希望
BBウィルスを発症してから半月が経過した。経過してしまった。
やけどの痕は綺麗に完治してしまった。
それでもまだ絆創膏は貼り続けている。その下には化粧で模造したやけどの痕。しかし、それはおざなりなもので、近くで見られたらすぐに見破られてしまう代物だった。
そろそろ怪しまれているかもしれない。
幸か不幸か、莉々は学校では一人だった。付き合いは全て断り、話しかけられても感染者であることがばれやしないかと、すぐに理由を付けて逃げ出していた。
これでよかったのだろうか、と莉々は少し後悔した。
生きることを諦めたわけではない。しかし、希望が見えなかった。調べれば調べるほど、適合者、準適合者の血液の入手の難しさが分かってきた。
駆りに一億あったとしても、入手できる保証などない。それなのにお金もない、コネもない、ただの女子高生が自力で入手しようなど、どだい無理なことだ。
「こんなことなら――」
それ以上は考えてはいけないと思った。
これまでの半月だってけして無駄じゃない。得られたのは知識だけだが、情報なくしては何も始まらない。そうだ、まだ半月あるのだ。諦めるのは早い。
そう言い聞かせても、空しく響くだけで莉々の心は動かない。その日は何もする気が起きず、帰宅するとひたすらテレビを眺めていた。
思えばテレビを見たのも久しぶりだった。いつもなら声をあげて笑うバラエティ番組も、涙ぐむ恋愛ドラマも、どれも白々しく感じられた。どうして今までこんなものを好き好んでみていたのだろうと思うぐらい、くだらなく思えた。
チャンネルをひたすら変える。グルメ番組を見ても食欲は湧かない。世界の情勢などどうでもいい、自分のことだけで精いっぱいだ。気にいる番組はなかったが、それでもテレビを流し続ける。
静寂に耐えられなかった。
しかし、実際に人と向き合うのは怖かった。
両親とでさえ、最近では顔を合わせるのは夕食時のみで、それもほとんど会話もなく、食べ終えるとすぐに部屋に引きこもった。
いつもならすぐに情報収集を開始するが、何もやる気が起きず、耳にイヤホンを突っ込んでベッドにだいぶする。
好きだった曲も、今聴くとどこか白々しい。
愛、希望、使い古された前向きなフレーズが莉々を苛立たせた。
今まで、くだらない人生を送ってきたのだと気付かされた。ただただ消費されるだけのものにしか触れてこなかった。本当に素晴らしい何か、それが何かはわからないが、それを知らないことだけは分かった。
もし、生きながらえることができたら、本物に触れよう。そう微かに思った。
ただ、今だけは静寂を紛らわすだけに、くだらない愛に耳を傾けた。
翌日、目が覚めたら正午をゆうに過ぎていた。十二時間以上寝ていたことになる。
今日は休日だ。
莉々は趣味らしい趣味はなかった。
家でだらだらするか、友達と街をぶらぶらするかの二択だった。
昨日に引き続き、今日も何の気力もわいてこなかった。それでも何とかベッドから起き上がり、ラップトップを立ち上げる。
莉々は徐に手を止めた。
いつまでこんなことを続けているのか。調べものばかりで実際に行動を起こしたことはなかった。いつまでもパソコンに向かっているだけでは何も始まらない。何か行動しなければ。
しかし何を?
寝起きの濁った思考では、何も思い浮かばない。
それでも、家にいるだけでは何も始まらない。外に出よう、そう決意して支度を始めた。
目立たない服に身を包み、キャップを目深にかぶった出で立ちで莉々は街に繰り出した。
喫茶店に入り、遅い朝食、兼昼食を摂る。ガラス張りの席に陣取り、過ぎゆく人々を観察する。適合者を探してはみるが、もちろん見分けなどつかない。感染者と違い、適合者は身体的特徴は皆無なので、見ただけで見分けるなど不可能だ。
適合者を見つけ出せるのは感染者のみだ。だが、血を舐めるまでは分からない。やはり一人一人、襲い、切りつけ、血を舐めるしかないのだろうか。
そういえば、適合者の血液はその味だけでなく、匂いも甘い香りが漂うという。血は全身を巡るもの、適合者自身からも血液の匂いがもれるのではないか。
人の匂いを嗅ぐだけなら、そう、人ごみの中でならそれほど出来ないこともない。
人ごみ、満員電車、駅。
莉々は次の行き先を駅に定めた。
休日の駅前は人でごったかえしていた。昼過ぎのこの時間の電車はまだ人と人が触れ合うほどの混みはなかった。ラッシュは夕方の帰宅時だろう。
人の多い場所を歩き回った。嗅覚に神経を集中させ、特異な匂いはないかと鼻をひくつかせるが、感じることができたのはサラリーマンの汗臭い匂いや、香水、コロンの匂いだけ。
やはり、視覚などと違い、普段あまり使わない感覚は弱い。
目を閉じ、耳をふさぐ。
気休めの行為はそれほど効果はなかった。
歩き疲れ、夕方のラッシュまで駅構内の喫茶店で休もうと駅に入った。
ちょうど電車が着いたのか、多くの人が駅に溢れていた。すれ違う人々に怪しまれない程度に近づき匂いを嗅ぐ。結果は変わらない。
小さな悲鳴が、聴こえたような気がした。
やがてそれはカノンのように連鎖し、構内に響き渡るほどの悲鳴に変わった。
阿鼻叫喚、人々が逃げ惑う。
莉々は人々が駆ける反対方向へ歩みを進めた。
その男は直ぐに目に飛び込んできた。ナイフ片手に持った血だらけの男。ただ、そのナイフは人を傷つけるものではなく、自らを切りつけるためのものだった。自らから噴き出たその鮮血を通りゆく人々になすりつけている。
狙う場所は主に、顔。口、目、鼻。粘液に触れればそれだけで感染だ。そう、目の下を確かめなくても分かる。こんなことをしでかすのは感染者しかいない。
パトカーのサイレンの音が近づいてきた。
その音に男も気づいた。気づけば数メートルもしない距離に男は近づいてきていた。それでも莉々はその場を動かなかった。恐怖はなかった。ずっと見ていたがナイフでは直接人を傷付けてはいないし、莉々にとって彼の血は恐怖ではない。莉々もまた、既に感染者なのだから。
莉々は目が離せなかった。初めて会った自分以外の感染者に。その末路に。
走りまわり、多く血を流した男は疲労困憊だった。警察が近くまで着ていることを知り、最後を悟ったようだ。男は最後に自らの頸動脈を掻っ切り、駅構内に噴水のような血を降らせた。
見事な最後だ、と莉々は感動すら覚えた。
血に見とれている間に男は倒れ、そのまま動かなくなった。彼の今回のこの騒動のせいでいったい何人が感染してしまっただろうか。十人、それ以上だろう。ざまあみろ、とまではさすがに思えなかったが、莉々は目の前で倒れている男を非難することができなかった。
彼の気持ちが分かってしまうのだ。この苦しみを、理不尽な思いを味わってみろと、共感してしまっている自分に気付いた。
「こっちです!」
その声と同時に多くの足跡が響いてきた。
莉々は我に返り、急いでその場を去ろうとした。周りに知り合いはいないかと、辺りを見回したとき、莉々とオナ以上に倒れた男をじっと眺めている男に気がついた。まだ若い、莉々と同じかそれ以上。男の白いシャツには先ほどの男のものと思える血が斑点にはって飛び散っている。また、頬にも血液が伝っていた。
「えっ!」
男の頬に飛んでいた血液はゆっくりと口の端まで伝っていく。もう少しで口に入ってしまうという所で男は気づき、指で血をすくい取った。
そして、ソースでも舐め摂るように、指に着いたその血を舐めた。BBウィルスが血液感染するということは周知の事実だ。小学生でも知っている。
感染者?
一瞬そう思ったが、男の右目の下に痣は見当たらない。遠目に確認しただけなので化粧品で誤魔化しているかまではわからない。それでも、莉々には確信めいたものがあった。
適合者!
警察に気付いた男がその場を離れる。
これはもう最初で最後のチャンスだ。莉々は男のあとをそっとつけた。