第10話 和解
「その狐火って言うのは、ちょっと厄介ね」
確か、伝説でも八岐大蛇につけた傷口を炎で焼いてようやく再生をさせなかったはずだ。
私の狐火と香ヶ池さんのそれとは相性がいいのかもしれない。
地面につけていた右腕をゆっくり上げて、飛びかかる準備を整える。
目も耳も決して離しはしない。
身体をゆっくりと前後に動かし、牽制と隙を促しながらその時を待ち構える。
数度ほど身体を揺らしたそのすぐ後、私の脚は力強く床を踏みしめた。
走るのではなく飛び込んでいくように身体を小さく丸め一直線に彼女へと向かっていく。
「狐火!」
このまま真っすぐ突っ走って行っても香ヶ池さんなら確実に対応してくるはずだ。
私の声に呼応して、狐火は目の前に炎の壁を作りだし、私の姿を隠した。
蛇の脱皮は厄介だ。あれのせいで、正確な距離が測りづらい。
やるなら奇襲しかない。
炎の壁で身を隠した私は、床を蹴ると机の上に飛び乗り、更に大きく机から飛び上がった。
教室の天井が私の背中に当たるか当らないかぎりぎりの距離。
人では到底飛べないその距離から炎の赤にまぎれて香ヶ池さんの赤い髪をのぞくことができた。
まだ、私が頭上にいることに気が付いていない。
「やっぱり、狐火って厄介よね」
身体そのままで香ヶ池さんの顔だけがぐぐっと私の方を向いた。
しまった。気付かれていた。
「残念ね」
まったくだ。
彼女の言葉に心底納得してしまう。
空中では大きな身動きが取れない。
尻尾を振って舵を切ってもそれほど遠くに動けるわけでもないから奇襲は失敗だと言っていい。
「大丈夫です。まだ手はありますから」
私の意思に合わせて、壁を作っていた狐火が細長い槍状の形をとる。
手から離れてしまった狐火の代わりに、私の両掌に最初よりも少し小ぶりの狐火を作りだした。
尾は風の流れに従い細かく左右に揺れ、耳は眼下にいる彼女から離れない。
そして、それは私の目も同じ。目と耳の先にいる香ヶ池さんに向かって、炎に包まれた私の腕を真っすぐに振り下ろす。
上からは私。下は狐火の槍。
どちらに向いても逃げ道はない。
「ほーんと厄介」
真っすぐ私の方を見ていた香ヶ池さんは鋭く伸びた狐火の槍を意に介さず、振り下ろした私の腕を白い両手でしっかりと受け止めた。
「どうして」
その場から一歩も動かなければ、私の狐火でその身体を貫かれる。
狐火を避けようとすれば、頭上にいる私の腕が確実にとらえるはずだった。
しかし、香ヶ池さんは私のそのどちらとの予想とも違っていた。
少しもその場所から動くことなく、更に私の腕を受け止めた。
「当たっても意味がないんだって」
鋭く尖った炎の槍は触れれば貫き、燃やし尽くすはずだ。
狐火が通った後を目で追うとそれは間違いではないことに気付いた。
狐火は確かに香ヶ池さんのお腹を貫いた。
制服を燃やし、香ヶ池さんの白い肌もろともそこにあったはずの身体の一部は完全に取り除かれていた。
これが剣であったら、ここは溢れるほどの血で埋め尽くされていたであろう。
狐火は貫いて抉り出した身体を一瞬にして焼き、傷口は焼け焦げたステーキのように身体とは違う炭化した何かへ変わっていた。
「一応、ついさっきまで狐とは仲良く話していたはずなんだよね」
妙な高揚感を覚えたのか、香ヶ池さんの顔はいつもより少しだけ楽しそうに笑った。
「自分が正しいと思うことに全力なのは狐のいいところだと思う。でもね――」
焼け焦げて完全に死んだはずの身体が一瞬にして元の身体へと戻った。瞬きする暇さえなかった一瞬。
実は狐火で貫いたのはウソだったかと思ってしまうほどの僅かな間だったが、
燃やした制服の一部と辺りに漂う焦げ臭いにおいがその一瞬がウソではなくて現実だったということを辛うじて教えてくれていた。
「――その真っすぐすぎる心は危ういよ」
香ヶ池さんとの距離を離した。
「傷口を炎で焼けば再生しないというのはウソだったんですね」
「そだよ。じゃないと、私がここにいるわけないじゃん」
「まったくです」
刺しても駄目。
斬っても駄目。
燃やしても駄目となると、これは少し困った。
「さて、狐はどうするの?」
「万策は尽きていませんよ」
案一つ目。炭と化すまで燃やし続ける。
案二つ目。なし。
名案は思い浮かばないが、万策は尽きてない。
「後一つ言い忘れたことがありました」
「なに?」
「私が自分の思ったことに全力なように、
香ヶ池さんも自分の感情に全力じゃないですか」
私の言葉に香ヶ池さんは本当だわと唇の端を少し上げて笑った。
私の思惑が外れたら本当に万策尽きる。
そもそも、そんな長い間、狐火を出し続けられるのだろうか。
顔を知った人間を狐火で焼き続けるなんていう状況に私自身が耐えられるかさえ分からない。
狐火を出した時、左手の反応が若干遅かった時があった。
あれは疲労や痛みによるものなのだろうか。
狐火自体、ほとんど出す機会がなかったのだから、予想にもない事が起こってもおかしくはない。
数歩離れた場所の香ヶ池さんを見つめると私の視線はゆっくりと下に落ちた。
「ッ!」
「あら、ようやく」
力なく下に落ちた視線だが、それは私の意図と大きく反していた。
抜けていく身体の力と得も言われぬ吐き気。
「……これは」
「そう、毒よ。蛇のね」
膝をつき両手を地面に置いてようやく体が支えられるほどの虚脱感。
少しでも気を抜いてしまうとそこに倒れこんでしまいそうだ。
「最初触れた時に入れさせてもらったわ」
白い耳鳴りが香ヶ池さんの声を掻き消していく。
「お清。あれほど止めなさいと言ったのに」
神様の声と温かい腕の感触。
きっと、神様が抱き上げてくれたのだろう。目の前の世界はモノクロよりも灰色に近い世界へと移ってしまい、神様が私の傍に寄ってきたことさえ触られるまで気づかないほどになっていた。
「河津、すまないが、お清を頼んでいいかい?」
「あ、ああ」
私を抱きかかえた状態で少し歩くと、神様はゆっくりと私の身体を冷えた床の上に寝かせた。
次いで、河津さんが聞き取れはしなかったが何かを呟くとそれに呼応するように、やわらかな雨が私の身体全体をゆっくり濡らしていった。
これが加茂野さんのために行っていた祈り雨なのですね。
冷たいわけではない。
まるで春雨のように肌に打ちつけられ、身体の力がゆっくりと弛緩していった。
「今度は名無しの坊ちゃんが相手かい」
「残念だが、高天原はずっと大蛇を見ていたからねぇ。
今更私たちを殺したところで、何の解決にもならないよ」
「それで?」
「簡単な話だよ。今すぐ加茂野さんの呪いを止めて貰えないかねぇ」
皮膚に流れる雨を追うように、身体を侵していた何かが流れ落ちていく。
それが、蛇の毒だったのだろうか。
遠ざかろうとしていた意識がその雨に打たれゆっくりと戻ってくるのが分かる。
「……神様」
私は大丈夫だと伝えようと言葉を発したが、まだその毒が身体に残っているのか、声をはっきりと口から出すことができず、神様は私が起き上ったことに気付いていないようだった。
「私に利点がない交渉を受けろっていうの?」
「利点はあるよ。神器を返そう」
呪いの解除の交換条件に天叢雲剣を返す。
それがどれだけのことか分かっているのだろうか。
「……」
香ヶ池さんは、神様の口から出た予想外の言葉に少し考えを巡らせたようだ。
今では天叢雲剣と名前がついた剣だが、もとは香ヶ池さんの身体の一部。
返してもらえるならそれに越したことはないはずだ。
「それに、河津も思うだろう?」
私の手当てをしてくれている河津さんの方を振り返ると香ヶ池さんに見えないように、片目だけを一瞬つぶった。
神様のいたずらっぽい顔。
何をしようとしているのかは分からないが、何を考えているかは分かる。
よからぬことだ。
「そうだよ。香ヶ池さん。僕は人を傷つける人が嫌いだ」
少し取ってつけたような台詞だったが、香ヶ池さんには効果があったようだった。
常に警戒を怠らなかったホオズキ色の瞳の色は失せ、今は真っ黒の目が彼女の両の目にあった。
「本当?」
「あぁ、本当だよ」
香ヶ池さんの言葉に、神様がにやりと笑った。
河津さんにも香ヶ池さんにも気づかれていないかすかな笑いだったが、私はそれに気が付いてしまった。
「私も人を好きになってこの地に降りてきたからねぇ。
似たような境遇さ」
神様は香ヶ池さんに裏などないような笑顔を見せると、何の躊躇もなく香ヶ池さんの目の前まで進むと肩をポンッと叩いた。
何を考えているか分からない神様だが、口だけは達者だ。
きっと上手くまとめてくれるに違いない。
でも、またきっとはちゃめちゃな事を言うに違いない。
神様が無責任に言った言葉の後処理を私がしないといけないと思うと少し憂鬱な気分になったが、それ以上に何とかしてくれるだろうという安心感が緊張から私を解き放ち、同時に私の意識もどこか遠くへと飛ばしてしまった。
****
あの放課後の一件以来二日が経った。
何といっても大蛇の毒。
河津さんに治してもらったとはいえ、すぐに身体が万全になるわけでもなく私はその二日間を布団の中で過ごした。
その間、神様一人を学校に送るのは不安ではあったが、夕方にはいつも通り何食わぬ顔で戻ってきた。
私がいなくともまったく困っていないその顔を見ると少々小憎たらしくもあるが、
何よりも神様の身に何事もなかった安堵感の方が強かった。
そういえば、布団の中で自分が疑問に思っていた事のいくつかを神様に尋ねた。
どうして、河津さんが神だと言うことに気付いたかということと、罪を犯していない河津さんがまるで自分が犯人だと私の前で話し始めたこと。
神様が言うには、高天原には神が人間の地に降り立つには申請を出す必要があるのだそうだ。
一応、現高天原管理責任者。
河津さんが神様だと言うことは事前に知っていたらしい。
高天原の最大の敵と言っても過言ではない、八岐大蛇がまだ生きている。
その事はかなり前から認識していたようだ。そして、それはずっと監視されていた。
そこで神様が行った事。
高天原の最高責任者である自らが大蛇の直接監視に名乗り出た。
こんな任、そうそう出来るはずもなく、誰もその事について言及しなかった。
高天原の最高責任者が自分の仕事を放り出して、
人間の地に降りていることが認められているわけだ。
どこまでが偶然なのか仕組まれたことなのか。
神様は大義名分を持った状態でここに降りてこられたということになる。
そして、河津さんは高天原のそうした内情を知っていた。
事を荒立てて、高天原対八岐大蛇の構図を組み立てるくらいなら自分が事の首謀者として全て丸く収まる方を選んだ。
神様が毎日何の困った様子もなく学校から帰ってくるということは、少なからず香ヶ池さんとは友好的な関係を構築できたのだろう。
それは、高天原現最高責任者と八岐大蛇とが友好的な関係を構築できたということになる。
河津さんが選ぼうとした結果でもなく、私が選ぼうとした結果でもない。
もう一つの選択肢。
神様に対して口が裂けても言えなかったが、まるで全てが神様の掌の上だったようなそんな結果となってしまった。
体調も万全となった頃、私は神様と学校へ顔を出した。
あれ以降初めて香ヶ池さんと会う。
一度はお互い本気で殺すつもりでいた関係だ。どういう顔をして会えばいいか分からない。
そんな微妙な気持ちで学校に着くと私はいつもの席に座った。
「やぁ、久しぶり」
「あっ、河津さん。おはようございます」
「体調は?」
「御蔭様で、無事動けるようになりました」
私の身を案じて雨を降らせてくれた河津さんにはいくら礼を言っても過ぎないほどのことをしてもらった。
「あれ? 神原は?」
「神様ですか?」
ふと周りを見渡すと、確かに神様の姿がなかった。確かに、朝は一緒に登校してきたはずだったのに。
「香ヶ池さんも随分と清原さんに会いたがっていたよ」
香ヶ池さんが会いたがってくれたとは予想外だった。
私が河津さんと話していると教室の外からどたばたと大きな足音を立てて、何かがやってきた。
いや、何かがなんてそんなこと。何が来るかは考えなくても分かってしまう。
こんな時間からこんなテンションで動き回る人たちなんてそうはいない。
「聞きなさい! お清!」
朝一番から大きな音を立てて教室に飛び込んできたのは、予想通り神様と……
「我ら恋の神様’S」
香ヶ池さんだった。
「……」
予想の斜め上を突っ走った二人に私は呆れを通り越して、ぽかんと口を開けてかたまってしまうという何とも在り来りな反応をしてしまった。
「あの二人、清原さんを喜ばせようと必死で考えたらしいよ」
神様がもう一人増えたみたいだった。
「まぁ、聞きなさい、お清」
私が呆気にとられているのを見て、チャンスとでも思ったのか神様はそのまま言葉を続けた。
「この神様’Sというのは、神様が二人で神様’Sというのと夏だからという二つの理由があってだな――」
窓の外からいつもと同じ蝉の声が流れてきた。
そうなのだ。夏なのだ。
教室の窓から見える空は憎々しいほど青く、そして高かった。
「あぁ、そうだ。今日はお弁当を一緒に食べないと」
ふと思ったあの時の誓いを思い出して、私は席を立った。
神様と香ヶ池さんは前よりも仲良くなったようだ。
何をどう話したらこうなるのか。
私には分からないが、きっと神様らしいあの手この手で誤魔化したに違いない。
「こら、お清。どこに行くんだい」
話の途中に席を立った私を何とか席に引きとめようとしたが、構わず私は黒い髪がとても素敵な彼女の席まで歩いて行った。
「今日は、一緒にお昼を食べませんか?」
席で一人。
誰とも会話せず。ただ一人座っていた少女。
日本人形のように美しい黒髪が私の声に反応して風に揺れた。
「えっと」
黒髪の可愛い彼女は私の唐突な言葉に少し驚いたようだった。
でも、すぐにその顔は笑顔に変わった。
「はい」
外は晴れ。
梅雨も明け、ただいま、夏本番。