7話
それは、気づかないくらいのほんの小さなほころびだったのかもしれない。
いや、実は気づいていたのに見えないふりをして、ずっと目をそらしていたかったのかもしれない。
世の中のあちこちでは、本格的な発情期が始まってきているようだ。
父さんはわたしが外に出ることがないようにピリピリしていて、何度も「外に出てはいけない」と念をおしてくる。
父さんが何をそんなに気にしているのか母さんに聞いたら、「ミモザの可愛い姿を男たちに見せたくないのよ」と微笑んで言われた。
父さん、娘可愛さにわたしを箱入り娘にしたいのかね。
とんだ親馬鹿だなぁ、と思いつつ嬉しくもあった。
そんな窮屈な発情期であったが、わたしはそこまで不満でもなかった。
だって、ヒューイ君が毎日のように顔を見せに来てくれるからだ。
春の発情期が近付く前は、道端であってもそこまで話をすることはなかった。
だけどこの閉じこもり期間はたくさんの話をして、同性の男の子と気がねなく過ごす楽しい時間を過ごせている。
まったく、発情期さまさまだね!
お、そんなことを考えていると、わたしの犬耳が待ち人の足音を感知した。
春の暖かさが本格的になってくるにつれて、わたしの嗅覚や聴覚は鋭くなってきている。
勝手に揺れる尻尾をなだめながら、彼が付く前に玄関の扉の前に行くのだった。
「こんにちは、……おぅ。最近いつも玄関の前にいないか?」
「まさか、たまたまだよ」
答えるわたしの鼻にふんわりとした野花の香りと土や泥の匂い、そしてヒューイ君の汗交じりの匂いが届く。
生命力あふれる匂いだなぁ、と、胸いっぱいに吸い込んだ。
白くて小さな花を受け取り、早速花瓶にいけるためにうきうきと台所に向かう。
ふと後ろを振り返ると、ヒューイ君が困ったように玄関で立ち尽くしていた。
「どうしたの? いつもみたいに入ってくればいいのに」
「いや、おばさんは?」
「母さんはちょっと近所に出かけてった。すぐに帰ってくると思うよ」
母さんに用事か? そう思って首を傾げると、ヒューイ君は頭をかいた。
「んん、なら俺帰るわ」
「え、何で? 話をしにきてくれたんじゃないの? 母さんに用事ならここで待ってればいいじゃない!」
退屈なわたしの楽しみはヒューイ君と話をすることだけなのに、なんで帰っちゃうの!
わたしが不満を隠さずに強く言いつのると、ヒューイ君は小さい子をなだめるような笑顔を浮かべた。
「一応俺は男でミモザは女の子だからさ、二人きりでいるのはおじさんにもおばさんにも悪いよ」
「何で! 母さんも父さんもヒューイ君が遊びにきてくれるのを喜んでるし、そもそもヒューイ君はわたしのことを妹みたいに思ってるって言ってくれたじゃない!」
ヒューイ君はわたしの言葉に何か言おうとしてためらい、そして口を閉じた。
そのまま黙りこくってしばらく悩んでいたようだが、このままでは話が進まないと諦めたようにため息をもらした。
「そろそろ言わなきゃと思ってたんだけど……」
だけどその一言だけでまた言葉が途切れる。
目線を彷徨わせながらもなかなか切り出さないヒューイ君に、わたしはいらいらし始める。
さっきまでうきうきしていたのに、何でわたしこんなに苛立ってるんだろう……。
「……あのな。もう村にも、本格的に……発情期がきはじめてるんだ」
「だからわたしは外に出れなくて、ヒューイ君に遊びに来てくれるようにお願いしたんじゃんない」
「そうなんだけど……」
「なに? 何かいつものヒューイ君らしくないよ……」
わたしに遠慮した遠回しな、だけど確かな拒絶を感じ取って自然と眉間に皺が寄っていく。
だけどヒューイ君はさっきからずっとわたしを見ようとしない。
それがまた気に障る。
「あのな、最近なんだけど、兆候が出始めたんだ」
「何の!」
つい口調が強くなる。いやだ、こんな責める口調で言いたいわけじゃないのに……。
「俺、発情期がきそうなんだ」
頭の中がまっしろになった。
わたしは発情期に怯えつつ、そんなものどこか違う世界の話だと思っていた。
そう思っていたことに気付かされた。
ヒューイ君にも発情期がきて、誰かとつがうなんて全く考えていなかった……!
「発情期が始まりかけてる男が女の子と一緒にいたら、その……いろいろとまずいんだ」
ヒューイ君の言ってることが頭の中に入らない。
「だから、明日からは来ない」
「……わたしみたいな耳も尻尾も隠せないようなおこちゃまじゃなくて、大人の女の人と発情期を一緒に過ごしたいんだね……」
嫌だ、なんでこんな言葉を言ってるの!? 違う、そんなことを言いたいんじゃない!
「そうじゃない! ミモザは発情期の男を見たことがあるだろ? 気が立ってて、感情的で、余裕のない顔で! 俺、ミモザを怖がらせたくないんだ」
「わたしのためとか言うのやめてよ! もう聞きたくない! わたしのこと妹みたいに思ってるから頼ってくれていいって言ったのに! あれも全部うそだったんだ!!」
感情にまかせて怒鳴った後。
ヒューイ君を見上げて、冷水を浴びたように血の気がさっとひいた。
彼は苦しそうな、泣きそうな顔をしていた。
初めて見る顔だった。
わたしが彼を傷つけた。
「……本当にごめん」
ヒューイ君は苦しそうにそれだけ言うと、振り返ることもなく去って行ってしまった。
「……うぅ……、ひぃ、ひぅううううううう……っ!!」
ヒューイ君を傷つけてしまった激しい後悔に苛まされ、わたしは玄関に崩れ落ちて泣いた。
どれほど玄関でうずくまって泣いていたのか。
帰ってきた母さんの驚いた声で、時間が立っていたことに気がついた。
「ミモザ、どうしたの?」
うずくまって嗚咽をもらすわたしの背中をさすりながら、母さんが心配そうに聞いてくる。
ずるいわたしは母さんに、ヒューイ君を傷つけたことを話せなかった。
だから、ヒューイ君は明日から来ないということだけどうにか嗚咽の間に伝えると、そのまま自分の部屋に逃げ込んだ。
背中に感じる母さんのわたしを心配してくれる視線が、とても痛くて悲しかった。
ベッドの上で膝をかかえて座り、目頭を膝に押しつける。
じわじわと涙がこぼれてはスカートに染み込んで、膝が暖かくなったり冷えたりを繰り返す。
最低だ。
わたしに泣く権利なんてない。
哀しそうなヒューイ君の顔が目に焼き付いて離れない。
なのにヒューイ君はわたしに謝った。
優しい彼を傷つけた。
「うぅうううううううううう……」
頭の中がぐるぐる渦巻いてぐちゃぐちゃになって、もう訳がわからない。
わたしの全てが涙になって流れて出てしまって、この世から消えてしまいたい。
ベッドの上で声を押し殺して泣き続けた。
夕日が窓から部屋に差し込む頃には、すでに涙も枯れ果てていた。
わたしはあいかわらずベッドの上から動かず、壁に頭を預けて腫れぼったい目で呆然としていた。
「…ヒューイ君は……」
耳に飛び込んできた単語に、犬耳が勝手にピクリと反応する。
ヒューイ君という言葉を無意識に拾ってしまう自分の耳がうらめしい。
耳を澄ますと、家の外でおばさんと母さんが声をひそめて話しているのが聞こえた。
母さんとおばさんは、お互いに謝りあっていた。
ヒューイ君はあの後、家に帰ってからずっとふさぎ込んで一言も話をしようとしないらしい。
ヒューイ君の傷ついた顔が浮かび、わたしのせいで今もあんな顔をしているのかと思うと胸がぎゅっと苦しくなった。
「今まで発情期の兆候なんて一切なかったから、今度の春もこないだろうって思ってたんだよ。こんなに一気にくるなんて本人も思ってなかったみたいでね……。私もうかつだった」
「いえ、ヒューイ君の優しさに甘えてしまった私の責任だわ……。ミモザが喜んでいるのがうれしくって、つい……。わたしがしっかりしていれば、ミモザもヒューイ君も傷つけることはなかった……。本当に、ダメな親だわ……」
そのまま言葉がつまってしまった母さんを、おばさんが慰めている声が聞こえて耳を塞いだ。
ごめんなさい。わたしのわがままのせいで皆を傷つけた。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………。
壊れたおもちゃのように謝罪の言葉をつぶやき続ける。
やがて疲れて意識を失うように眠りにつくまで、聞く相手もないそれはひたすら止まることはなかった。