そして
あれ、どうなった?
暗闇の中、莉々は意識を取り戻した。
最後の記憶は痕この血液を口にしたところまで、それからの記憶が無い。それでもあの血の味は覚えていた。味わったことのない快楽。思い出すだけで幸せな気分になり、体中が血を求め始める。
しかし、今はそんな場合ではない。
「誰か!」
そう叫ぼうも声はもごもごと、くぐもった音になるだけだ。猿ぐつわを噛ませられていて喋ることもできない。そしてこの暗闇。視界から漏れる小さな光で目隠しをされているのだと気付いた。
耳を澄ますが、遠くで車が走る音ぐらいしか聞こえない。
次に強烈な異臭に気付いた。排泄物の匂いだ。
莉々は自分の下着が気持ち悪く濡れていることに気付き、この匂いの正体は自分なのではと顔を青ざめた。
待てど待てど、状況は改善しない。
ここは何処なのだろう。あの男の部屋のままだろうか。だとしたら、こんなみじめな姿で放置してあの男は何処にいったのだろう。
拘束を解けないかと足掻いてみるが、きつく結ばれていて取れそうもない。
一時間、二時間は優に経過したと感じる。
いつまでこのままなのだろう、早く自由にしてほしい。
莉々は心から男の帰宅を願っていた。
その願いが通じたのか、ドアの鍵を解除する音、続いて誰かが歩く音が響いた。そして、莉々のすぐそばでドアの開く音が聴こえた。
音に反応し唯一自由な顔を上げる。
「あ、もう起きてた?」
男の声に莉々は必死に頷く。
目隠し、猿ぐつわはすぐに外してくれた。久々の光に目がくらむ。光に慣れて今の状況を確認する。ここはどうやらバスルームのようだ。縛られた自分、汚れた下着。無遠慮目の余り齢が変わらない男。
羞恥心で顔が真っ赤になる。頼むから見ないでくれと思った。しかし、次はこの拘束を解いてもらわなければいけない。
「結構待ってた?」
「……かなり」
莉々は怨嗟の声を漏らす。
「必修の授業でね、休めなくてさ」
男にはさほど悪びれた様子はない。予め莉々をバスルームに移しておいたということはこの事態も予想していたということだろう。
「そういえば名前聴いてなかったね」
「前園、莉々です」
「そう、前園さん、気分はどう?」
「良くはないです」
男は口を動かすばかりで拘束を解く様子を見せない。
「もう冷静だよね」
「……はい」
「血への欲求は?」
「まだ、あります」
莉々は正直に答えた。
「我慢できそう?」
「……たぶん」
今は大丈夫だ。だが、実際に目の前にしたり、あの匂いを嗅いだらどうなるかは分からない。
「まあ、大丈夫か」
沿おう言うと男は要約ロープをほどいてくれた。
「そのままシャワー浴びる?」
「……はい」
男が出て行くと莉々は裸になり、熱いお湯を全身に浴びせた。
「ああああぁ!」
シャワーの音に紛らわせてうめき声をあげる。あんな痴態を見られてしまった羞恥心からだ。未だに顔から熱が引いてくれない。
バスルームから出るとジャージと男物のトランクスが用意されていたが、男性用の下着は身につける気にはならずジャージだけを身につけた。
リビングではデスクに座った男がパソコンをいじっている。
男は部屋に入ってきた莉々に気付いた。
莉々は反射的に睨みつけてしまった。
「そんな睨まないでよ。あんな形で放置したのは悪かったよ。まあ、でも、命を助けてあげたんだし」
男の言葉を聴く今まで、莉々はBBウィルスのことを忘れていた。
踵を返しバスルームに戻、鏡で顔を確認する。
消えていた。あの悪魔の青痣が消えていた。
「助かった……?」
助かった。致死率百パーセントのBBウィルスから生還した。生きている。確かに生きている。莉々は自らを抱きしめるように腕を組みその場に崩れ落ちて静かに涙を流した。
「大丈夫?」
少しして、男が様子を見に来た。
「はい、本当にありがとうございました」
「いえいえ。少し、話そうか」
リビングに戻り、再び、あの椅子をすすめられた。嫌がらせだろうか。
「さて、君はこれで感染者から準適合者になったわけだ」
男の言葉に莉々は気づいた。ただ助かっただけではないのだと。
「隠していくべき、ですよね?」
「そうだね。でもまあ、BBウィルスと違って身体的特徴がないからね。まあばれないよ。BBウィルスの事は誰にも言ってないよね」
「はい、親にも」
「良い判断だ」
それから、準適合者として生きて行く上での心がけをいくつか教わった。決して他人にばらすな。へたな正義感は出すな。金を稼ごうとするな。一般の適合者が血を売って金を稼ぐことは難しい。その衝撃の理由を男は語った。
ネットで見かけた一億円で適合者の血液を売買するという取引。それ自体は本物だ。しかし、その取引は政府が管理しているという。そして感染者保護施設の運営資金に充てている。一億円を出して血液を手にしても、その後は研究に協力させられるらしい。
とにかく慎重に、だけど普通に生きろ。ということだ。
「どうして、助けてくれたんですか?」
莉々は素朴な疑問を投げかけた。
男は笑みを消して、雰囲気を変える。
「別に君が可愛かったからとか、可哀そうだからとか、そんなんじゃない。こっちも相応のリスクを背負う必要があるからね。一瞬迷ったよ、助けるかどうか」
「じゃあ、なんで……?」
「何でもしてくれるんでしょ? 好きにしていいんでしょ」
男の鋭い視線が莉々を刺した。
その視線に莉々は体を震わせる。
「はい」
それでも、男の目を正面から見据えて莉々は答えた。あんな屈辱的な扱いを受けよう、命を助けてもらったのは事実だ。命の恩人の、この男が望むならどんなことでもしようと思った。
「いいね。実はBBウィルスについて自分なりに調べていてね。協力者が欲しかったんだ」
「BBウィルスを治す、研究ですか?」
「まあ、それもあるかな。実は感染者を助けたのは君が初めてじゃない。それだ、これまでの研究で発見したことを一つ教えてあげよう」
そういうと男は莉々の持ってきたナイフを手に取った。
「感染者でなくなった準適合者は、やがて自分の血が甘く感じる。ただそれだけだ。昨日の君のように理性を失ったりはもうしない。そして他の適合者の血はただの血の味になる。しかし――」
男はナイフで指先を裂いた。赤い血が丸い粒となって指先に現れる。
「君にとって、僕の血だけは別だ。すなわち準適合者になる際の、元となる適合者の血だけは変わらず美味に感じる。今は未だ血への欲求があるだろう。それも、そのうち薄れて行く。だけど元の、君の場合、僕の血だけは忘れられないんだ」
男は血の浮かんだ指先を莉々に近づける。
「何を……」
言葉を言いきる前に、鼻を刺激する男の血の匂いで思考が低下する。何も考えられず、口が男の指先に吸い寄せられていく。
もう少しで届くというところで男は指先を引っ込めた。
「あぁ」
莉々はおもちゃを取り上げられた子供のような泣きそうな顔を浮かべる。
男が血をティッシュで拭うと、莉々は理性を取り戻した。
「逆らえないんだ、元の適合者の血には。一種の催眠状態になり、血をちらつかせればなんでも言うことを聞く奴隷状態になる」
「そんな、奴隷って」
莉々の鼓動はまだ高鳴っていた。なんとか理性で抑えつけているが血への衝動が止まない。
「試してみる?」
莉々は思わず喉を鳴らす。
「いえ、大丈夫です」
洗濯していた莉々の服が乾くと帰らされた。
結局男は、莉々に手を出すこともなく、奴隷呼ばわりしたものの、その日は何もせず莉々を帰した。
「いつでも呼んだら来い、そして言うことを聞け」
男は最後にそう言い、莉々はそれに頷いた。
一度は、いや、一度ならず何度も諦めかけたこの命。救ってくれたあの男に捧げようと思った。
「生きてる」
その実感だけで涙が込み上げてきた。
これで前と同じ生活が送れるかといったら、そうではない。命は繋ぎとめたが、失くしたものは多くある。お金なんて底をついている。それでも失くしたものばかりではない。
命の大切な、何処かで聴いた安っぽい言葉が今は胸に染みた。
生は当たり前のことではない、それに気づかせてもらった。
携帯電話を開くと親からの着信が十数件あった。
こんなに心配してくれる両親。空が青い。ゆるやかな風。はしゃぐ小学生。ピザの配達員。目に移る全てが素晴らしいものだ。
生まれ変わったかのように全てが新鮮だった。
しかし、感動に浸る前に無断外泊の言い訳を考えなければならない。