第16話 侵攻
「おっはよう」
まずは香ヶ池さんが、そして私が。いや、河津さんの姿形をした私が教室に入った。
今日の香ヶ池さんは目で見て分かるほど、いつもよりテンションが高い。
なぜかなんて、考える方が無駄だろう。悪だくみを持ちかけた本人なのだから、楽しいに決まっている。
「神さ――んっ、じゃなくて。神原、おはよう」
「うむ、おはよう」
危ない。
今の私は狐子ではなくて、河津大海だ。
だから、もっと自然に神様の名前を呼んでもいいはずだ。
人の世に使っている仮初の名前とはいえ、神様をまさか呼び捨てで呼ぶとは。この罪悪感と高揚感が入り混じった得も言えぬ高揚感は何だろう。
「そう言えば、清原さんはどうしたんだい?」
河津さんは私のことを清原さんと呼んでいた。自然な会話を装って神様に自分のことを尋ねてみた。
「うむ、昨日から帰ってこないんだがねぇ」
心配というよりも、何が起きたのかというような不思議な顔。呆気なく話が終わりそうな雰囲気を察知した私は言葉を続けた。
「心配じゃないか」
「そうかい?」
「いや、そうでもない……かな」
私はこれ以上口を開くのを辞めた。
神様が何を考えているのか私には分からない。
それが分かる時は全てが終わった時だし、神様が私の心配をしているなんて想像し難い。
それに、これ以上話していると変化を行っているにもかかわらず、私は自分の感情を言葉にしそうになって怖くなった。
***
河津さんに変化をし、神様と共にいる。
この何とも言えない時間がどうにか変わって欲しいと思うが、私の思いとは関係なく、教師はいつも通りの時間に教室に入ってき、そして授業を始めた。
時間は驚くほどいつも通りに進んでいく。
私の視線は心と同じで一点に留まらずふらふらと逃げ水のように動き回った。
気温と時間は蝉の声に乗りあっという間に私がして欲しくなかった事をしてしまう。
午前中の授業が終わり、時間は十二時を過ぎたところ。
学校で一番長い休み時間。
「河津、ご飯食べようよ」
私の事を気遣ってくれたのか。
たぶん、そんなことはないだろうが、昼の休みが入ってすぐ香ヶ池さんは私に声を掛けてくれた。
「じゃあ、私も一緒に食べるかねぇ」
神様は自分の椅子を持つと私の、河津大海の近くまで寄ってきた。
神様がその手に持っているのは、私がいつも作っているお弁当ではなく小さく不恰好に並べられた御結びたち。
誰が作ったのだろうか。
寄せ押したように並べられたそれらを神様は綺麗に机の上に並べた。
私を除いた三人が机を並べて昼食を食べようと思った時、もう一人、私たちの近くへ歩み寄って来た。
「神原様、高天原から伝言です」
私たちと違い、お弁当も何も持たずに神様の近くまで寄ると、頭を軽く下げ、その一言だけを口にした。
「ふむ、どんなことだい?」
「高天原の管理職を交代して頂きたいため、今すぐ参上せよとのことです」
神様だけじゃなく、香ヶ池さんもその言葉にピクリと反応した。
それは、神様が現高天原の長から降りるということだ。
「随分、急な話だねぇ」
「上からのお達しなので」
足立さんは、淡々と言葉を続けた。
「その上と言うのは?」
「私の口からは」
足立さんは、ゆっくりと首を振った。
「立律若日子かねぇ」
神様は何か心当たりがあるのだろうか。
「いいよ。別にしがみついても欲しい地位でもないから。
勝手に交代してもらえば」
「そう言われると思いました。言伝の続きです。
皆の前で正式にそう公言して頂くためにも、高天原に来て頂きたい。
なにぶん、微妙な立場でね。お互い。とのことです」
「あぁ、なるほど」
神様はその言葉を期待していたかのように小さく笑みを浮かべた。
一瞬見間違えかと思ったその笑みに、私はハッとして、見直したがその時には既にあの小さな笑みは神様の顔から消えていた。
「じゃあ、残念だけど。参るとしようか」
神様は食べようとした御結びを再び包み直すと席から立ち、足立さんと共に教室を出た。
「見送っていいの?」
「い、いや。だって……」
それに対して理由が思いつかない。
呼び掛けようにも自分の姿は河津さんの姿だ。
ここで自分の正体を明かしたとして、なぜ河津の姿にと問われた時、なんて言い訳を言えばいいのか思いつかない。
神様はいつも飄々と何かをこなしてきた。
いつもそう。
だから今回も私がいなくても問題ないに違いない。
今のこの姿を言い訳にして、私は神様に声をかけられずにいた。
「それは、狐がいなくてもっとこと?」
「えっ――」
「顔に出ているよ顔に。
まぁ、実際あいつも結構微妙な立場だしなぁ。仕方ないよね」
「えっ? そうなんですか?」
微妙な立場とはどういうことだろうか。
確かに高天原の管理人である身で人世に来ているのだから、微妙な立場ではあると思われるが、香ヶ池さんの言い方はどうもそう言う意味ではないような感じがする。
「あれ? もしかして、知らなかった?」
私の作った香ヶ池さん専用ハンバーグをひょいっと口の中に放り込むと思案深気に、それを呑み込まず口の中で転がした。
「まぁ、秘密ってわけじゃないしな」
口の中で転がしていたハンバーグを、喉を鳴らして飲み込むと香ヶ池さんは続けてもう一つハンバーグを口の中に投げ込んだ。
「神原の名前って知っている?」
「神様のですか?」
もちろん。知っている。
姓は神原。名は唯男。ないセンスを絞って作り上げた自称渾身の名前だ。
「人の世じゃなくて神世での名前」
もちろん……知っている。
「えっと……」
知っていると思ったのだが、いざ思い出そうとすると思い浮かばない。
そう言えば、私はいつも彼を呼ぶ時は『神様』としか読んでいない。
困惑した私を見かねてか彼女は言葉を続けた。
「あいつはね、名前がないんだよ」
そういえば、いつしか香ヶ池さんは神様の事を『名無しの』と呼んでいた。
「どういうことですか?」
「拾いっ子なんだよ。神様のね」
「でも、神様には姉がいると――」
香ヶ池さんは「そだね」と相槌を打つような言葉で私の言葉を遮った。
「彼女があいつを拾ったのさ」
「わ、私……そんな事初めて聞きました」
「まぁ、腫れ物のようにその話題を避けてきたからね。狐みたいに若い神は知らないかもね」
若いと言っても千年に近いほどは生きている。
いや、今話している相手は八頭の蛇だ。それこそ創世記混沌の時から居てもおかしくはない。
それに比べたら私は確かに若いのかもしれない。
「それって誰でも知っている事なんですか?」
「創世記の神ならほとんどが知っているんじゃないか?
岩戸隠れが終わった理由が奥で拾ったあいつだって話にもなっているしね」
私の曽祖母以上遡ってようやくその時代の人間になる。私からしたらそれは遥か昔の話。
「普通、神っていうのは、あたしも含めてだけど、名前は必ず付くもんなんだよね。
その名前が、どういう生い立ちなのか何を内に秘めているのかってのを示してくれる。
名前がないのは単純にそれがないってことなんだよ」
「神様のこと――よく知っていますね」
時と場合を考えればそんな言葉を言うタイミングではなかったが、ただ自然とその言葉が私の口から洩れてしまった。
「狐ったら嫉妬なの?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
「大丈夫。あいつにはそんな感情はないよ。
むしろね、怒りに近いかもね」
香ヶ池さんが笑顔で吐き出した言葉は、その笑顔が偽物で今も目の中に怒りの炎を宿している事を
私にありありと見せつけた。
「人世で初めてあいつと会った時、その場で殺してやろうかと思ったよ。
まぁ、あまりにも神様らしくなかったあいつを見て殺す気が削がれたんだけどね」
「な、何で殺そうとするんですか?」
「忘れてないかい? あたしは八岐大蛇だよ。
あいつはあたしを殺したと嘯いた奴の弟にあたるからさ」
イザナギとイザナミが生んだ神の中で、三貴神と呼ばれる神がいる。
その三柱はツクヨミ様、アマテラス様、スサノオ様となる。
その末子スサノオ様は人世に降りた時に八岐大蛇と戦った。
そして、どうなったか。
それは人世に伝えられるほど有名な話となる。
「あいつは養子ではあるが、あの国産み神産みをした二柱の子供さ。
だから、余計厄介なんだよ」
「神様ってそんなに位が高かったんですか?」
「狐。それすらも教えられていなかったの?」
厳密に知らないわけではなかった。
神様が『姉上も昔引きこもったことがある』と言っていたので、
神様の姉がアマテラス様だと思わなくもなかった。
けれど、それが本当にアマテラス様だとは誰が予想出来ようか。
神様のことだ。冗談の可能性も十二分にある。
しかし、よくよく考えてみると、高天原の管理を任されていたり、人世で神通力を使っていたりと神様が高い地位にいるのは想像に難くない。
「じゃあ、大丈夫ですよね」
「ん? 何が?」
「神様はそのまま向こうに行っても大丈夫ですよね」
かのイザナギ夫妻の息子なら、それなりの配慮はかけられるはずだ。
だから、私が感じる何か分からない不安はきっと気のせいなのだ。
自分の不安な気持ちに理由をつけて納得させようと思ったのだが、
香ヶ池さんは口を噤み言葉を返さなかった。
その沈黙が耐えられず、再び声をかけようとした時、教室のざわめきと共に、廊下から誰かが教室の中へ入ってき、私たちの近くまで寄って来た。
「それがそうもいかないっぽいんだ」
誰だと振り返ったその視線の先には走って来たのだろう、少ししんどそうに息を荒げた河津さんの姿があった。
「河津さん」
私の声に、教室のざわめきは更に高まった。
教室にいるほとんどの人間がまるで、何か奇異なものを見るように彼と私を凝視している。
「調べ物はどうなったのですか?」
高天原で調べ物があると言ったのだが、それは見つかったのだろうか。
「その前に、さすがに目の前に自分がもう一人いるのは慣れないんだけど。いいかな?」
「あっ、すいません!」
教室のざわめきが何かようやく理解した。
私は河津さんの姿を借りたままだった。
人世にいる者に限らずとも、目の前に全く同じ人物が現れたら誰だって驚いてしまう。
私はすぐに変化を解き、元の清原狐子の姿をとった。
「で、何がそうもいかないのかな?」
香ヶ池さんが周りのざわめきを完全に無視して、河津さんに尋ねた。
「高天原が挙兵した」
「挙兵って何があったんですか!」
河津さんの言葉に思わず叫んでしまった。
「どうも、挙兵の動きは一ヶ月くらい前からあったらしいんだけどね。
今回、神原が高天原へ帰るにあたって、高天原が兵を用意しているらしいんだ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。何もそこまでしなくても。
それに、神様の御両親ってあのイザナギ様なんでしょ。
そんなこと許されるはずが――」
「まぁ、そう簡単にいかないってわけね」
香ヶ池さんは少し面倒臭そうに溜め息をついた。
「さっきも話したでしょ。あいつは腫れ物みたいな存在なのよ。
何だかんだ言いつつ、神の中ではお荷物なの。
誰か一人があいつを快く思わなくて何かした時、他の神も見なかったことにする可能性は高いわね」
「そんな、卑怯なッ!」
「狐。あなたのその性格は好きよ。
でもね。高天原はあなたの思った以上に日和見主義の集まりなのよ。
だって、私がまだ生きているのよ。下手に藪はつつかない奴らなのよ」
「まぁ、だいたいあっているよ。僕が調べた範囲なんだけど。
今日のこのタイミングでなぜか三貴神全てが何かしらの用事で高天原から出ている」
「全員ってまぁ。本当に期待を裏切らないクズばかりだねぇ高天原は」
高天原にずっといた私には耳が痛い言葉だ。
「でも、神様は何もしてないじゃないですか」
「何もしてないからだよ」
河津さんは、静かに私に言葉を返した。
「神が人前に姿を現す時に何をしなければいけないか覚えている?」
高天原の唯一と言っていいほどの規則。
それは、『自分が神としての存在を示すこととなるならば、畏怖か敬意を持たれる存在になる』こと。
それが、神が神とあらんとする唯一で最大のルール。
「神はね、人に思われないといけないんだよ。
誰かに感じてもらいその存在を覚えてもらわないとダメなんだよ。
神原は、人世の歴史の中にも出てこないし、名前もない。
僕らは人世の名前を使い、彼を神原と呼ぶけれど、それも本当の名前じゃない。
三貴神は最初哀れに思って、神原に高天原の管理人の席を与えた。
少なくともこれで彼を呼ぶ事ができると。
そう言う意味では、何もしなかった神原は高天原から疎まれていたんだよ」
「どうでもいいけどさぁ。河津。
これはどう説明してくれるの?」
香ヶ池さんが、目線はしっかりと河津さんから逸らさず、手だけを後ろにして窓ガラスをコンコンと叩いた。
「説明ってどういう――」
香ヶ池さんが指し示した先。グランドの先にある校門付近に人影らしきものが見えた。
ここからでは男性か女性かの判断ができないが、どこか違和感があった。
分かる事があるとすれば、その雰囲気が人ではないものだということ。
高天原から来たものに違いなかった。
「どう考えても交渉しに来ましたっていう雰囲気じゃないし。
そもそも、名無しの坊がいない今あんなのがいても意味ないんじゃないの?」
「……すまない」
河津さんが頭を下げた。
「見張り役ってことね」
香ヶ池さんは、はいはいと片手を振りながらため息をつき、鬱陶しそうな目で窓の外にいるその人物を見た。
「で、狐。どうするの?」
「どうするも何も。神様が危険ならば助けに行きます!
私は神様の神使なんですよ!」
頭では自分が神使ではない事くらい分かっていた。
「実力行使ってことだね。いいねぇ、あたしはそんなの好きだよ」
自分の毛の一本一本が逆立っているのが分かる。
これは何なのだろう。理解不能な自分の気持ちを抑えることなく、私はその感情に身を委ねた。
今回の状況は驚くほど素直に自分の中で消化する事ができた。
神様がどんな存在でどんな目にあってきたかは分かった。
自分にそれが知らされていない事には多少なりともショックを受けた。
神様はずっとずっと一人だった。
司る事もなく、名前もなく。
ただ、そこにいるだけのように長い時間をずっと過ごしてきた。
神様はどう思っただろう。
高天原を憎んだだろうか。高天原を疎んだだろうか。高天原を恨んだだろうか。
答えは分からない。
私は窓を開けると、窓の桟に足をかけた。
校門付近にいた人物はいつの間にか校内に入り込んでいた。
グラウンドにはまだ人がいる。もし戦いになった時、人を巻き込めない。
そのまま身を外に投げ出そうとした私の腕を香ヶ池さんがぐっと掴んだ。
「狐。その前に一つやっておかなきゃいけない事があるよ」
香ヶ池さんはそう言って、自分の席から竹刀を取り出すと、その先を河津さんへと向けた。
「河津。あんたは敵なの? 味方なの?」
「……」
「友達の窮地に目をつぶって、恋人に牙をむくってのは少し頂けないかな。
私が好きになった河津ってのはもっと勇敢な男だった気がしたんだけどね」
「えっ、恋人って……」
香ヶ池さんが今にも噛みつくんじゃないかと思うほどの目つきで睨みつけられ、河津さんは出しかかった言葉を飲み込んだ。
その緊迫感の中、一人の小柄な女性がおずおずと声をかけて割り込んできた。
「あ、あの……」
「あっ、加茂野さん。どうしたんですか?」
河津さんと香ヶ池さんは今もまだピリピリとした空気を漂わせている。
加茂野さんも普段感じられない雰囲気を感じ取ったのだろうか。
「大丈夫。加茂野さんは心配しなくてもいいから」
人世の人間まで巻き込むわけにはいかない。
私は加茂野さんの白い小さな手を握ると、もう一度大丈夫だからと呟いた。
「……」
「ふーん、沈黙ねぇ。いいわ。あなたのそれを答えとして受け取っておくわ。
狐、さっさと行くわよ」
「は、はい」
言うが早いが、香ヶ池さんは河津さんを置いて、窓からグラウンドへ飛び出した。
私も桟に足を掛け、香ヶ池さんを追って梁を飛び越えた。
身体は重力に従って地面へと降り、風は私を追いたてるように強く、私を吹きつけた。
私の頭には二つの耳。私のお尻には一つの尻尾。
人とは違うその身体。
人とは違うその力。私の歯は少し伸びて、犬歯は鋭く尖り始めた。
夏の暑さが私の長い髪をじりじりと照りつける。
「香ヶ池さんは竹刀で戦うのですか?」
「もちろん。剣道部主将だよ」
何言っているのとぼけた顔の香ヶ池さんに私はこんな時にもかかわらず呆れた顔を隠せないでいた。
「相手は高天原ですよ」
「ふふん、見てなって」
彼女は、グラウンドの中に入って来た人物の前まで行くと竹刀の先を向けた。
「ちょっと、不法侵入だよ。おじさん」
香ヶ池さんが竹刀を向けた先の男性は、二十代後半くらいの外見をしており、確かに、外見でいうと私たちよりもおじさんではある。
薄手のシャツとジーンズを履いている彼は一見すれば、どこにでもいそうな人間ではあったが、その表情は、子供が作った人形のようにただ人の表面だけを模したような、そんな顔をしていた。