第13話 新任
最初に目が覚めたのは私だった。
地上に降りて一年。残念なことにもう日課になってしまった。
私は誰よりも早く起きると、香ヶ池さんの家の冷蔵庫を開けた。
昨日、コンビニエンスストアで買った食事の残り、それに元々冷蔵庫にあったわずかな食材。
頭の中で簡単にレシピを組むと、私はこの抜けない習慣に身を委ねて朝ご飯とお弁当を作り始めた。
「あっ、狐。おはよう」
「おはようございます」
香ヶ池さんが起きてきたのは、お弁当の用意が終わり、残りを朝食として皿に移そうとしている時だった。
「何してんの?」
「朝ご飯とお弁当です」
その言葉を聞くと香ヶ池さんはにやりと笑って起き上ると、何を作っているか確認するため、私の傍まで寄ってきた。
「卵は? 私、好きなんだよね」
「卵焼きならありますよ。でも、残念ながらもうほとんどできているので変更できないですけど」
「丸呑みできるやつある?」
物を食べる時は噛むよりも飲む方が香ヶ池さんは食べている気になるそうだ。
「おにぎりにしますか?」
「うん。お願い」
よっぽど気に入ったのか、香ヶ池さんは私のすぐそばで子供っぽい笑顔でせがむように私の顔を覗き込んだ。
「あっ、香ヶ池さん。お願いがあるんですがいいですか?」
本当は昨日の内に言っておきたかったのだが、飛び出してきた私はその時来ていた服しか服がない。
「香ヶ池さんの制服を一日だけ貸してくれますか?」
「……」
驚いたのだろうか。何を考えているのか香ヶ池さんはそのまま私の方を見て口を動かすのを止めた。
「あっ、もちろん。洗って返しますよ」
「いや、別にいんよ」
香ヶ池さんはなるほどねと何か納得いったような顔をした。
「じゃあ、夏服の予備があるからそれを持ってくるね。
それからご飯食べて学校にでも行きますか」
「はい」
まだ惰眠をむさぼっているのか蝉の声は聞こえなかった。
湿気を払うはずの日差しは、その暑さでよりその湿気の存在感を際立たせた。
まだ朝だからこれでいい。柔らかい日差しも昼からはもっと強くなるだろう。
一歩一歩進む風景に私の心はどうしてもざわついてしまう。
神様はまだ出雲にいる可能性もあると私は自分に言いつけ、ざわつく心を懸命に抑え込み、また一歩踏み出した。
足を踏み出せばそこに風が生まれて涼しくなる。
しかし、足を止めると暑くなった身体が冷え切らず汗が溢れてくる。脚を止め続けることはできず、かといって歩き続けることもできない。
暑さとの葛藤を続け教室についたが、そこも外と同じで暑さがはびこる場所だった。
開け放たれた窓からは僅かながらの風がカーテンを揺らしているのだが、その風が身体までたどり着く頃には微風が無風に変わってしまう。
「おはようございます」
「河津、おはよう」
「あぁ、おはよう」
ぐったりと机に突っ伏した河津さんはそのまま干上がるのではないだろうかと言うほどの顔をしており、机からぴくりとも動かなかった。
「蛙には辛い季節だね」
「蛇にもだろ」
香ヶ池さんの言葉に嫌みを言い返すだけの元気は残っていたようだが、それもそこまで。
目の端をちらっと香ヶ池さんに向けると、また、すぐに机に突っ伏した。
「狐、水を持ってきてあげて。たぶん、本当に干からびるかも」
「はい」
私は香ヶ池さんに渡された空のペットボトルを持って手洗い場に向かった。
朝に今日は少し涼しいかもと感じたのはほんの束の間で、あっという間に辺りは夏の得も言われぬ空気に変わった。
神様なら暑いと文句を言って雨か雪でも降らすのだろうか。
「あッ――」
蛇口から水を注いでいたペットボトルがいっぱいになりペットボトルに注ぎ込まれていた水が周りに飛び散った。
神様の事に頭をとられてしまった。
飛び散った水をハンカチで拭くとペットボトルのふたをきゅっと締めて教室へと戻った。
「河津さん、水ですよ」
「あぁ、ありがとう」
河津さんはペットボトルのふたを開けると汲んできた水を頭からかぶった。
河津さんの肌に、文字通りどんどんと吸収されていった。
「真夏日や蛙へたれる部屋の中ってね」
芭蕉の句をもじった香ヶ池さんは自分の出来に満足したのかまだへたれこんでいる河津さんにどうだったと背中をバンバンと叩きながら尋ね続けていた。
香ヶ池さんを止めた方がいいのだろうか。
河津さんが香ヶ池さんに向けた目はすでに死に際の恨みの目にさえ感じ取れてしまう。
「清原さん、ありがとう。そういえば、神原はどこに行ったの?」
大きい身体をよっこいせと持ち上げた河津さんは、不思議そうに私に尋ねた。
「か、神様ですか? 今日は休みじゃないんですかね?」
「いや、さっきまでいたよ。転校手続きがどうとか言っていたから、職員室かな」
「えっ、神様はどこか行くのですか?」
「そうじゃないってさ」
きっと同じ質問を河津さんも神様にしたのだろう。
その答えを聞いて私は胸をなでおろした。
「狐も知らないってことか。何してんだろうね」
いつもなら、まったくですと口にしているのだろうが、
今はそういうことを言えるような立場でも気分でもない。
「おぉい、お前ら。席につけ」
チャイムがまだなっていないにもかかわらず、石押切先生は教室の中に入ってくると私たちに席へ着くように促した。
「先生。まだ、チャイムは鳴ってないですよ」
「香ヶ池、まぁ、そう言うな。今日は唐突だが転校生が来てな。
その紹介も兼ねてちょっと早く来た。だから、早く席につけ」
転校生と言う言葉に私を除くほとんどの生徒がよっぽど期待を持ったのか、いつもなら文句を言うはずのこの場面で誰も口を開かずすぐに自分の席に戻って行った。
「あの話だろうね」
河津さんの小さい声に「ですね」と小さく返答すると私も自分の席へと戻った。
もちろん、色々思うところがあるが、興味が半分と言うのも嘘ではない。
「よし、じゃあ、足立。入っていいぞ」
足立と呼ばれて教室に入ってきたのは机と椅子を持った神様と黒髪で小柄な少女だった。
「――ッ!」
冷や水を掛けられたように心臓がきゅっとしまった。
何とか声には出さなかった。
遠目でしっかりとは見ていなかったが、あの雰囲気。
間違うはずもない。
出雲で見たあの小さな少女と全く同じだ。
小柄と言っても加茂野さんよりも少し大きいくらいだろう。
短い黒髪はボーイッシュな雰囲気を漂わせてはいるが、深く沈んだような黒い目と言葉にできないような静かで重い空気は活発や明るいという言葉からはかけ離れていた。
「足立三鳥と言います。皆さんよろしくお願いします」
過不足なくと言うには足りなすぎる言葉だが、それだけ言うと石押切先生は神様に場所を指示して机を運ばせ、足立さんにはそこに座るように指示した。
「お清、急にいなくなるからどうしたのかと思ったよ」
いつもと全然変わらない神様に私はなぜかホッとしてしまった。
「申し訳ございません。少し用事があったので」
「用事か。それなら仕方がないねぇ」
口からはすぐに気付かれそうな嘘が流れ出した。
気付いているのか気付いていないのか、神様の言葉に私は罪悪感を抱えながらも何も口にされなかった事に安心感を覚えた。
「よし、少し早いが朝のHRは終わりだ。各自一時限目の用意をしておくように」
石押切先生はそれだけいうと、教室から出て行った。
先生が教室を出て行ってすぐに動き出したのは香ヶ池さんだった。
そして、後を追うように河津さんが。
本当はこのまま席で何事もなく、時間が過ぎればいいと考えていたが、皆の流れに逆らうのも事と判断し、私も足立さんのところへと足を進めた。
「神原、この子は誰?」
「あぁ、足立三鳥って言って高天原から派遣された――」
「そこは、自分で言いますので」
神様の紹介を制止し、足立さんは頭を下げて再度自らの自己紹介を行った。
「ここでの名前は足立三鳥です。狐が神使清に代わり新しい神使に就任いたしました。以後よろしくお願いします」
何か知らないものが心臓の奥にある心に突き刺さった。
乱れそうになる呼吸を止めて、聞きたくない会話に耳を傾けた。
「えっ、神使って狐じゃなかったの?」
「更迭されました」
心に刺さった何かはとてもじゃないが抜けそうにはなかった。
呼吸するたびに心臓の奥がずきずきと痛む。
いっそうの事、呼吸なんて止めたいくらいだったが、それは私が生きる上ではどうしてもやめられないものであった。
「河津知ってる?」
「いや、僕も初めて聞いた。いつ決まったんだい?」
「先に行われた出雲の会議でです。
お二人は欠席だったようですが、何か理由がおありなんでしょうか?」
その言葉に、河津さんと香ヶ池さんは目を見合わせた。
「理由って、私は面倒だからだよ。
だって、そういう寄り合いってめんどくさいじゃない」
「寄り合いじゃないです。会議です」
「寄り合いみたいなものだって」
「高天原に住まうものの当然の義務です。以後は参加をして下さい」
「当然の義務だぁ?」
香ヶ池さんから流れ出た空気ががらりと変わった。
「誰が高天原に住まわせてくれと頼んだ。
殺してもいない私を殺したと大ぼら吹いて英雄になったような輩たちになぜ私が頭を下げないといけないんだい」
まずい。相当怒っている。
私を含め、神様も河津さんもその空気にしどろもどろしているにもかかわらず、足立さんだけがその香ヶ池さんに真正面を向いて言葉を返していた。
「神個人を侮辱する言葉です。
撤回を要求します」
「撤回って事実だろ。何を撤回する必要があるの?」
香ヶ池さんの目が赤みがかり、目の雰囲気が変わる寸前まで来ている。
「そ、そうだ。足立さんが新しい神使になるってことは、清原さんはどうなるんだい?」
河津さんが、この空気に耐えかねて話題を変えようと二人の間に入って足立さんに尋ねた。
河津さんとしては、話を変えるにはいい話題だと思ったんだろうが、残念ながらたぶんそれも地雷だ。
「神使の役目が終わったので、帰って下さって結構です」
少しだけ覚悟をしていたセリフだったので、胸の痛みは経度ですんだ。
それでも、この痛みは耐えがたいもので人前じゃなかったら耐えきれずに自分の胸を押さえつけていただろう。
「あんたねぇ! いい加減にしなよ!」
「申し訳ございません。言葉が足りませんでした。人の世の付き添いご苦労様です。
清さんは高天原に帰って下さって大丈夫です。後は自分がしますので」
下唇から血の味がした。
自分が神使でなくなった事より、神様の傍に私がいなくてもいいという事実が何よりも私の心を強く締めあげた。
今が狐の姿でなくて本当によかった。
隠したい私の意思に反して、たぶん耳は下を向き、尻尾は力なく垂れ下がったであろう。
人の姿なら鉄の味がするそれくらいまで唇を強くかみしめたなら涙で顔を濡らさずに済む。
たぶん。
「そ、そう言えば、神原にはこの前ゲームを貸したよね。あれどうだった?」
「うむ。そうだ。見てくれ」
何か見せたい物があったのだろう。
神様はカバンの中をあさり始め、香ヶ池さんはもう言葉を出す気もなくなったのか無言で自分の席に戻った。
「あのゲームで登場したロボットなんだけどねぇ。木彫りだがなかなかのものだろう」
ぎくしゃくした会話が少しずつ解きほぐされていった。
神様と河津さんは好きなゲームの話題で盛り上がり、足立さんは興味なく静かに立っているだけだった。
私はこの会話にも混ざれないし、かと言って何か特別な事をするわけでもなく足立さんと同じように傍で立っているだけだった。
何とか作り笑顔を作る事は出来た。
「それにしても、この木彫り。よく出来てるね」
「うむ。知り合いの大工の息子に作ってもらったからねぇ」
「大工の息子?」
河津さんが、不思議そうな顔をしたところで教室に国語の教師が入ってきた。
「神原君。いますか?」
「あっ、今行きます」
古文の教師である石押切先生がおじさんと表現するならば、現代国語の先生はお姉さんと言ったところか。
モデルのようなすらっとした体型に似合わない豊満な胸。
金色の巻き毛は地毛らしく、その優しい笑顔は男性じゃなくても虜になりそうである。
まさに、天使と言ってもいい。
「か、神原くん?」
包みのようなものを受け取った神様は嬉しそうに机の上に置くと箱を開けて中身を取り出した。
「どうしたんだい、河津」
取り出した中身は、先程河津さんに見せていた木彫りのロボットと同じようなもの。
若干見た目が違うので、他のキャラクタか何かなのだろう。
「い、今まで気づかなかったけど、国語の先生って――」
何を戸惑ったのか一瞬、河津さんは口をつぐんだ。
「天使?」
「なにぃ、河津はあんなのが好みなの!」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
一瞬、河津さんが何を言っているのか分からなかった。いや、それほどに私にとって強烈な一言だった。
天使のようだとは言ったが、まさかである。
「――本物?」
「と言う事は、大工の息子って」
それが本当なら、かなり不味い事になる。
「神様ッ――」
神様をいさめようと口を開いた瞬間、何よりも早く足立さんがその言葉を口にした。
「他国の神とは原則接触を禁止されております。重大な規約違反です」
「大丈夫、大丈夫。それは神世の話だからねぇ。
ここは人の世。そう言った細かい事は問題じゃないから」
「人の世も例外ではありません」
きっぱりとした足立さんの言葉にも神様は懲りる様子もなくおどけるように言葉を続けた。
「近所づきあいってやつなんだけどねぇ」
「これは上に申告しておきますゆえ。覚悟しておいてください」
言っている事は正しい事にもかかわらず、私の心には釈然としない何かがくすぶっていた。
それが何か、考えるまでもなくその言葉は本来私が言うはずだったものだと言う事に気付くとすぐに理解することができた。
「神様、少し疲れたので、今日は早退させてください」
「あぁ、旅の疲れがまだ残っているだろう。
私が先生に伝えておくから、家に帰ってゆっくりと休んでおきなさい」
「ありがとうございます」
「ちょっと、神原」
河津さんが戒めるように投げかけた言葉を最後まで聞き取れる前に、私はカバンを持って教室から出た。