BBウィルス
それは突然やってくる。
朝、洗面台の前に立ち、自分の顔を覗き込んだ莉々はそれに気付いた。
右目の下、一見して黒子にしかみえない小さな丸い痣。黒子と違い、目を凝らして見ると少し青みがかっている。
「えっ――」
それを目にした莉々は言葉を失い、数瞬の間頭が真っ白になった。
寝起きの頭徐々に血が巡り、状況を理解した莉々は口元を押さえ、叫びたい衝動を必死にこらえる。
「嘘、嘘、嘘……」
何かの見間違いだ。そう思いたく何度も顔を洗い、右目の下を執拗に擦る。しかし、何度鏡を覗き込んでも現実は変わらない。その青い痣は依然として右目の下に存在している。
どうしよう、どうしよう!
パニックになりまともな思考が働かない。目じりにはいつのまにか大粒の涙が溜まっている。
隠さないと!
始めに浮かんだのはそのことだった。しかし、時間がない。もう、学校へ行かなければいけない。
学校を休む、という選択肢はそのとき考え付かなかった。ただ痣を隠すことだけに思考を支配されていた。
目に留まったヘアアイロン。
莉々はヘアアイロンの電源を入れ、いつも通り髪をとかす。そうすることで少しでも落ち着こうと考えた。
そして、百八十度を超える高温のヘアアイロンの切っ先を、青い傷跡付近の肌に押し当てる。
「痛っ――」
タオルを噛み、激痛に必死に耐える。
その痛みから、冷や汗が体中から噴き出す。
鏡を見ると、青い痣はうまく隠された。そのかわりにその何倍もの痛々しいやけど痕が残った。
もしかしたら痕が残るかもしれない。莉々は女性として、その痛々しいやけど痕に絶望感を覚えた。
だけど、仕方ないのだ。
「莉々、どうしたの、それ?」
学校で莉々の友人の由利が、右目の下の大きな絆創膏に気付いた。
「ちょっとアイロンで。手元がくるちゃって」
莉々はわざと絆創膏を少しはがし、やけどの痕を見せつけた。
「うわあ、大丈夫? 痕残ったりしない?」
「うん……、学校終わったら病院行ってみる」
もちろん病院になど行けるわけがない。プロの目にかかれば見抜かれるかもわからない。それに、この絆創膏は一月はもってもらわなければいけなかった。
莉々は意識して陰鬱な表情を作り一日を過ごした。気を張っていないと泣きだし、発狂しそうだったからだ。出会う友人、知人達は朝のアイロンでの傷痕のことを心配し、いたわってくれた。
昼休みになると昼食も足らずにそっと教室を出た。図書館へ駆けて行き、すぐさまパソコンが設置された席に座った。
すぐさまブラウザを立ち上げ『BBウィルス』と検索した。
BBウィルス、それが莉々の右目の下に出来た痣の正体である。
Blues Ball Virus
これはあくまで俗称の一つである。他にも『一月死病』、『青黒子ウィルス』、『青月の絶望』、などいくつかあるが。BBウィルスが一般的だ。
今や、誰もがこの病を知っている。ガン以上に有名になり、はじめて発症が確認されてから六年がたった今でもメディアを賑わしている。
そして六年たった今でもこの病のことはほとんど解明されていない。治療法など先の先、BBウィルスが発症する理由すら未だにわかっていない。
この六年で分かった事といえば、ほんの僅か。しかもそのほとんどが結果論であり、なぜそうなのかは依然として解明されない。
まず、発症者は右目の下に青い黒子の様な痣が出来る。これが名前の由来だ。そして、夜空に浮かぶ月のようにその痣は満ち欠けするのである。それは良く見ないと分からないのだが、元の青より少し淡い青になる。始めの状態はいわば新月であり、徐々に明るい色になっていく。半月で満月となり、そして徐々に元の濃い青の色に戻っていく。
そして二度目の新月で死に至る。
一月死病とも言われている所以であり、誤差一日の範囲で発症者は死に至る。その致死率は百パーセント。
莉々は舌打ちした。
簡単に調べただけではニュースで毎日のように流れている情報となんらかわらない。
他には、感染者は世界各地にいること。年齢、地域による偏りは見られない。また、この病は血液感染する。しかし、感染者の血液にはなんら異常は見られない。まったくもって奇怪、難解な病である。
致死率百パーセント。その絶望的な数字に発症者は気が狂いそうな毎日を送ることとなる。その絶望に耐えきれず発症三日で自殺した者もいる。
そして、四年前の『青い絶望事件』。発症者の三十代男性、二度目の新月の一日前に彼は行動を起こした。その日は休日、人で賑わう駅前に彼は趣味のクレー射撃で使っていたショットガンを携えていた。わずか三十分間の凶行。彼は手当たり次第にショットガンで通行人を撃っていった。そして最後の一発で彼は自らの頭部を打ち抜いた。至近距離からの散弾は彼の頭部を跡形もなく吹き飛ばした。犠牲者は彼を含め八十六人。この事件は日本を震撼させた。
同じような事件は同時多発的に世界各国でもおきた。まるで百匹目の猿のように。
「……違う」
莉々は思い出した。
BBウィルスの歴史を辿っている場合ではないのだ。
読んでいた記事をとばし、目的の情報を探す。
「あった……」
ロバート・パウエル。
アメリカ人の彼がBBウィルスから生還した初めての人間と言われている。このニュースが報じられたのは三年前のことである。
彼、ロバートもまた発症し、迫り来る死に耐えきれなくなり、凶行に及んだ。ほとんどの感染者が無差別に殺戮を行ったのに対し、彼は少し特殊だった。ターゲットを自分と同じ年齢の者だけと決めていた。当時ロバートは二十一歳、ターゲットは自然と同じ大学に通う友人、知人に限られていった。ロバートは少しでも多くを道連れにしようと計画的に犯行に及んだ。そのため慎重になり、一日に一人ないし二人しか道連れにできなかった。
ロバートが十人目を手にかけたとき、とうとうその凶行は明るみに出た。彼はマークされていたのである。逮捕されたとき、ロバートの口周りは真っ赤に染まっていた。殺した相手の血をすすっていたのである。
ロバートは既に気がふれたかまともに会話ができる状態ではなかった。ただ『血をくれ、血をくれ』とわめくばかりで、その様子は麻薬中毒者を思わせたという。
右目下の痣から彼が感染者だということが分かり、満ち欠けから残り一日か二日の命のはずだった。しかし彼は生き続けた。痣はまた同じように欠け始めた。しかし、今度は元の肌の色に欠けていったのである。痣が消え去るころ、ロバートもまた正気に戻った。
のちに彼はこう語った。
三人目に手をかけた女性から何やら甘い香りがしてきた。どうやらその香りは彼女の血液からきているらしい。試しに舐めてみると生まれて初めて味わう美味だった。それから、血への衝動が強くなった。渇いて、渇いて仕方がなかった。もはやBBウィルスの事など頭から離れていた。血を求めるために殺していたのだ。ただ、三人目の彼女の血は極上のもので、他は普通だった、と。
十人も殺せば当然、死刑だが、彼は今も生かされ続け、研究の対象となっている。
ロバートの被害にあった人たちには申し訳ないが、彼のおかげで『適合者』なる存在が認められた。
ようやく、莉々が求めていた情報に行き着いたが、ちょうど昼休みが終わり断念した。
莉々は放課後が来るのを今か今かと待ちわびた。
授業などもちろん頭に入らない。スマホで先ほどの続きを調べようとも思ったが周りと教師の視線を気にして、ただただ陰鬱な表情を保つのみだった。
何で私だけ。
莉々はそう思わずにはいられなかった。
何で私がこんな目に。
他のクラスメイト達は安穏と退屈そうに授業を受けているのに、何故自分はこんな絶望を味わなければいけないのか。
昨日まで自分も同じ立場だったことを棚に上げ、行き場の無い怒りをただただ内に溜めた。
BBウィルスの発症原因はわからない。現時点では単に運が悪いとしか言いようがない。
運、そんな一言では到底納得できるものではない
莉々はやりきれない思いを必死に抑えつけた。
そして、放課後。莉々は一直線に家路に着いた。
まだ家に誰もいないことを確認すると、部屋のベッドに飛び込みむせび泣いた。
声を荒げ、涙を止めどなく流し、ただただ泣いた。慟哭といっていいそれは三十分も続いた。声は枯れ、脱水症状になるのではないかというぐらい涙を流した。
そして、徐に起き上がると自らの頬を叩いて気を引き締めた。
「生きてやる」
猶予は一月しかない。この間に何をするか。
諦めて残りの人生を謳歌するか?
そんな達観はまだ人生を十七年しか歩んでいない莉々には無理だった。
だから莉々は決意した。泣くのは、嘆くのはこれで最後だと。絶対に生きてやる。足掻いて、足掻いて、最後の一日まで生きる道を見つけようと。例え、他の誰かを犠牲にすることがあっても。
迷ってはいられない、莉々はすぐさま行動を起こした。まずは、情報収集からだ。
ラップトップを立ち上げ昼間の続きを調べは閉めた。
読んでくださりありがとうございます(-"-)