ももは、既に元が何色だったか分からないほど全体が赤黒く色変わっていた。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
河津はその大きな身体を宙に飛ばすと、体重を思わせないほどの速度で、カツユを蹴り飛ばした。
河津は飛ばされたカツユの姿だけをちらりと確認すると、空高く蛙のように飛び上がった。
人ではありえないほどの高さ、校舎のやや上ほどまで飛び上がった河津は太陽を背にして、その頭上に大きな水で出来た球体を作り上げた。
プールの水を全て使ってもやや足りないくらいのそれは、太陽を通してグラウンドにうっすらとした影を映した。
「くそっ、くそっ。人世でこんなことはしたくなかった」
後悔を唱えながらも、河津は作り上げた球体を今度は電信柱程度の棒状へと変えていった。
「お前らはやり過ぎだ!」
河津は水で出来た大きな支柱を吹き飛ばしたカツユの方向に向かって、叩きつけた。
水が何かとぶつかる時の硬い破裂音が当たりに響き、水の柱が一瞬グラウンドに立った。
まるで、建造物か何かのように立っていた水の柱は、ものの数秒で元の水と化し、その形を崩した。
「香ヶ池!」
加茂野にまだ腕を掴まれたままの香ヶ池だが、先程のように叫び声をあげてはいなかった。
けれど、掴まれていない方の手で右足を抑えうつむいた状態で地面に座っていた。
「ほら、どうしたの、蛇さん。もっと泣いてよ。私は聞きたいのよ。
あの八岐大蛇が、人間の女みたいに無様に泣き叫ぶ姿がさ! ほら! ほらぁ!」
俯いている香ヶ池の顔を覗き込むように、加茂野はグッと顔を下げた。
その瞬間、香ヶ池は左手を加茂野の頬を叩くように振り上げた。
「――っぶないわね!」
傷ついた香ヶ池の手は加茂野に当たらず空を切り、その僅か手についた血だけが小さな反抗のように加茂野の頬に当たった。
「うぇ! あんたねぇ、汚い血がついた手で何しようってのよ。口に入っちゃったじゃないの!」
座り込んだ香ヶ池の右手を上にあげると、そのお腹に向かって加茂野は何度も何度も蹴り続けた。
「汚いのよ! 蛇の癖にッ! 蛇の癖にッ!」
何度も何度も、蹴り続けた加茂野の足が鈍く骨が折れる音と共に止まった。
「あら、足折れちゃったわ。本当、人間の身体って脆いわね。
また、代わりを見つけた方がいいかしら」
座り込んだまま、微動だにしなくなった香ヶ池の手を離し、今度は河津の方に向かった。
「あれくらいじゃ、カツユは死なないわよ。どうすんの? この蛇を守るの?
無理よね。あんたここの土地神でしょ。
ってことは、ひもろぎでもあるこの女とは浅くない縁はあるわよね」
「……」
河津は加茂野の言葉を聞いて口をつぐんだ。
「もう、止めてくれ……頼む」
「はぁ? 何言ってんの? あんたこんな楽しいこと止められるの? 見てよこれ!
この座ったまま動かない人間の女が有史以来恐れられていた八岐大蛇よ!
最高じゃない、こいつを嬲れるなんてさ」
「……めん……ごめ……ね……」
ぼそり、ぼそりと香ヶ池が呟いているのに、加茂野が気づいた。
「はぁ、何言ってんの、こいつ?」
「ごめん……ごめんね……」
耳を澄ませて、聞こえた言葉に加茂野は口を大きく開けて笑った。
「こいつ、謝ってやンの! 壊れたんじゃねぇの? バーカ、謝っても止めるわけないだろ!」
「あははあははははあはははははははははははあああはははははははははっはははは」
加茂野の言葉を聞いてか、香ヶ池の言葉がピタリと止み、代わりに驚くほど大きな笑い声が響いた。
「あはははは、あたしがあんたに謝っているって?
謝っているのはあんたじゃないの、その憑いている持ち主よ。
こんなことに巻き込まれるなんて、彼女は思いもしなかっただろうに。
痛いよね。苦しいよね。大丈夫だから。もう、終わるからね」
「ってめぇ、何笑ってるのよ!」
急に大笑いを始めた香ヶ池に加茂野はたじろいだ。
「笑わずにはいられないでしょよ。河津なら、理解できるでしょ。
こいつは理解できなかったのよ。そうよね。嬲るなんて行い野生じゃあり得ないことよね。
快楽のために相手を虐げるなんて、まるで人間ね。
だからかしら。あなたは理解できてないの――」
俯いていた香ヶ池の顔が急にがばっと上がり、加茂野を見た。
「――蛇の執拗さをね」
見下していたはずの相手に睨まれ、加茂野は一歩下がった。
「ダメよ。逃がさない」
「何ができるって言うんだい。お前は人間の身体なんだよ!」
「何ができるって? そうね。あなたを殺す事くらいはできるわよ」
その言葉を聞いて、加茂野は少し冷静さを取り戻した。
「出来るわけないだろう。人を殺すつもりか?」
「そんな必要ないわよ」
その一言で、加茂野の身体が激しく震え始めた。
「なんだよ。どうなってのよ。なんで、身体が震えているのよ」
恐怖で震えているのとは少し違った震え方。
まるで、舗装されていない道路を走っている車のように、揺れている加茂野は何が起きているか分からず、その場にずっと立ちつくしていた。
「毒という名の呪いよ。あなたが口にした私の血液。
力が封じられていても私が構成している身体そのものはまだ大蛇のままだものね。
これから、どんどん大蛇の毒が回っていくわよ。もちろん、指向先はあなたよ、蛭外道」
「ひいいいいぃぃぃぃ」
加茂野の口から洩れる蛭外道の叫び声。
憑きが少しずつずれ始めた。
「カツユ、この女を殺せ! 首を跳ねろ!」
加茂野の声に、カツユは動きだした。
「香ヶ池!」
一瞬早く、動き出した河津は近くに落ちていた竹刀を拾い上げると、香ヶ池に向かって放り投げた。
座り込んだままの香ヶ池に早く近づいたのは、河津が投げた竹刀ではなく、カツユの方だった。
カツユは左に大きく腕を振りかぶり、水平に香ヶ池の首を斬りつけた。
香ヶ池はとっさに右腕を出し、それを防ごうとしたが、所詮は人間の腕。
振りかぶったカツユを止められず、腕輪がついた右腕はおもちゃのように吹き飛び、その勢いは止まることなく、香ヶ池の首を胴体から引き離した。
「ざまぁ、みなさい……」
加茂野はそれだけ言うと、そのまま意識をなくした。
「香ヶ池ぃぃぃ!」
そして、カツユの腕は、残りの左腕を跳ね飛ばした。
河津は全ての世界がゆっくりに見えた。
飛んで行った右腕は、濡れた地面に落ち、首はどこに行ったのだろうか視界の外へと飛んで行った。
それがどこに飛んで行ったのか追いかける気にはなれなかったし、目はずっと立ちっぱなしの香ヶ池を見ていた。
両腕は力なく、垂れ下がり、蛇口が緩んだホースのように二本の腕は赤い水を流し続け、首があったその太い首は。
「へひゅッ――」
カツユの笑い声が短く途切れ、世界が一瞬暗闇に落ちた。
光も時も温度も、何もかもその一瞬、全てが途切れた。