第15話 悪戯
今日の朝はいつもと少し違っていた。
ここは見慣れた布団でも、見慣れた部屋でもない。
持ち主の様相が出ているのか少しこの部屋は汚れていた。
そんな部屋で目を覚ますと私はぐっと伸びをした。
「おはようございます」
横で寝ている、長身の彼女はまだ夢の中だ。
私は太陽に向かって挨拶をすますと、洗面所の前に立ち顔を洗って櫛で長い髪を梳いた。
人の姿は尻尾がなくて困りものだが、この長い髪を手入れするのは案外いいものだ。
茶色の毛が櫛の先で流れ、絹のようにはらはらと舞う。まだ、冬毛になるのはほど遠い。
「さてと、お弁当の用意ですね」
香ヶ池さんは丸のみできる何かが御所望だ。
ご飯はそのまま出すよりおにぎり。
野菜は少なめ。肉は切り身よりもすり身で大きく。
ハンバーグのようなものがお気に入りらしい。
なるべく身は大きめの方が呑み込み甲斐があるらしい。
文字通り喉を鳴らすそのままの食事がいいらしい。
仮にも居候をしている身だ。彼女の要求をのまないわけにはいかない。
いつもよりも少し早めに起きた私は、彼女の要求通りのお弁当を作り始めた。
包丁がまな板を叩く音、煮込まれた鍋が放つ熱気、湯気、香り。
それらが、程よい音楽を奏で始めた時、香ヶ池さんがそれに呼応するように、ようやく目を覚ました。
「あっ、おはよう」
「おはようございます」
「ご飯かぁ」
どうやら、寝起きは弱いらしい。変温動物よろしく、香ヶ池さんは朝方が低血圧なのだろうか。
「朝ご飯はどしますか?」
「うーん、今は分かんない」
「じゃあ、一応用意はしておきます。お弁当の残りなので食べないと夕飯に移行しますから」
「それでいいよ」
香ヶ池さんは、上半身を起こすとそのまま起き上がるわけでもなく、今度はうつ伏せになるように倒れこんだ。
「起きてくださいよ」
「後5分」
時間がどれだけ相対的であろうと5分は5分だ。
私の中の五分も、きっと香ヶ池さんの五分もあっという間に過ぎたのではないだろうか。
時計の針がちょうど一周の十二分の一進んだところで、私はもう一度香ヶ池さんに声をかけた。
「香ヶ池さん、起きないと遅刻しますよ」
「5分って言ったじゃん」
「その5分は過ぎましたよ」
「嘘」
「本当です」
香ヶ池さんはなるべく起き上らないようにごろごろと布団の上を転がると、少し離れた場所に置いてある時計を掴んだ。
「ぎりぎりまで寝る」
まるで蛇のように布団の上でうねっている香ヶ池さんに私はもう一度声をかけた。
「朝ご飯はどうします?」
「寝たい」
「いつも食べています?」
香ヶ池さんは、「ううん」と言うと枕の下に顔を隠した。
さすがに、暑いのだろう布団代わりにしていたタオルケットで身を隠すことはしなかった。
「寝汗をかいていますから、シャワーくらい浴びませんか」
「うぅ、眠いのに」
「蛇は朝露で身を清めると聞きましたが?」
「はいはい、その通りでございます」
私の言葉を嫌みととったのか、香ヶ池さんは愚痴々々と言いながらも起き上がるとその場で着ているものを全て脱ぎ捨てた。
「あの、浴室で脱ぎません、普通は」
「そう?」
生まれたままの姿と言うと聞こえがいいかもしれないが、
香ヶ池さんは一糸まとわぬ姿で窓の傍に立つと日の光を浴びながらぐっと伸びをした。
「ちょっと! 何しているんですか!」
私は慌てて、窓のカーテンを閉めた。
「朝日を身体に浴びてるんだけど」
「誰かに見られたらどうするんですか!」
「ん? 見られて困るような身体じゃないから」
これは嫌みなのだろうか。
確かに、その身体は無駄と呼ばれる部分が一切ない。
剣道をやっているおかげなのだろうか。
白蛇のように白く艶やかな身体が描く豊かな曲線は、一切余分な場所がなく石像のような美しさがある。
贅肉があるわけではない、筋肉質なわけではない。
両胸にある柔らかくて大きな乳房は、香ヶ池さんが動くたびにそれに合わせて左右にそして上下に揺れている。
たぶん、触れば柔らかいのだろう。腰のくびれを辿ってお尻、そして太もも。
男性がこれを見て過ちを犯してしまっても、こればっかりは私はその男性の味方をするかもしれない。
それほど、魅力的な身体だった。
「嫌みですか?」
思った事を素直に口に出してみた。
「そんなことないよ。でも、狐は狐の神使なのにあれだね」
あれって何ですか。言いたい事があったらはっきりと言って下さい。
「ほら、女狐とか表現されるから雌の狐ってもっと色っぽいものかと思っていたけど」
あっ、すいません。
全部、言わなくてやっぱりいいです。
「ちんちくりん?」
「……」
はっきりとその言葉を聞くと、さすがの私も少し落ち込んでしまう。
確かに、私の母も姉も祖母までもが綺麗だ。
「わ、私はまだ若いんですよ」
「そう言えば、そだね。
知っている中でも一番若そうだし。いつ生まれたの?」
「じょ、女性に年齢を聞くのはダメですよ」
「私はねぇ――」
「はい、分かりましたから。とりあえず、シャワーです。早く浴びてきてください」
全裸でいる香ヶ池さんを無理やり浴室に押し込むと、私は大きくため息をついた。
「はぁ。まだ、大きくなるはずです」
遺伝子的な話で言うと、間違いなくその家系なはずだ。
絶対。
たぶん。
「それにしても……」
浴室に連れていく時に触った、香ヶ池さんの身体は柔らかかったな。お肌もすべすべで。羨ましい。
折角の朝だと言うのに私の心は少しばかり残念な気分になった。
「さてと」
お弁当をカバンに詰めて、私は香ヶ池さんと一緒に家を出た。
「狐、じゃあ、やってみて」
「はい」
昨日の夜、香ヶ池さんから言われた事。
それは、私が河津さんの姿に化けて学校に行くということだ。
根本的な解決にはならないかもしれないが、神様の傍にいられるという事で思わずその提案に乗ってしまった。
本当に禁断の果実だ。
そして、当の河津さんはと言うと、今回の事で調べてみたい事があると高天原へと旅立った。
一応、高天原の責任者でもある神様の神使を一存で変える事はそう簡単なことではない。
しかし、実際にそれは行われてしまったのだから何か嫌な予感がすると言うことだ。
人の姿とはいえ神の身を借りてしまい、尚私のために高天原に帰った河津さんには大変迷惑をかけてしまった。
「それにしても、見事だね」
変化は特に私たち狐が得意とする分野だ。
香ヶ池さんの目には、もう私が清原狐子ではなく河津大海の姿に映っている事だろう。
「どうですか?」
「いいじゃん、いいじゃん。これなら、あいつにもバレないよ」
「バレなきゃいいんですけど」
今更になって少し怖気づいてしまった。
いくら変化が得意といえども、本当に神様が騙せるのだろうか。
私の心など知ってから知らずか、香ヶ池さんは私の背中を楽しそうに押して学校へと向かった。