第12話 相談
インターホンを押して、静かにドアの前に立った。
私の学校の近くの小さなお寺の前。
夜も更けたこの時間に私は静かに待った。
「はい」
インターホンから聞こえた声は、少し警戒したような女性の声だった。
こんな時間なのだから当然だろう。
「夜分遅くにすいません。
私、清原と言います。石押切先生はいますか?」
「あっ、先生ね。ちょっと待っていてくださいね。すぐに呼びますから」
私が石押切先生の生徒だと知ると、途端に声は明るくなり、部屋の外からでもその女性がどたばたと走っているのだろうという音が聞こえた。
たぶん、石押切先生の奥さんなんだろう。
しばらくして、寺から石押切先生が出てきた。
「清原、こんな時間にどうした?」
「あっ、先生」
「ん? お前、髪を元に戻したのか。
あれだけ嫌がってたのにな」
石押切先生がそうかそうかと笑った顔を見て、私は驚きよりも絶望の方が強く私の心を支配した。
「おい! 清原!」
先生が驚いた声を上げて、やっと、私は気付いた。
泣いていたみたいだ。
「本当にどうした。まぁ、ちょっと中に入れ」
私はこの教師より何倍長く生きているだろう。
私は人ではない。神使だ。
それにもかかわらず、私はまるで本当に外見と同じ年齢の人間のように無言で頷くと、石押切先生の後について中へと入って行った。
石押切先生は自分の奥さんに一言話すと、自分の家ではなくお寺のお堂の中へと脚を進めた。
「お前にとっては逆に落ち着かん場所かもしれんな」
「そんなことないです」
先生は座布団を進めるとこの広いお堂の中で向き合って床に腰を下ろした。
「さてと、何があった」
何があったと改めて面と向かってしまうと、何を話そうか迷ってしまうし、本当に話してよいのだろうかとも思ってしまう。
「そうだな。さぁ、話せと言ったところで話しにくい話題もあるわな。
よしよし、折角だから、俺から話でも始めるとしようか」
「はい」
「まぁ、本来ならお前が話し始めるのを待つってのが筋かと思うんだがな。
俺は話を聞くより話す方が好きなんだ。お前はどっちの方が好きだ?」
「私は聞く方が好きです」
それが半分仕事のようなものだ。
「俺は坊さんだからな。説法と言う名の無駄話をけっこうするぞ。
神様はその点聞く方が多いか」
「神じゃないですよ。神使です」
「そうか? どこら辺が違うんだ?」
「字の通りですよ。私はあくまでも神様に仕える狐です。
人よりも優れた力を持ってはいますが、神様とは違います。
どちらかというと、妖怪の方が近いのかもしれません」
私の自嘲めいた言葉は石押切先生には届かず、ただそうなのかと納得しただけだった。
「俺らからしたら、どれも不思議な存在だよ」
「そんなことないです。私はただの神使です」
そう。ただの神使。
よくよく考えたら神使などそれは山のようにたくさんいる。
神様のような高貴な神が神使を一人だけしかつけないこと自体珍しい。
そんな事が続いたから、そんな事が続いてしまったから私は勘違いしてしまったのかもしれない。
「そういえば、この前の加茂野の話。
あれからどうなったか心配してな。神原に話を聞いたんだが。八岐大蛇と対峙したってな」
八岐大蛇と言う言葉を聞いて一瞬身体がびくっと震えた。
僅かな震えだったが、意識よりも先に身体が動いてしまった。
その僅かな動きを気付かれただろうかと心配したが、先生はそのまま話を続けた。
「それも、その八岐大蛇が香ヶ池だって言うじゃないか。
世の中は全く分からんな」
「そうですね」
「それで、香ヶ池とは上手くいっているのか」
「はい。私の大事な親友です」
嘘ではない。
それでも、今回の件がなかったら私は神様の神使を続けられていたのではないだろうかという思いがよぎらないでもなかった。
「それならよかった。
お前たちにとったら学校なんて取るに足らないものかもしれないが、一応な。
ここで得られた友は時に限りない財産になる。
身分や立場上、その思いに関係なく互いの関係は壊れる事がある。お前にそれがなくてよかった」
その言葉は少し耳に痛かった。
私としっかり目を合わせた先生の目は、全てを包み込むような優しい目をしていた。
「……」
こんな目、久しぶり? いや、初めて向けられたかもしれない。
たぶん、普段その眼差しは私が人々に向けて向けるものそのものだ。
「一応、私の方が年上なんですよ」
意味が繋がらない私の強がり。
いや、自分は完璧だと思うほど愚かではない。
神使でありながらこの弱さ。
やはり、他の神使と比べると私は少し劣っているのかもしれない。
「お前は俺の生徒だからな」
強がっている私はまだ弱い。
そして、私はまだ自分が弱いことを認められないでいる。
頭では理解できるけど、まだ心がそれに追いついていない。
だから、まだその弱い心に甘える事にする。
「ありがとうございます。いつの時代も教師は大変ですね」
少し偉そうな上から目線。それが私の精一杯の強がりだ。
「そういうもんだ」
ここに来て、私はほとんど話してはいない。
私の心の中にまだわだかまりが多く残っている事を先生は気付いているだろう。
けれど、先生は私を引きとめずいつもと変わらぬ表情で私を見送ってくれた。
****
やっぱり辛い。
カーディガンの下に夜の風が静かに吹き抜けていく。
まだ、夜は暑い。湿気は少しずつ低くなってきてはいるが、それでも、この季節だ。
私の足はまだ神様と住んでいた家には向かえないでいた。
「さて、これからどうしようかな」
飛び出してきてしまった私だから、服は今着ている分しかない。
お風呂も入りたい。
今、一人でいるのは少し辛い。
たぶん、嫌な事を考えてしまいそうだ。
「やっほ、狐」
後ろから急にとんっと肩を叩かれて、思わず振り向いた。
長身の赤みがかった髪の彼女はいつの間にかうつむいていた私を覗き込むと歯を見せて清々しく笑いかけた。
「……香ヶ池さん」
「先生から電話があったよ」
どんな、とは聞けなかった。
その答えは分かりきってはいたが、それを聞いてしまうと私の強がりが隠し切れていないということになるのだから。
「香ヶ池さん、今日、私を泊めてもらっていいですか?」
「いいよ。って言っても、何もないけどね」
「はい」
明日も学校がある。
「まぁ、近くだからね。そだ。ご飯買ってこようか。後飲み物もね」
そう言って歩きだした香ヶ池さんの後ろを私は一言も話さずついていった。
夜の町に煌々と光る光に、なぜ人は暗闇を嫌うのかと思う。
しかし、当然か。
ここはコンビニなのだ。光が消えていたら客が来ない。
神世では考えられなかった多くの明りがこの町にはある。
「コンビニって便利だよね」
「私はずっと高天原にいましたから。あまり活用した事はありません」
そういえば、私は神様に連れられてここに来るまでずっと高天原で家族と過ごしていた。
人の世に来て一年と少しか。長いようで短い。
最初は神様が起こしたとんでも現象ばかりに振り回されていた。
そして、それは地鳴りの式を回避するための手段だと言う事が後から分かった。
神様には好きな人がいて、今もここにいる。
「香ヶ池さんは、ここに来てどれくらいなのですか?」
香ヶ池さんはコンビニのカゴを抱え、何を買って帰ろうかと棚を物色している最中だった。
「んっと、どれくらいだろう。結構長いよ」
香ヶ池さんは河津さんが好きだと言っていたから、それを追いかけてきたのだろう。
「五百年くらいかな?」
「そんなにですか!」
神の人生の中では確かに短い方かもしれないが、
人の世にしたらそれは永劫ともいえる月日だ。
「河津って、元々ここの土地神だったんだよ。まぁ、蛙の神様だからもちろん水神ね。
んで、まぁ、元々土着の神な上に水神を宛がってもらって、
信仰も厚く、かなり位の高い神らしいかったんだよね」
そういえば、高天原と大蛇の事情も知っていたし、よくよく考えればある程度位が高い神だったと考えられなくもなかった。
「んで、私はふらふらと放浪して、この土地にたどり着いてきたわけ。
狐って嫌いなものある?」
話しながら棚の商品をポンポンと籠の中に入れているのを見て、私はありませんよと言葉だけ返した。
カゴの中にはかなりの商品が入っている。
正直、これだけの量を食べろと言われたら食べきれる自信がない。
「んで、ここの土地に住んだ人を食べていたら河津が怒りだしてね」
今、さらっととんでもない発言が聞こえたが、今はそこを追及しない事にしよう。
「私に喧嘩を売ってきたってわけよ」
あの頃を思い出してか、香ヶ池さんはクスクスと笑った。
「いやぁ、長い間戦ったね」
「どのくらいですか?」
「一時間くらい」
「長くないですよ」
あっという間とは言わないが、長い内に入るのだろうか。
「そう?」
「……うーん」
改めて聞き返されると確かに一時間は、長いかもしれない。
実際に、私が香ヶ池さんと戦った時、それだけ長い時間戦っていられなかった。
「河津は蛙だしね。もう、最初はガクガク震えていたのよね」
「そうなんですか」
よっぽど面白かったのだろう。
香ヶ池さんはその顔と言ったらと何度も思い出しては笑っていた。
「それでどこで好きになったんですか?」
「そこでだよ」
「えっ?」
香ヶ池さんの脈絡もない返しに私は思わず聞き返してしまった。
どう考えても今の話の中では香ヶ池さんが河津さんに惚れる要素などなかった。
「どこでですか?」
「毒にまみれて動けなくなった河津を食べようと口を開けた時、
あいつ蛙の癖に私の牙を折ったんだよ」
香ヶ池さんは右手の人差し指を唇にひっかけると、横に引っ張ってその当時折れた歯を見せた。
確かに、犬歯のように尖った歯の一部が欠けている。
でも、それは極々小さい欠けだった。
「これは一応私の思い出だからね。治さないでいるんだけどね。
まぁ、当時は怒り狂ったけどね。
なぶり殺しにしてやろうと、生かさず殺さずを続けていたら、
河津は逃げ出してはまた戦いを挑んでの繰り返しでね」
凄惨な出来事であったあろうはずなのだが、香ヶ池さんは懐かしむように昔を思い出していた。
「山神も連れてきたときは結構長い戦いになったっけ。
初めて日が落ちるまで争った気がする」
「山神って、どなたなんですか?」
「ん? 今も神社が残っているでしょ」
あぁ、私がいつも高天原に帰る時にお世話になっているあの人か。
「あっ、狐ってお酒大丈夫?」
「まぁ、お神酒を飲みますから大丈夫ですが、今、私たちは学生ですよ」
「んー、大丈夫じゃないかなぁ」
「お酒での失敗が多いんですから、今日は我慢してください」
お酒をよく飲む人の事をウワバミと言うくらいだから、好きなのは分かるが、さすがに学生のような風体をした私たちがお酒を買うのはまずいところがあるだろう。
「仕方がないなあ。
まぁ、今日は狐がいるし、ゆっくり話しながら手を打つかな」
「ありがとうございます」
明日も学校があるのだ。
へべれけな状態で朝を迎えられるはずがない。
明日は学校か……
学校に行ったら神様と会うのだろうか。
「また、何か考えてるでしょ」
見透かされたような香ヶ池さんの身体にびくっと小さく身構えた。
「そんなことないですよ」
「言うと思った。それより、早く帰ろうか。お腹がすいたよ」
「はい」
その夜、私と香ヶ池さんは初めて長い間話し続けた。
自分の過去、香ヶ池さんの過去。
私と神様の出会い、香ヶ池さんと河津さんの出会い。
夜の時間は流れる水のように静かにゆっくりと落ちて行った。
私たちはその滴を手の平で大切に受け止めるようにこの時間を過ごした。