生と血
適合者と思われる男、彼を発見しその日は一旦帰宅した。第一の目的であった適合者の男を見つけるには至ったが、その後をどうするか全く考えていなかった。
もちろん。彼の血を手に入れ、BBウィルスを治す事が最終目的だが、そこに至るまで――どのように血を手に入れるかだ。
莉々は部屋で一息ついた。
化粧でカモフラージュした部分をふき取る。久しぶりに青痣をまじまじと見た。月の満ち欠けのように痣の模様が変わっている。濃い部分が残り少なくなっている。二度目の新月まで残り数日だろう。三日、ないし四日。莉々はそう目算した。
翌日、莉々は残りのお金で買い出しに来ていた。
いきなり見知らぬ女が訪ねて来て。感染者だから血を分けてくれ、そう言ったところで、はいどうぞ、とはいかないだろう。
立場が逆ならどうだ?
すぐに締め出して警察を呼ぶかもしれない。感染者はもはや犯罪者と同義だからだ。
だから、スマートではないが莉々は強行策をとることにした。
催涙スプレー、スタンガン等の痴漢撃退グッズを主に買った。次に手錠、ロープ、目隠し用のアイマスク、目盛りのついた容器、注射器、最後に必要かどうか分からなかったが小さなナイフを購入した。できれば使う機会が来ないことを祈る。
資金はちょうど尽きた。生き残ることができたらじり貧生活になりそうだ。
莉々は生き残る未来をイメージできるほど希望に満ちていた。
イメージを現実にするためにはもう一仕事ある。莉々はイメージする。チャイムを鳴らす。第一段階はドアを開けてもらうことだ。インターホンで対応された場合はどうするか。
宅配便、こんな若くて女性の宅配員はいないだろう。それに制服もなければ怪しまれる。
郵便物落ちてましたよ。普通なら出迎えて受け取ってくれるかもしれないが、郵便受けに入れておいて、と言われたら終わりだ。
助けてください、怪しい人に付けられているんです! 少し無理があるかな。あの男の部屋は二階だ。なぜわざわざ二階に、と思い怪しまれるかも。しかし、いきなりの事態にそこまで頭が回るだろうか。いや、適合者なら感染者同様、日々の生活に気を配っていることだろう。
お宅の自転車が盗られそうになっている。なんで知ってるんだということに。
考え過ぎだろうか、まあ、選択肢は多い方がいい。莉々はファーストコンタクトについてはもう何パターンか考えることにした。それに、演技力も必要だと考えた。
問題はその次だ。
ドアを開けたところに催涙スプレーで視界を奪う。スタンガンを最大出力で当てる。これで気絶させれればいいのだが、違法改造でもしないと気絶まではいかないらしい。それでもひるませることはできる。その後、押し倒し素早く手錠をかける。ロープで体をぐるぐるにして身動きをとれなくする。目隠しをし、猿ぐつわをかませる。
これで安心して血を採取できる。
莉々は自分に必要な0.86~1.032リットル以上は摂らないつもりだ。摂りすぎて死なせてしまったら、生き残ったとしても犯罪者だ。不法侵入して襲っている時点で十分犯罪なのだが。
それに、感染者にとって適合者の血はとてつもなく美味で、一度舐めると血を吸いつくすまでやめれないという。禁断症状というのも気になる。外で体に変化が起こっては大変だ。採取した血は自室でゆっくり飲むとしよう。
手順はこんなところでいいだろう。
問題はそんなにうまくいくかどうかだ。信じるしかない。イメージだ。そして練習。
莉々は解けないロープの結び方を調べ何度も練習した。
痕はイメージトレーニング。すべき行動を何度も反芻した。より素早く、効率的に動にはどうすればいいか、研鑽に研鑽を重ねた。
決行日。
失敗したらもう次はない。一度きりのチャンスだ。
莉々は昼過ぎから男のアパートを見張っていた。人通りの少ない場所だったので同じ場所にいくらいようが怪しむ人はいなかった。
そして、待つこと三時間、午後三時過ぎに男は帰宅した。アパート周りをぐるっと一周し、人がいないことを確かめた。そして男の部屋へと向かう。
部屋の扉の前に立ち、大きく深呼吸する。
この一月、地獄のような日々だった。その日々が報われるかどうかは、たった今からの行動にかかっている。莉々は自分自身を鼓舞し続けた。絶対に生き残る。そう、決意を固めたところでチャイムを押した。
パターンはいくつか考えてきた。相手の反応によって変えるつもりだった。居留守を使われたパターンも考えてあったのだが、
「はい?」
男は何の用人もなくドアをあけた。
あまりにもあっけなく男は目の前に身をさらし、準備が無駄になったことで一瞬莉々の思考は停止してしまった。
男はいきないり訪問してきた見知らぬ少女に困惑の表情を浮かべる。
莉々は我に返りすべき行動を思い出す。後ろ手に隠したスタンガンを男のむき出しの肌――首筋を狙って突きつける。
不意打ちにもかかわらず男は冷静にスタンガンをはたき落とす。
「……えーと」
いきなりの暴力にも男は起ころうともせず、冷静なままだ。
失敗した!
失敗した!
最初から手順が狂った莉々は混乱し、力任せに男に体当たりを食らわした。
男と莉々は部屋になだれ込んだ。
莉々は直ぐに起き上がり態勢を立て直す。
「次は、次は……」
莉々は考えていた行動を思い出そうと必死に思考を巡らす。そして、兎に角、男の行動を制御しなければとロープと手錠を取り出す。
莉々は今には男を捕縛しようという所なのに対して、男の方は倒れたまま起き上がることもせず、胡坐をかいたまま冷静の莉々を観察している。
いきなりの闖入者、いきなりの強襲、それでも混乱し慌てているのは加害者の方だ。
男の泰然自若とした態度を見て莉々は自分の力じゃ彼を取り押さえるのは無理だと悟った。相手は冷静。不意打ちをよけるような反射神経もある、いくら道具を持っていようと女性と男性では力の差がある。
莉々は思い出した。使う予定のなかった虎の子のナイフを。
後ろポケットにしまってあったそれを拙い手つきで取り出す。
鋭く光る銀色のナイフを目にしても男の態度は変わらない。恐れるどころか、むしろ呆れたような表所に見える。
男があ少しでも怯えた様子を見せてくれれば、まだやれるかもしれなかった。でももう無理だ。こんなナイフがあろうとなかろうと、もうどうにもならない。
敗北を悟った莉々の手からナイフが零れ落ちた。
それでも、まだ、生きることだけは諦められない。莉々はかすれがすれに声を絞り出した。
「わ、私は感染者です」
そう言って絆創膏をはがし、化粧をぬぐい取って青痣を晒す。
お男は何も言わない。ただ莉々を見つめている。その表情からは何の感情も読み取れない。
「あなたは、適合者ですか?」
続いて莉々は尋ねた。
「そうだよ」
一拍置いて男は答えた。
計画してことが台無しになり、絶望が溜まった莉々の心に一筋の光がさした。
「助けて、助けてください! お願いします」
莉々は自分で言ってからなんて都合のいい台詞だと思った。散々襲っておいて、敵わないとわかると泣き落とし。最低な人間だ。自分を殺したくなった。だけどそれ以上に生きたかった。
「お願いします。何でもします。好きにして、いいですから……」
莉々はそう言って衣服を脱ぎ始めた。莉々はうぬおれではないが自分の容姿が良い方だという自覚があった。
プライドも何もかも捨てた莉々の行動。
自分で最低なことをしているという自覚は当然ある。それも今は考えない。後悔は生き残ってからいくらでもすればいい。死んだら後悔もできないのだから。
「わかった、いいよ」
莉々が下着だけになったところで男は口を開いた。
「本当、ですか?」
「ああ、……さて」
男は立ち上がり莉々に近づく。そして莉々の顔の方に手を伸ばす。
何をされる覚悟はあった。それでも無意識に体は身構えてしまう。
男は莉々の髪をかきあげ青痣を見た。そしてすぐに手をひっこめた。
「あと三日ってところ?」
「は、はい。それぐらいです」
青痣を確認しただけだと知ると莉々はほっとした。
「じゃあ、取りあえずそこに座って」
男が指差したのは一人掛けのチェア。
男はすぐに莉々をどうこうするつもりはないようだったが、一旦服を着ていいかとはさすがに言いだせなかった。
莉々は言われた通り座った。
「さて……」
男は徐に莉々の持っていたローップを拾うと、それで莉々の体を椅子に縛り付けはじめた。
好きなようにしろ、そう言った手前、莉々なされるがままにされていた。瞬く間に手足が動かせない状態になった。
何をされる覚悟はあった。ただしそれは想像の範疇でだ。もうすでに想像の域を出かかり、莉々は次第に恐怖に駆られた。
その恐怖が嫌な方向ばかりに思考を向かわせる。
このまま警察を呼ばれるのでは。遊ばれるだけで、後は死ぬまで放置させるのでは。仲間を呼んで大勢で……。莉々のたくましい想像力は膨れ上がり、優に覚悟の限界を突破した。
「ははっ、まったく。用意周到だねえ」
男は莉々の鞄を検め、注射器など採血用の道具を見つけて、笑った。
莉々はただ引きつった愛想笑いを返すだけだった。
「体重は?」
「あ、43キロです。今は、それより軽いかも、です」
「じゃあ、まあ1リットルか」
男は感染者に適合者の血液がどれだけ必要か熟知しているようだった。どうやら本当に血を恵んでくれるらしい様子に莉々は胸をなでおろした。
「暫く待ってて」
そう言うと男は莉々の道具で採血を始めた。
何のためらいもなく針を腕に突き刺し、すぐに血管を見つける男の所作はどこか手慣れていた。
莉々は体を椅子に縛り付けられたまま男の様子をじっと見守っていた。三十分、一時間はたっただろか、部屋には時計が無いので時間が分からない。兎に角、採血作業は終わった。
容器になみなみと溜まっている血液。赤というよりは黒に近いその色に莉々は反射的に目を背けた。スプラッターなどはあまり得意でないということをそのとき思い出した。
血と言えば、錆びた鉄のような匂い。ところがなんだ、この鼻孔を刺激する甘く心地よい香りは。
その香りは男の手にある血液から漂っていることに気付いた。
舐めたい!
飲みたい!
匂いを嗅いだだけでそう思わせる魅力が男の血液にはあった。
莉々は思わず生唾を飲んだ。
「いいか」男の声に莉々は血液から注意をそらす。「この1リットル強の血液、辛いかもしれないが一気に飲み干せ」
莉々は無言で頷く。
男は莉々の口元に血液の入った容器を沿える。
口の中に流れ込む血液。血液特有の鉄の味などしない。味わったこともない美味。形容しがたい心地のよい口当たりの良い甘さ。そして、この上ない幸福感と高揚感。
莉々の理性は一瞬で消え去り、個乗ったのは知恵の欲求だけだった。
もっと、もっと!
途中でやめろという方が無理だった。
1リットル以上ものあった血液が瞬く間に莉々の口に飲み込まれていく。三十秒もかからず、息継ぎすることもなく莉々は全て飲み干した。
「え、終わり?」
莉々は空になった容器を目にし、絶望的な表情を浮かべる。
もはや、全身を縛られているこの状況、BBウィルス、この一月の事など忘れて、ただただもっと血が欲しい。莉々の頭にはそれしかなかった。
「お願い、もっとちょうだい。あとちょっと、ねえ?」
うわごとのように莉々は呟く。
男は猿ぐつわを莉々に噛ませ喋れないようにした。