第14話 脱走
廊下に出ると聞こえるがやがやとする生徒たちの声。
私は彼らの意識とは違う方向へ足を進めるのに少しだけの罪悪感を覚えた。
そのせいだろうか、誰もいない廊下を早歩きで抜け隠れるように学校から出た。
もう目覚めた蝉の声。湿気を払うはずの日差しは、やっぱりその暑さでより湿気の存在感を際立たせた。もう昼だから、強くなった日差しは肌をひりひりさせる。
一歩一歩進む風景に私の心はどうしても沈んでしまう。
自分に言い聞かせるいい言葉は思いつかなかったが、とりあえず大丈夫と自分に言いきかせて、また一歩踏み出した。
戻る事もどこかへ行く事もしなかった私の足はどこへ向かっているのかひたすらにどこかへ歩み始めた。
この暑い中、自然と涼しさを求めて歩いた先は木々生い茂る山の中だった。
耳を澄ますと聞こえてくる流れる音、森の葉は日光を遮って木陰を作り、土と草が強烈に放つ森と夏の臭いが鼻に舞い込んだ。
綺麗な鳥居をくぐり、上下する身体に呼吸を合わせて山の斜面に沿って続く階段を上り続けた。
「人の世の夏は……」
私の声が私の耳に入ってきて、私はしゃべるのを止めた。
無心で階段を上っていた私の頭に雑念のような思考が混ざりこんでしまう。
嫌な事があると何も考えたくなくなる。
それでも、その私の頭をかき混ぜる何かは、闇に潜む獣のように私の思考が油断する隙間を淡々と待っている。
「気に入りましたか?」
私の独り言に誰かが答えた。
「おはようございます」
声の方に投げた視線の先には、水色の袴と白い着物をまとった一人の男性が、箒をもって階段の上から私の方を見下ろしていた。
「おはようございます。今日は学校が休みですか?」
「サボりです」
「おやおや」
彼は箒を動かしている手を止めると、立ち止まった私の場所まで降りてきた。
「神様でもサボるのですね」
「私は神様ではありません。神使です」
この説明は何度目だろうか。
「なるほど。では、どなたにお仕えなのですか?」
「……」
私は誰に仕えているのだろうか。
ついさっきまで、私は神様のもとにいた。しかし、それは今までの話。
なら私は、神使でもないのだろうか。
「そうそう、この暑さで喉でも乾いていませんか?
この山にはとてもおいしい湧水が湧いているのですよ」
私の表情を読んでか、彼はすぐに話題を変えて、頂上の方を指差した。
「そうなんですか?」
「はい、ここの神は元々土着の神なのですが、水神ともゆかりが深いんです。
その名残とでもいいますか、ここには大変おいしい泉が湧いているんですよ」
ゆかりの深い水神と言うのは、河津さんのことではないのだろうか。
ふと私は、昨日話してもらった香ヶ池さんの昔話を思い出した。
「せっかくなので、案内致しますよ」
「……」
今は一人でいるのは少し辛いかも。だからと言って、香ヶ池さんや河津さんとは一緒にいられない。
箒をもった彼は私の答えを静かに待った。
「言葉に甘えさせてもらいます」
「では、こちらにどうぞ」
山の頂上の方を向いた彼は、この長い石段を登りなれているのだろう。
息を切らさず、私の歩調を気にするようにゆっくりと登り始めた。
「この神社はどれくらいからあるのですか?」
「元土着の神だったここは聖域と言う意味ではかなり昔からあったようですね。
ただ、現在の神社という形を築いたのは今から五百年ほど前です」
五百年。香ヶ池さんと河津さんが出会った頃だ。
「残っている文献によりますと、その折に流行り病が発生したようです。
その疫病を何とか治めようと山の神と水神が力を合わせてその疫病を払いのけたようです。
水神はその時に力を使い、残念なことにその身を隠してしまったと伝えられています」
人の歴史は複雑だ。
大きな飢饉や疫病があった時、それを鬼や荒神のせいとして神に祈祷する。
しかし、またその逆もある。
神や妖怪が起こした惨事を人の歴史は飢饉や疫病として残すこともある。
人の世が残した歴史が神の世の歴史と違える時があるように、生きているものが歩んだ路というのは本当に複雑なものなのだ。
「ぬかるみますので、足元に気を付けてくださいね」
湿気を帯びた空気の源のように、石段には緑や茶色に色づいた苔が張りついていた。
「そう言えば、まだ名前を聞いていませんでした。
お聞きしても大丈夫ですか?」
彼の言葉に私は小さく頷いた。
「人の世では清原狐子と名乗っています。
神の世では清。狐の神使……だった者です」
「なるほど。私の名前は日登成一郎といいます。
ここの十七代目の宮司を務めさせていただいております」
「あれ以来ですね」
私はクスッと笑った。
「あれ以来ですね」
私の笑いに日登と名乗った宮司もクスリと笑った。
あれ以来。
地鳴りの式のが起きる少し前、私が半分狐の状態で飛び出してきた時にあった宮司がこの人だ。あの時は大変迷惑をかけてしまった。
「もう少しで頂上です」
少しだけ、黒い何かを洗い流してくれた。
「日登さん。もし、日登さんが突然宮司を止めることになったらどうしますか?」
目の先には石段を登りきったところにある石の鳥居が見えた。
「そうですね。凄く困りますが、それで私の心が揺らぐわけではありません。
またどこかでひっそりと神と人の心をつなぐ仕事ができればと思います」
「凄いですね」
「そうですか? でも、自然と私の心がそれに色づいたんですよね」
自然とそうなる。
それがどれほど羨ましい事か。心よりも何よりも私は頭で考えてしまう。
「でも、また似たようなことはできないかもしれませんよ」
私の言葉に彼は少し思いを巡らせるように足を止めた。
石段の頂上はもう少し先だ。
「どこに行けばいいか分からない時、どうすればいいか分からない時。
そんなことないのが一番なのかもしれませんが、どうしても人は迷ってしまうんです。
人がどうして迷うか知っていますか?」
「いえ」
彼は言葉を選び、また話し続けた。
「地図がないからというのもあります。目的地が分からないからというのもあります。
皆さん忘れがちなんですけど、迷う時と言うのは誰もが自分が今いる場所が分からない時なんです」
彼は足を止めたまま石段を登ろうとはしなかった。
「自分の現在地が分からないと、目的地についてもそこが目的地だと分からないし、
歩いている道が本当の道なのかも分からないのです。
まず、どこにいるか、どこに立っているかを知らないとダメなんです」
それがどういう意味になるのだろう。
一向に登る気配がない彼を置いて私は一段上の石段に足を進めた。
「宮司を辞めても私はまた宮司になると言いました。
私がそう望んでいますからね。それが私の今いる心なのです。
何年後、何十年後。
もしかしたら百年後位には、また宮司になれる時が来るかもしれないですしね」
「百年も過ぎたら人は死んでしまいますよ」
振り返ってはいないが登り続けている私の後ろを彼は追いかけてきているようだった。
「目的に着くのが旅ではありません。目的地に行くまでも旅なのです。
もし、宮司になれなくても宮司になろうとしている私を決して私は嫌いになりませんよ」
目的地に行くまでもが旅。
その言葉を聞いて宮司の方に振りかえったのは、ちょうど私が一番上の石段を登り終えた時だった。
目に飛び込んできたのは青い空。
山の下にはずっと遠くまで続く屋根の道。
空に転がっている太陽は、斜面に続く緑の木々を明るく照らしていた。
「今はただ……分かりましたとだけ言っておきます」
「はい」
目に飛び込んできた狂おしくなるほど愛おしい世界に、私が一人ならきっと涙しただろう。
宮司を前にして、私の僅かばかりのプライドがそれをようやく止める事ができた。
汗でぬれた服が背中に辺り何とも言えない心地よさと気持ち悪さが覆いかぶさってくる。
流れている汗は、私がかいた汗なのだろうか。
熱い身体に流れる水のような違和感がしっかりと私がここに、今ここに立っている事を確信づけてくれる。
「日登さん。勝手を言って悪いのですが、少し考え事をしていいでしょうか?」
「どうぞどうぞ」
全てを話す前に日登さんは私の言いたいことを理解したのだろう、私に向かって一礼すると社務所の方へと消えていった。
神世で神使として生きていた時はよかった。
自分の立場を深く考える事もなくただその時を生きてきた。
けれど、人の世に渡ってきてからは違った。
神様に仕え、人と共に歩んで、私は嫌が応にも神使としての自覚を持たざるを得なかった。
石押切先生にしても、日登さんにしても。彼らは私よりも遥かに若く。そして、人であった。
「辛いか?」
静かに深く、重い声が背中の向こうの山から聞こえてきた。
「こんにちは、今はこのまま背を向けて話すことをお許しください。
今の私の顔は……あまりにも……綺麗ではなくて」
「構わんよ」
この神社の祭神で、古くは河津さんと戦った仲。
私とはここに来てからは料理の話をするようになった優しい神様だ。
「ここの水はとてもおいしいらしいですね」
「あぁ、好きなだけ飲んで行きなさい」
しばらくの沈黙が流れた。
「出雲での話は私も耳にしたよ」
「……」
「その髪を見るところに、やはりそうなったのであろうな」
「はい」
情けない。
悔しさよりも恥ずかしさよりも、私の心は情けなさでいっぱいだった。
「今はただの狐にございます」
また、沈黙が流れた。
「人の身は……」
「どうした?」
「人の身は辛くございますね。狐の身でしたら、これほど耐えることも。
涙を流さんと耐えることもなかったのに。今、涙を流してしまえば全てが流れ出るようで辛くて、辛くて」
何度目の沈黙だろう。それを数え直すには、私の心はまだ少し揺れている。
「そうか」
これがたぶん最後の沈黙であろう。
私はこの間に耐えきれなくなって立ち上がって、眼下に広がる街を見た。
「狐よ。私はいつも見守っているぞ」
私は山に背を向けたまま小さく頭を下げると、振り返ることなく石段を駆け下りた。
こう言う時、神はいつも同じなのだ。
知っていたし、私もそうしてきた。
神は何かを見守る事しかできない。
神と人が深く関わってはいけないと誰が決めたかは、まだ若い私には分からない。
人も神も老いや死は持っている。
人の目から見ると神のそれは途方もなく差があるかもしれないが、結局は同じことなのだ。
けれど、その長さが神をそれ以上のものにできなくしたのかもしれない。
神も人も心がある。
それは時に静かに、時に激しく揺れ動く。老いも死も克明に持つ人はその繊細な動きに、嘆き悲しみそして喜ぶ事ができる。
今の姿形に心が馴染んだのかもしれない。
人のそれのように激しく揺れる心と、頭の中はまだ神使であるころのそれを持っている。
自分の心がどうであるか、何を望んでいるのか。頭ではそれを理解している。
石段を蹴る一定のリズムが、風と共に私の耳に踊り続ける。
木々の葉はそれに揺れ、蝉の声、太陽が照りつける光の音。数え切れない夏の声がしっかりと私の心には入ってくる。
神と人は別物だったからこそ良かったのかもしれない。
少しでも心に余裕があると、それに割り込んでくる嫌な思考。
私はそれを振り払うため、疲れた身体を無理やり動かして、神社の石段を駆け下りていった。
夏の光に照りつけられる肌が痛い。
木陰と日向の差が肌を通して明確に伝わってくる。
山の匂い、水の匂い、風の匂い。
一つ一つの情報が私の頭の隙間を少しずつ埋めていく。
今はそれが私の精一杯だ。
山の上の神社から一気に下まで駆け下りた私は、階段のすぐそばで両手をひざにつけた。
「はぁはぁはぁ……おえっ」
少し胃から何かが上がってきた。
「はぁはぁ」
肩をすぐ近くの木に預けて、大きく呼吸しようとするが、激しく波打つ心臓に合わせるかのように呼吸も浅くなってしまう。
「あは、馬鹿みたい」
口の中が乾いて、固まったゼリーのような唾液が口の中を不快にさせる。
下を向いた鼻先に全身から吹き出した汗が辿り、上下する身体に合わせて大粒の汗が地面に水滴模様を描いていった。
気持ち良くて、気持ち悪くて。
「取り込み中って感じだね」
「そんな風に見えますか?」
袖で額の汗を拭い、声のする方に頭を持ち上げた。
木陰に照らされた、長身の彼女。腕を組んで、私の方を見てにやりと笑った。
「隅で泣いているかと思ったよ」
「学校はどうしたんですか?」
まだ、呼吸は整っていない。
「サボったよ」
「怒られますよ」
「誰に?」
私の言葉に香ヶ池さんはこれでもかと言うくらい子供っぽく笑った。
「香ヶ池さん、私は高天原に帰ろうと思います」
行きつく答えはそこだった。
神様の傍にいられないなら、もうここにいる意味はない。
家族と共にゆっくりとまた長い高天原の時間を過ごせばいい。
あの長い時間に当てられたらこんな心もすぐに薄らいでいくだろう。
「なら、私にいい案があるんだけどね。それを聞いてからにしない?」
汗にまみれた私に香ヶ池さんがそっと耳打ちしてくれた。
誰かが近くにいてそれを聞くわけでもないのだが、香ヶ池さんがしてくれたその耳打ちが他愛もない提案を少し秘密めいたものに、そして、ちょっぴりいたずらなものに感じさせてくれた。
蛇のそそのかしに乗ってしまう。
誰かが昔、それで大変なことをしてしまったらしいが、今ならその人の気持ちが少しだけ理解できる。
汗でぬれた身体が冷えたわけじゃない。香ヶ池さんの言葉を耳に受けて、私の身体はぶるっと小さく震えてしまった。