Epilogue
男は、まんじりともせずに、そのホテルで夜を明かした。
彼女に指定したのとは、別のホテルだ。別とは言っても、そう離れていない。窓の外を見れば、ウルバノ・ホテルの出入り口がはっきりと見える。
通話を終えてから、今この時間までが、男には永遠にも等しく感じられた。だが、相手を急かしても、自分の気持ちが急いても、どうにもならないこともある。
例えば、彼女の家からウルバノ・ホテルまでの距離がそうだ。
いくら早くと脅したとしても、その距離だけは気持ちでは縮まらない。
男は、チラと端末に目を落とした。
手早く操作すると、今相手の端末がどこにあるかを記した地図が表示される。あれから、この携帯端末に、GPS機能を搭載したソフトをダウンロードしておいたのだ。
彼女は、すぐ傍まで来ていた。
ようやくか。
安堵と喜びが、複雑に絡み合う。金さえ受け取れれば、あとは知ったことではない。
立ち上がって、そっとカーテンの隙間から、外を覗き見る。
だが、彼女の姿はまだ見えない。
カーテンを閉めて、窓に背を向けた時、端末が着信を告げた。
急いで、変声機を端末の通話口へ装着し、画面をタップする。
「……着いたのか」
それにしては、姿が見えないようだが。という台詞は、どうにか呑み込む。
少しでも、向こうにこちらの情報を与えるようなことをしてはならない。じきに、金が手に入る。そうすれば、全てが終わるのだ。
自身を落ち着かせようと、向こうへ気取られないように深呼吸する。直後、ノックの音が割り込んだ。
覚えず、舌打ちが漏れる。
ドアに、起こさないで欲しい旨のプレートを下げておいたのに、気の利かないスタッフがいたものだ。チェック・アウトの時に、苦情を申し立ててやる、と思いつつ、通話を続けようとする。
しかし、尚もノックの音が続いたので、「悪いが、こちらからかけ直す」と一言告げて、一度通信を切った。
チェーン・ロックを外し、相手に配慮することなく、いきなり内開きの扉を引く。途端、ドアが強く押された。
予期せぬその動きに、たたらを踏んだ男は、踏ん張りきれずにひっくり返った。
「なっ、何だ!?」
喚きながら、どうにか肘を突いて、上体だけを起こす。
「はーい、こちらCUIO本部の刑事でっす」
敬礼の形に手を額に当てたのは、金茶色の髪を持つ青年だった。年の頃は、二十代半ばだろうか。
(いや、それよりも)
「警察、だと!?」
まさか、あの女が通報したのか。本当に娘の命が惜しくないのだろうか。今度会ったら、本当に娘を殺してやろうか、といったことが、一気に頭を回る。
「はい、もうちょっと下がってね、ここ通り道なんで」
素早く部屋へ入り込んだ青年が、倒れたまま起き上がれずにいる男の脇に手を入れ、床の上を引きずっていく。もっとも、ホテルの部屋の床は絨毯なので、倒れ込んだ時もダメージはさして大きくなかったが。
「ちょっ、ちょっ、いったい私が何をしたと」
「まさか……」
その時、小さく漏れた声に、男は青年へ向けていた視線を振り向けた。
室内には、他に二人の人物が入ってきている。十代と思しき美貌の“少女”と、男もよく見知った女性だ。
「嘘でしょ? 本当に……あなたなの?」
見慣れた、整った顔が、泣き出しそうに歪んでいる。
咄嗟に、言葉が出なかった。
「本当に、あなたがヴィエノを誘拐したの? ――トレント」
こんな時、自分のような執事は、何と言えばいいのだろう。
『申し訳ございません、奥様』だろうか。それとも、悪ぶって開き直るのが正解か。
どちらとも決め兼ねた男――ヴァリス家の執事をしていた、カスト=トレントは、その場では一言も発することなく、うなだれるしかなかった。
***
目の前が、薄暗くなっていく。
どう頑張って上下の瞼に力を入れていても、勝てないのが『睡魔』というモノだ。
自然、頭も下がって身体から力が抜けていく。しかし、背後から漏れた殺気に、ティオゲネスはハッと目を見開いた。
反射的に、机を勢いよく押して、椅子ごと回転する。伸びたままの足に、必然、背後にいた人物は勢いよく足を払われる羽目になった。
「わっ!」
不意打ちをまともに食らったラッセルは、そのまま横倒しにひっくり返る。その手には、振り上げていたであろう分厚くて重そうなファイルがあった。
「……ったく、あんたも懲りねえな」
あふ、と眠気の名残をかみ殺しながら、ラッセルを見下ろす。
「……お互い様だろが。ヒトがせっかくこないだの誘拐事件の顛末知らせに来たのに、性懲りもなく居眠りこきやがって……」
いってぇ、と呟きつつ、ラッセルがノロノロと身体を起こした。
「顛末ったって、途中までは俺も一緒だったんだから、知ってるよ」
んー、と上に伸びをしながら、ティオゲネスは五日前のことを思い返した。
あの日、被害者女性――リネーア=ヴァリスに確認し、動画の一番最後に現れた男の身元を割り出したティオゲネス達は、男、すなわちカスト=トレントの端末から発する電波を拾って、彼の居場所を突き止めた。
トレントは、ウルバノ・ホテルの筋向かいにあるホテルの、三〇三号室にいた。
彼の端末には変声機が取り付けられており、彼が脅迫者には間違いなさそうだった。
娘はどこだ、と泣いて取り乱すリネーアに、トレントがあっさりと吐露したところによれば、リネーアの娘・ヴィエノは、リネーアの別居中の夫の家にいるらしかった。
「――で、そのあとリネーアが更に泣き叫び始めて話にならなくなったから、そこから先は知らねぇけど」
もう一つあくびを漏らしながら、ティオゲネスは側頭部に髪を掻き上げる。
「だろうと思って。そっからあとの話だよ」
その頃には、ラッセルも完全に起き上がっていた。取り落としたファイルを、空いたスペースに置いて、ティオゲネスを振り向く。
「あのあと、アレクが付き添って、ミズ・ヴァリスの家に戻ったトコまでは、知ってるよな?」
「ああ」
「よくよく聞いてみたら、ヴァリス夫妻は離婚調停中だったらしい」
夫妻は別居中で、一人娘・ヴィエノの親権問題で揉めていたようだ。
「ミズのほうは、まだ落ち着いて話ができなそうだったから、あとはほとんど執事のトレントに聞いた話なんだけど――」
その日、いつものようにリネーアの使いで、ヴィエノを保育所へ迎えに行くと、そこにリネーアの夫・アランがいた。
ヴィエノ本人に、自分か妻かを決めて貰うから、一度ヴィエノを引き取ると、強引にアランはヴィエノを連れ去ったらしい。
「で、ちょうど違法カジノでスって、借金返済に困ってたトレントは、誘拐劇を思い付いたんだとさ」
当分、ヴィエノはリネーアの元へは戻れない。同じことなら、金を受け取ったあと、アランをどうにか説得すればいいと思っていたと言う。
「バッカじゃねぇの?」
整い過ぎた容貌を、思う様歪めて吐き捨てると、ラッセルも同感だとばかりに肩を竦めた。
「んで? 今そのヴィエノはどうしてるって?」
「アランに連れて行かれて、一時は機嫌よくしてたらしいけど、夜になって『ママがいない、ママはどこ』って、半狂乱で泣き喚きながらアランが使ってるホテル中さまよってたって話だぜ」
ティオゲネスは、思わず吹き出した。
「そりゃ、ママの圧勝だな」
「ああ。弁護士呼ぶまでもなく、パパも泣く泣く諦めたってよ。月一で面会するとか、そういう条件付きで、らしいけど」
苦笑いで、再度肩を竦めたラッセルは、コーヒーメーカーの置いてあるチェストへ歩を進める。
紙コップ二杯分、コーヒーを淹れると、一つをティオゲネスに差し出した。
「ホレ、これでも飲んで、眠気飛ばせ。その内ファイルに頭カチ割られたくなかったらな」
「攻撃の瞬間、殺気漏らしてるようじゃ、俺の頭が割れるのは当分先だな」
ニヤリと唇の端をつり上げて、ティオゲネスは椅子から立ち上がる。
「ああ、そうだ。コレ」
コーヒーを受け取ると、ラッセルが思い出したように、チェストの引き出しを漁った。封筒を一通取り出して、それもティオゲネスに渡す。
「お前の初任給だ」
「んな、大層なモンじゃねぇだろ。要は初バイト代ってコトで――」
チェストの上に、一旦コーヒーを置いて、封を切る。
明細を確認して、ティオゲネスは首を傾げた。
「……なあ、ラス」
「ん?」
「俺の時給って、七グロスだったよな」
ちなみに、一グロスあれば、雑貨小売店で売っている、ちょっとリッチなパンが一つ買える。
「ああ。それで話ついた筈だったな」
「俺の計算が間違ってなきゃ、先月は無休だったし、総額で六百七十二グロス貰える筈なんだけど」
明細によると、五百五十九グロスしか振り込まれていないことになっている。
「まあ、差額十三グロスで目くじら立てんのもどうかとは思うけどよ。税金とか引かれたりしてんの?」
「こないだのキーボードの新調代、天引きしといて貰った」
「はあ!?」
あっさり言われて、顎が外れそうになった。
「何で俺のバイト代から差っ引かれてんだよ!」
「ぶっ壊れた原因がお前の居眠りだって、ちゃーんと上に報告しといたから」
「ざっけんな、ラス! てめ、そこ動くんじゃねぇぞ!」
言うと同時に、愛用の鋼線を仕込みブレスレットから引っ張り出す。が、既にそこにラッセルはいない。
「差額十三グロスで目くじら立てんなよ~」
「うるせぇ、待ちやがれ!!」
軽く手を振って通路へ出たラッセルを追って、ティオゲネスは、猛然と事務室を飛び出した。
ついでながら付け加えると、ラッセルの給料からも、キーボード新調代が天引きされていたらしい。が、それはまた、別の話である。
【Case closed!】
©️和倉 眞吹2018




