Epilogue
「すみません。ティオゲネス=ウェザリーの面会なんですけど」
「はい。では、ここへ名前を記入して下さい」
言われるまま、面会人名前記入欄に名前を記入すると、受付の女性は、ティオゲネスの病室を教えてくれた。
女性に礼を述べると、エレンはティオゲネスの入院する205号室へ足を向ける。
あれから、三日が経っていた。
あの後、ラッセルの要請で手配されたヘリコプターでCUIO本部へ赴くと、ヘリポートまで本部長のクラウディオ=アズナヴール=エッカルトが出迎えてくれた。
エッカルト本部長は、六十半ば過ぎと言っていたが(因みに、CUIOの定年は七十だそうだ)、そうは見えなかった。
正円に近い輪郭に、生きた年数を思わせる深い皺が刻まれ、髪には白いものが混ざり始めてはいた。しかし、背筋はピンと伸び、中年太りとは程遠いすっきりとしなやかな体躯を持った、『矍鑠』という言葉を絵に描いたような男性だった。その彼は、颯爽と歩いて、若者と変わらない所作でエレン達を本部の建物内へと誘ってくれた。
案内された一室で、話を聞く体勢になった時、ヘリコプターの中で応急手当を終えていたティオゲネスが、ボトムのポケットの中から取り出したものを見て、エレンはただ口を開けることしかできなかった。
切れた鎖の先に下がっていたのは、紛れもなく、あの黒ずくめの男に踏み潰された長方形の銀細工と同じものだったのだ。しかも、多少黒ずんだ汚れはあったが、無傷だった。
どうして持っているんだ、いやそもそも何でこれが無事なのかと訊ねたら、『こっちが本物だから』という答えがあっさり返ってきた。
『ネットカフェに行った時、コピー取っといたんだよ。どうなるか分かんねーのに、誰が取引に本物使うかっつーの』
ベッと舌を出して『こんくらい世界の常識だ』と言われた時には、エレンは脱力し、周囲で聞いていた大人達は苦笑いしていた。
こういう事態を見越していたのかと、もう訊く気にはなれなかった。
中身を確認するに当たって、エレンはティオゲネスと一緒に一度部屋の外へ出されてしまった。子供の教育に宜しくないものが入っているかも知れないという配慮だったらしい。
エレンは確かに一貫して中を見ていないが、ティオゲネスに関しては既に遅い、というのはエレンは言わないでおいた。
とにかく衝撃的なものが保存されていたらしく、何人かの刑事達が慌ただしく本部を出発して行った。
『これで君達は無罪放免です。お礼とお詫びは、また日を改めてとさせて貰えるかな』
好々爺(というにはまだ若いが)という言葉そのままのエッカルト長官に微笑まれると、恐らく皆『はい』としか言えなくなるだろう。
例に漏れず、エレンは『はい』と答えた。その横で、うっかり負傷した肩を竦めたティオゲネスは、走った痛みに思い切り顔を顰め、慌てたエッカルト長官とラッセルに病院へ直行させられたのだった。
***
「しっかし、西の大陸の中央部ってのは景気がいいんだな」
ティオゲネスは、あの後放り込まれた病院の病室を改めて見回しながら、皮肉るように言った。
室内はフローリングの床で、二十メートル四方ほどの広さがあった。入院ベッドとは思えないような高級な(少なくともティオゲネスの目には高級そうに映った)寝台が、部屋の壁際中央に設えられている。ベッドの足下には、これまた病院のものとは思えない(というより金持ち個人邸宅にある来客用としか言いようのない)椅子と丸い洒落たテーブルが置かれている。
「病室っつーより、ホテルだよな。中央部の病院ってみんなこうなのか」
「そういう訳じゃねぇけど、まあ、都市部だからな」
勤務の合間を縫って様子を見にきたラッセルが、苦笑した。彼は、暫くの間(端的に言えばティオゲネスの傷が完治するまで)、本部に臨時勤務することになっている。
調子さえ取り戻せば、すっかり元通りの皮肉屋になったティオゲネスに、ラッセルはホッとしたような落胆したような、複雑な表情を浮かべた。
「それで、具合はどうなんだ」
「どうって言われてもな……一日二日で完治すりゃ、世話ねぇけど」
ティオゲネスは、いつもの調子で肩を竦め掛けて、連動するように走る痛みに、やはり顔を顰める。
弾は両方とも抜けていて、面倒なことにはならなかったのが、不幸中の幸いだった。というのは、治療した医師に聞かされたことだが。
「まあ、ゆっくり養生しろや。経費はCUIOで持ってくれるみたいだからな」
「自分達の悪事隠蔽する為に、ヒトにありもしない殺害容疑吹っ掛けたんだから、そんくらいトーゼンだろ。これでも足りねぇくらいなのに。誰だよ、そんな恩着せがましいコト言った奴」
整った顔が、年に似合わない冷えた目つきでラッセルを見たので、彼は再度苦笑する羽目になった。
「CUIO全部って聞こえるよーな言い方は止してくれよ。ガーティン支部限定だし、警官は皆が皆そんなコトする人間ばっかじゃねぇしな」
「けっ、どーだか。俺は今でも基本的に他人は信用してねぇから、そこまで楽観できねぇな」
ラッセルは、困ったように眉根を寄せて溜息を吐いたが、リアクションを口にはしなかった。こういうことは本人の心の問題だから、他人が何を言っても無駄だと分かっているのだろう。
「それより、あのUSBメモリの中にあったテキストデータの中身って何だった訳?」
その言葉に、ラッセルはギョッと目を剥いた。
「おまっ……! もしかして動画の方も観たのか?」
声をひそめて質すラッセルに、ティオゲネスはあっさりと頷いた。
「最後までは観てねーけどな、観てて気持ちイイもんじゃねぇから。にしても、お上品な場所で育ったオトナは青少年の健全な育成がどうとか言うけどよ。あのくらいでビビってたら、俺今頃ここにいないぜ? あんただってそうだろ」
「そりゃ……まあな」
北の大陸<ユスティディア>は、別名『犯罪大陸』。北部に行くほど治安が悪く、生きる為には何をしても罪にならない世界だ。多分、現在進行形で。
そこで生まれ育ったラッセルは勿論、碌でもない組織で育ったティオゲネスも、『教育に悪いから』と目と耳を塞いでくれる大人の手などない幼少期を過ごしている。
「巷で出回ってる下衆みてぇなエロ本とかビデオとか、あのUSBメモリに入ってた動画データみたいなのは確かに教育上よろしくねぇから、エレンには観せなかったけどな。あんなの観て喜んでるのは、てめぇの欲望の為だけにあーいうコトするケダモノ以下の人種だって、割り切ってても胸くそ悪いし」
「……お前、ホントに十四歳か?」
綺麗な顔と年齢の割に、想像もつかないほど言うことが過激なのは相変わらずだ。
「さあな。組織に教えられた年だからホントのとこは分かんねぇけど。誕生日も怪しいモンだぜ」
「それはないと思うぜ。組織がどう言ったかは知らねぇけど、CUIOが保護してから、出生届けとか戸籍とか調べまくったからな。まだ分からねぇ子もいるみたいだけど、お前の場合は間違いない」
そう答えると、何を考えているか分からない無表情な翡翠の瞳が、ラッセルを静かに見据えた。
「まあ、それはいいけど。テキストデータの中身」
「あー……」
意図的に話を逸らしたつもりはなかったが、言うべきか否か、ラッセルは逡巡した。こういうことには基本的に守秘義務というものがついて回る。容疑者の容疑が決定的でもだ。
「こんだけヒト振り回しといて、内緒です、はねーよな。俺、下手したら死んでたんだぜ?」
一瞬前まで無表情だった顔が、満面の笑みを浮かべる。相手が男だと承知していなかったら、グラッときそうな可愛らしさだが、本性を知っているだけに却って恐ろしい。
「まあいいけどな、別に。教えてくんなきゃ自力でどうにかするし」
ティオゲネスの言う『自力でどうにかする』とは、CUIOのデータバンクにハッキングを掛けるとか、物理的に捜査本部に殴り込むとか、そういう意味合いだろう。
その辺にいる、彼と同じ年頃の少年と違って、やると言ったら実行可能な力も備えているのだから始末が悪い。
「……分かったよ。そんかし、誰にも言うなよ」
「言うような相手いねぇよ」
「エレンちゃんにもだぞ」
「言ってどーすんだよ、あの脳味噌万年花畑みてーな女に」
脳味噌万年花畑。
その喩えのあまりの絶妙さに、ラッセルは一瞬言葉を失った。
「……ま、確かにな」
ふわふわとした外見と違わぬ中身の少女を思い浮かべて、溜息を吐く。
「一応訊くけど、中身、見るには見たのか?」
「ああ」
「どこまで見た?」
「全部。ただ、何の名前の羅列か、意味が分からなかったんでな」
「ありゃ、ガーティン支部の中でユスティディアの人身売買組織摘発に関わった人間のリストだ。摘発に行って、揉み消しに関わった刑事のな」
「揉み消し?」
「本来ならそこで摘発すべき組織をわざと見逃したんだ。見返りに、売買された『商品』を横流しさせてて……まあ、やってたコトっつったら、言うのも口が腐りそうなコトなんだけど」
「動画観たから、何してたか大体見当付いてる」
わざわざ口腐らすこたねーよ、と言って、ティオゲネスは手を振った。
となると、『商品』というのは、人身売買の被害者のことだろう。
「あの動画の男も、名前までは言えねーけど、ガーティン支部の上層部の刑事だ。繋がってたマフィアも芋蔓で捕まえたんだから、ま、結果オーライってとこだな」
「繋がってたマフィア?」
「ああ。おれが助けに入った時にお前がドンパチやってた怖いお兄様方がそれだ」
「はー……なるほどね」
黒ずくめの男とその仲間が、何故あのUSBを欲しがっていたのか、これで納得がいった。
「じゃあ、ついでだからもう一つ聞かせて欲しいんだけど」
「……まだあんのか」
ラッセルは、もう勘弁して、と言いたげにがっくりと肩を落としたが、ティオゲネスは構わなかった。
「リタのコト」
「リタのコト?」
鸚鵡返しに反問されて、ティオゲネスは一つ頷く。
「いくら本部から出向してたからって、アイツも平刑事だろ? 殺された理由も判らなかったのに、殺害事件の解決がいきなり本部長から最優先扱いってトコが、ちょっと腑に落ちないんだよな」
まあ、おかげで助かったけど、と続けると、やはりラッセルは難しい顔をして黙り込んだ。
ティオゲネスも催促はせずに、ただ黙ってラッセルの琥珀の瞳を見つめる。
話してくれる気はないかと思ったが、睨み合いはほぼ数瞬で片が付いた。
「おれから聞いたって絶っ対言うなよ」
「了解」
答えは短かったが、それが真面目な返答だと、ラッセルには分かったらしい。一つ息を吐いて、口を開いた。
「アイツは、本部長の直令でガーティン支部に出向してたんだ」
「そうなのか?」
「ああ。ガーティン支部は、立地がユスティディアに一番近いからな。守りは最善でないといけないし、コトによっちゃあ、ユスティディアの犯罪にも目配りしないといけない、ちょっと難しいポジションにある支部だ。リタの他にも、本部からの監視として潜り込んでる刑事は結構いるらしい。おれも初めて聞いたけどな」
ラッセルは、一度呼吸を置くように言葉を切って、先を続ける。
「本部からの監視で出向している刑事は、みんな例外なく定期報告が義務になってるらしい。定期報告は三日に一度。直前の報告から一ヶ月間が空いた時は、他の刑事に状況を訊くコトになってたみたいだな。ただ、本部からの出向って言っても、どの刑事が本部から来たかはお互い判らないようになってるから、リタ以外に他の出向刑事が消えたとしても、無事な他の刑事から連絡がいくコトはないみたいだけど」
「本部からの監視が厳しいのはガーティンだけなのか?」
「いや、特にガーティンだけ厳しくしてるってコトはないと思うぞ。ただ、あそこは先代の支部長時代からちょっときな臭いところだったし、山脈挟んでて目が届きにくいから注意してるだけだと思う」
「先代の支部長?」
「ああ。例の揉み消し、どうも先代時代からじゃねぇかって言われてたんだけど、決定的な証拠がなくてな。結果的に野放し状態だったけど、これから直接手が入れられるって、本部長も喜んでた」
「ふーん……」
本部長が喜ぼうとどうしようと、その辺はティオゲネスには関係ないし、興味もない。それを隠しもせずに、溜息とも相槌ともつかない声を出すと、ラッセルも苦笑して息を吐いた。
「で、知りたいコトはそれで全部か?」
「ああ、大体はな」
そうか、と言って、ラッセルはふと気になったことを口に乗せる。
「ところで、退院はいつになりそうなんだ?」
「分かんね。俺医者じゃねーし。ところで、エレンの奴、どうしてんだ?」
そのタイミングで、ノックの音が室内へ割り込んだ。
「そのエレンだけど。具合はいいみたいね」
入室を許可するよりも先に、スライド式の扉が開く。
「よぉ、エレンちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは、ラスさん」
部屋の主さながらにエレンを迎えるラッセルに、エレンも笑顔で挨拶を返している。一体二人はいつの間にこんなに親しくなったのだろうか。
それが何だか面白くなくて、知らず知らずの内に仏頂面になっていたらしい。
「こ・こ。皺寄ってるわよ」
エレンが、自身の眉間を指して言った。
「うるせーな。元々寄ってんだよ。で、今どこに泊まってるって?」
「CUIO直轄のホテルにお世話になってるの。ここでもいいって言ったんだけどね。広さにすごく余裕あるし」
「仮にも年頃の異性が同室で宿泊するのは、流石にマズイだろ」
「おいおい、あんたも『青少年の健全な教育を~』なんて言うお上品な連中の仲間入りか?」
「何の話?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げるエレンに、何でもねーよとすげなく言ったティオゲネスは、早々に話題を転じた。
「それより、あれから神父様と連絡取れたのか?」
「うん、昨日やっとね。教会にも物騒な刑事さんが大勢押し掛けて来て、結構大変だったみたい」
お陰様でエレンとティオゲネスの行方の心配はしなくて良かった代わりに、二人の嫌疑が無事晴れるよう祈り倒していたらしい。
「あーあ、大事だな。神父様の白髪も増やしてくれちゃって。CUIO、いくら賠償払ってくれるかなぁ、こりゃ」
ティオゲネスが、皮肉混じりにラッセルを見上げると、ラッセルは二人から視線を逸らしながら早々に扉付近へ避難していた。
「その辺は、本部長にでも直訴してくれ。おれは歯牙ない下っ端だからな。じゃっ」
すたこらと逃げ出すラッセルの背を見送って、顔を見合わせた二人は、申し合わせたように小さく笑った。
「……何か、買い出しに教会出たのがもうずっと前のことみたいね」
教会を出た時は、本当にただ買い出しに町へ行っただけの筈だったのだ。その日常のひとこまが、一人の女性との邂逅で非日常に転ずるなんて、想像もしていなかった。
「だな。ホンット、疲れた」
ティオゲネスも、背もたれ状に起こしてあったベッドに背を預けて息を吐く。
自分ではそのつもりはなかったのに、ひどく身体が鈍っていたようだ。これが平和ボケって奴か、とやはりズレた反省をしている辺りは、まだまだ現役と言えなくはないのだろうが。
「あ、そうそう、入院長引くようだったら、神父様がお見舞いに来てくれるって」
来客用のテーブルに、手に持っていた荷物を置きながらそう告げたエレンに、ティオゲネスが「げ」と言って顔を顰める。
「お互いに疲れるだけだからヤメロって言っとけよ、うっとーしい。その内帰ったらイヤでもツラ付き合わせんのに」
途端、エレンは目を見開いて、次の言葉を呑み込んだ。
「何だよ」
「ううん。何でもない」
これだけ教会から遠く離れても、ティオゲネスが既にあの教会を『自分の帰る場所』として認識してくれていることが、エレンには嬉しかった。
けれど、口に出せば、彼が忽ちヘソを曲げて捻くれてしまうのも分かっていたので、笑って首を振った。
変な奴、と呟いて、柔らかそうな枕に背を埋める少年に、クッキー買ってきたけど食べる? と訊ねれば、「代金はCUIOにつけとけよ」とやや過激な言葉が返ってくる。
今は少し『我が家』から離れているけれど、ようやく日常が戻ってきた。
もうこんな刺激的で、寿命が縮むような冒険は懲り懲りだ、と思いながら、エレンは病室に備え付けのポットから、ティーポットへ湯を注ぎ入れる。
今回の件で彼女が学んだ教訓は一つだった。
人生、平凡が一番だと。