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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.1―Chasing Evidence―
7/72

Chase.6 ヴァレンクヴィストの攻防【前編】

「ごちそうさまでした」

 誰にともなくそう言って、エレンは手を合わせた。

 扉が閉じたままの貨車内は薄暗い。

 月が落ちて、陽が昇る合間の時間帯の為か、扉の隙間から射し込む程、外には光がないらしい。

 エレンが、手元が見えないと食べ辛いと漏らしたので、ティオゲネスは持っていた小型パソコンの電源を入れてやった。インターネットと繋がっていたら間違ってもそんな危ない真似はできないが、公衆電話から通話する際のスクランブルを掛ける為だけに購入したものだから、このパソコンはどこへも繋がっていない。電源を入れたからといって、こちらの居場所を特定される気遣いはなかった。

 昨日軽食屋でテイクアウトした弁当を食べる前に、時間を確認する意味合いもあって電源を入れたパソコン画面は、近くで見ると鋭いが、貨車内全体から見ると淡い光源となって辺りを浮き上がらせている。現在、午前六時半。ちょうどいい頃合いだ。

 二人の前には、食べ物だけがなくなった容器が転がっている。

 ティオゲネスは、用が済んでゴミくずと化した入れ物を手際よく集める。ビニール袋に詰めてその口を縛ると、車両の扉をそっと細く開けて、外へと放り投げた。

「あーっっ! あんた、何てコトすんのよっっ!!」

 食べて少し元気を取り戻したのか、普段からどんな不正も許さないエレンがいつも通り怒鳴り声を上げる。

「今更これっくらいで目くじら立てんなよ。俺達、とっくに前科持ちなんだぜ?」

 それでなくとも、今の状況下では、用の済んだものをいちいち持って歩く余裕はない。常ならばティオゲネスもこんなことはしないが、それはエレンには通用しないらしい。

「あんたはそれでよくても、あたしはイヤよっっ!! 大体ねぇ、あそこで教会にまっすぐ戻ってれば、あれもこれもしなくて済んだのにっっ!!」

「あれもこれもって、万引きとかスリとかか?」

「いやーっ、言わないで言わないで、バカバカバカ!」

 エレンが目をギュッときつく瞑って耳を塞ぎ、ぶんぶんと頭を振る。櫛を通していない柔らかな髪が、頭の動きに従って勢いよく乱れた。

「ああ、無賃乗車もか。でも、お前止めなかったよな」

 自己嫌悪でパニックしているエレンに、お構いなくティオゲネスは追い打ちを掛ける。

「だからっ……」

「教会まで一度引き返せばやらずに済んだって? で、清い身のまま天国に行けたのにってか?」

「それは」

「お前と俺だけが天国に行くならまだしもな。教会にいる他のガキとか神父様とか、全部巻き添えにしたかった訳だ。成る程、お優しいな、エレンさんは」

 もっとも、死後の世界があるとすれば、自分が行くのは天国ではなく間違いなく地獄だろう。ふっと、自嘲の笑みが漏れたが、それをエレンがどう取ったかは分からなかった。

 尚も反論を試みようと開かれたらしい彼女の唇は、結局一言も発することなく閉じられる。

「んじゃ、行くか」

 それを見澄まして、ティオゲネスは溜息混じりに口を開く。

「行くって、どこに」

「今、ちょうど六時半。で、この列車は、予定通りなら七時には州境に着く。州境で何があるかくらい、お前でも知ってるよな?」

「……検問でしょ」

 バカにしないでよ、と言わんばかりに唇を尖らせたエレンに、苦笑しながら「ご名答」と返した。

「で、貨車内に隠れててもいいけど、見つかる危険の方が高い。後三十分もすれば州境に着く訳だが……お前、飛び降りる自信あるか?」

「飛び降りる?」

 って、どこから? と訊きたげに眉根を寄せたエレンは、そこから、と言う代わりにティオゲネスが指で示す方を目で追った。

 先刻、食料の空を放り捨てて、開けたままになっていた扉の向こうに、貨物列車と同じ速度で、飛ぶように景色が後ろへ走り去っていく。

「まさか、と思うけど……そこ?」

「うん、そこ」

 やや血の気の引いた顔で訊ねるエレンに、ティオゲネスは真顔で頷いた。

「一応訊くけど、列車が止まってから、よね?」

「そこまでお上品な真似する余裕があると思うか? でも、安心しろよ。スローダウンした頃合いを狙う予定だから」

 安心できるか。

 エレンは顔全体でそう訴えていたが、口はパクパクと陸に打ち上げられた魚よろしく空気を呑むばかりで言葉は出てこない。

「それもまあ、様子を見てだけどな」

「……様子って?」

 ようやっと口に乗った声は、微かに震えている。

「列車が停まる場所に拠るってコトだよ」

 もし、検問の為に停車する場所が、ソテタと同じく専門の貨車ターミナルなら、列車の屋根にへばりついてやり過ごすという方法もある。これなら、無理に降りる必要はないし、一番面倒がない。

 しかし普通の、人を運ぶ為の列車が停まるホームが近くにある場所へ停車するなら、また事情が違ってくる。屋根にへばりついていたとしても、場所によってはホームにいる人間に見えてしまう。その場合は、中に隠れても外に隠れても、危険度はさして変わらないということになる。

「ちなみに、その場合はどうするの?」

 訊きたくないが、確認しない訳にもいかない。

 そんな表情で、エレンが恐る恐る問い質す。

「その場合は、連結部から列車の下に(もぐ)る」

 あっさり言い切ったティオゲネスに、エレンの口は今度こそ阿呆のように開いた。いや、顎が落ちたと言った方が正しいだろうか。

 今は色の判別できない若草色の大きな目を、まん丸に見開いている彼女の胸中を表現するなら、正しく開いた口が塞がらないといったところだろう。

「潜るって……潜るって?」

「そのまんま文字通りだよ。その時はお望み通り停まった後列車の下に隠れるだけだし、お前にもそんなに難しくない。走ってる車両の下にへばりつくのはちょっと技術が要るけどな」

 走る車両の下にへばりつくのに必要な技術が『ちょっと』なもんか。

 またしても顔全部でそう言いながらも、陸へ打ち上げられた魚に逆戻りしたエレンの口から、それが言葉になることはなかった。

 茫然自失となったエレンの胸中を置き去りに、ティオゲネスはさっさとパソコンの電源を落として、荷物を纏める。身支度を終えてもまだ、頭真っ白という具合に目を白黒させているエレンの目の前で、ティオゲネスは両手を一つ打ち鳴らした。

 パチンという乾いた音と共に意識を取り戻したかのように、エレンが若草色の瞳を瞬く。

「呆けてる場合じゃねぇぞ。下手したら一悶着やらかさないといけないかも知れねーんだからな。ちゃんと気をしっかり持って、俺の傍離れるなよ」

 オーケー? と確認を取るように指を彼女の鼻先に突き付けると、エレンは本当に分かっているのかいないのか、人形のようにコクコクと頷いた。


***


 重い音を立てて、列車がホームに滑り込む。

 ホームと言っても、貨物列車から降りる人間はいない為、実際にその車体はホームに隣接してはいない。

 通常ホームから線路にして三本分、目算五十メートル前後は離れているだろうか。

 人間を乗せる方のメストル行き宿泊列車は、五分ほど前に出発していた。

 但し、例の証人の男性だけはその場に残っていた。所謂、『不慮の事故(財布をスられたの意)』で、所持金を全て失っていたからだ。

 本来の目的地を訊ねたところ、実はこの一つ手前の駅で降りる予定だったらしい。そこに自宅があるのだという。

 財布の件は、所轄の交番に届け出て貰うことにして、その自宅まではこの場にいる刑事が送り届けようということになっていた。

「じゃあ、ギブソン刑事。後は頼んだぞ」

「え。おれですか?」

 ぼんやりと貨物列車を眺めていたラッセルは、ベルリヒンゲン警部に呼ばれて、我に返った。

「何だ、聞いていなかったのか。君がその男性を送ってくれ給え。我々は一足先にメストルへ向かう。タクシー代は後で経費で落とすようにしておくから」

「……はぁ」

 ホームに入った貨物車に気を取られている隙に、話は纏まっていたらしい。それにしても、自分に矛先が向くとは思っていなかった。

 できることなら、「いや、おれもメストルに向かいます」と言いたかったが、悲しいかな、ラッセルの正式な地位はあまり高くはない。それ以前に、事態は既にラッセル一人の意思でどうにかなるところを通り越している。

 勿論、ティオゲネス達は間違いなく巻き込まれただけだということを知ってはいるが、それを口にしたところで、下手をすれば自分の動きも封じられてしまうだろう。そうなったら、ティオゲネス達を助ける者がいなくなってしまう。

 それに、考えようによっては好機かも知れない。

 男性を送り届けるのが自分一人ということは、その後自分の周囲には誰もいなくなる。今ギールグット支部にいるヒューン警部には、自分とティオゲネスの関わりを知られているが、今ここにいるのは、そうした事情は知らない者ばかりだ。黙っていれば、一人で行動する機会が得られる。

 分かりました、と何食わぬ顔で口にしようとした瞬間、ベルリヒンゲン警部の携帯端末が着信を告げた。

「はい、もしもし。……はい、ベルリヒンゲンです。……え? 貨物車ですか? ええ、たった今ホームに入ったところのようですが」

 何だ? とラッセルは眉根を寄せた。

 あのー、そろそろ帰りたいんですけど、と後ろから話しかけてくる中年男性の声は見事にラッセルの耳を素通りしていく。

「はい。……はい、分かりました。では、発見次第ご連絡致します。では」

 ベルリヒンゲンが通話を切ったタイミングで、「どうかしたんですか」と声を掛けてみる。

 常時ならば、余計な口を挟むなと返されるところだろうが、今は指名手配犯追跡の最中だ。捜査に加わる者が状況把握の為に質問したとて、咎められることはない。

 ベルリヒンゲンは、ラッセルに視線を投げると、一緒に来いと身振りで示した。

 言われるとおり(中年男性を置き去りに)ベルリヒンゲンの後をついて行くと、彼は、その場にいた全員に一カ所に集まるよう指示した。同じことを、二度も三度も言うのは面倒だからだろう。

「たった今、ガーティン支部副支部長、ヒューン警部から連絡が入った。先刻、手配中の少年少女があの貨物車内にいるらしいとタレコミがあったらしいので、検問を我々で行うことになった。鉄道会社には既にヒューン警部から話が通っているそうだ」

「情報元は確かなんでしょうか?」

 集まった刑事の一人が、挙手して問う。

「ガーティン支部長のホイル警部が、確かな筋から情報を得たとのことだ。急いで向かうぞ」

 全員が了解を斉唱して、ホームから飛び降りる。

 支部長の情報となれば、細かい情報源は些細なことなのかも知れない。とにかく全員が、上の情報――手配中の少年少女の二人が、リタ=クラーク刑事を殺して逃げたという情報を信じて疑っていないのだ。

 勿論、本当の凶悪犯を追う捜査なら、上からの情報を疑っていたらそもそも仕事にならないのは確かだ。しかし、今回の場合、どうしてもラッセルの中では個人的な感情が先行してしまっているのは否めない。盲信するのも問題だと考えてしまうのだ。

 とにかく、自分が誰よりも先に二人を確保してここから離脱すれば、対策は立てられる。それで降格、減俸、最悪クビになったとしても、仕方がない。

 そう一人腹を括ると、ラッセルも、傍目には周囲の仲間と同じように、ホームから線路へ飛び降りた。


***


「うっわ、最悪……」

 ティオゲネスは思わず、その整った顔を歪めてボソリと呟いた。

 州境のヴァレンクヴィストへ着く数分前に、ティオゲネスはまず連結部分へ出て、駅の様子を伺った。駅のすぐ傍に停まるのかそうでないのかは、遠目でも見れば分かる。

 ティオゲネスとエレンがいたのは、最後尾の車両だったので、そこまで移動する必要はなかった。が、明らかにこれは駅が近い。

 隠れ場所としては、その時点で屋根の上は捨てて、完全に停車するのを待って列車の下に隠れる方を選ばざるを得なかった。

 停車するや否や、後方の観音開きになっている扉を身体が通り抜けられる程度に細く開き、そっと降りる。

 エレンをホームから遠い方へ押しやって、自分は死角になる場所からホームの方を伺った。

 ホームのすぐ傍には、既に列車はおらず、今停まっているのはこの貨物車だけだ。

 そして、ちょうど今、ホームにいた大勢の男達が、バラバラとホームから直接線路へ降り立ち近付いてくる。断定はできないが、十中八九、CUIOの刑事達だろう。

 ナバスクエス駅で手入れがあって、そのすぐ後、あんな集団が貨物車にまでわざわざ寄って来るのを見れば、CUIOを連想しない方がどうかしている。

 ティオゲネスは舌打ちした。すぐにここを離脱する必要がある。

 エレンに静かにしているよう身振りで示すと、反対側の様子を伺う。しかし、遅かった。ホーム側から刑事達が駆けてくるのを知らないらしい、通常勤務の検査官が最後尾へ向けて歩いて来るところだった。

 恐らく彼は、ここに自分達がいるのも知らないだろう。

(どうする……)

 このまま当初予定通り、列車の下へ潜り込んで彼をやり過ごしてから逃げることも考えたが、すぐに打ち消した。そうしたところで、彼をやり過ごすことはできても、刑事達に取り押さえられるのでは話にならない。

「行くぞ」

「え、でも」

 人がいるのはエレンにも判ったのか、反駁し掛けるが躊躇っている余裕はない。相手が彼一人なら、振り切れるかも知れないのだ。

「いいから、走れ!」

 エレンに鋭く囁くと、ティオゲネスは彼女の手を引いて隠れ場所を飛び出した。

「ええっ!?」

 びっくりして叫んだのは、エレンではなく、一人で歩いていた検査官だった。

「ちょっ、おい! 何だお前ら! 待てーっ!!」

 待てと言われて待つバカがいるか。口には出さずにリアクションしながら、ティオゲネスはエレンの手を引いて走る。

 その叫びに、周囲にいる刑事達が呼び寄せられる前に少しでも遠くへ行くべく、列車のすぐ傍に設置されたトタン製の塀の外へ出た。

 そこは、通常の貨車ターミナルなのか、線路が何重にも交差していたが、今は一台も列車が停まっていない。遮蔽のない場所を約五十メートル、殆どエレンの最高速度で走り抜け、外界とホーム敷地内を分ける金網に、先に彼女を押し上げた。エレンが、苦労しながら金網をよじ登り、その頂を跨いだのを確認すると、背後へ視線を向ける。

 案の定、先刻の検査官の叫びを聞き付けたのか、ホームから降りてきた刑事が揃って駆けて来る。

 ティオゲネスは軽く膝を曲げると勢いよく地を蹴って、三メートルはあろうかという金網の頂に飛び付いた。そのまま足を金網に付けることなく、片手で自分の身体を引き上げると、易々と金網を飛び越え、危なげなく敷地の外へ着地する。先に登り始めていた筈のエレンは、この時になってようやく地面に足を着けた。

 さっと左右へ視線を走らせ、車が来ていないことを確認した上で、歩道を降りて、車道へ飛び出す。その先はすぐ繁華街だった。

「止まれーっ! 止まらんと撃つぞ!!」

 お決まりの文句を叫びながら、刑事達も恐らく金網をよじ登っているであろう音がガシャガシャと響く。

 パン、という軽い破裂音がして、エレンが小さな悲鳴と共に身を竦めたが、ティオゲネスは気にしなかった。

 拳銃の有効射程、つまり殺傷能力がある射程は、せいぜい三、四十メートルだ。フェンスから五十メートル以上離れた今、当たったとしても深刻なダメージを喰らう気遣いはなかった。

 早朝七時。ちょうど、通勤ラッシュの時間帯の所為か、駅の裏面へ出たにも関わらず、駅周辺は人と車で混雑していた。雑多な人混みに紛れれば、コンパスには向こうに利があるとはいえ、体力面では全員が二十代かそれ以上の年齢の刑事達よりも、十代のティオゲネス達の方が明らかに有利だ。周囲の無関係な通行人を巻き込む危険を考えれば、拳銃を無闇にぶっ放すこともできないだろう。その辺は、下手にならず者が相手よりも気楽だった。

 けれども、刑事達が「そこの二人は凶悪犯だ、捕まえてくれ!」と言い出す前に、人混みを抜ける必要もあった。

 組織在籍時代、殆どを北の大陸<ユスティディア>最前線で過ごしたティオゲネスにとって、今在住のテア・ヴィレヂ周辺以外は正直未知の世界だ。組織の本拠は西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>なのに何とも奇妙な話だが、要するに、ギゼレ・エレ・マグリブに関しては殆ど土地勘がない。その点はエレンにも期待できない。最初から、してはいないが。

 ティオゲネスは、手を引いたエレンを時折振り返りながら、器用に人混みを縫って進んだ。建物が林立している歩道に沿って、人にぶつからないように足を緩める。

 それが災いしたのかは判らない。

 だが、とにかく先に歩いているティオゲネスがそこを通り過ぎた時、確かに怪しい人影はなかった。

 これだけ人がいれば怪しいかどうかなんて判別不能のようにも思えるが、そこは経験がものを言う。特にティオゲネスの警戒網に引っかかるものはなかったと思ったのに、アーチ状の狭い出入り口のある路地の前を通り過ぎるか過ぎないかの瞬間、エレンの手を引いていた方の腕が不自然に後ろへ引かれた。振り返ると同時に、エレンが短い悲鳴を上げて路地へ引きずり込まれる。

「エレン!」

 しっかり彼女の手を掴んでいたが、エレンの身体はそれ以上の力で引っ張られ、路地へ消えた。

 舌打ちと共に追うと、路地奥の曲がり角へ、彼女のスカートの裾が消える。素早く追い縋ったティオゲネスの足は、

「そこまでだ!」

 という声に急停止せざるを得なかった。

 そこは、人二人がようやくすれ違えるくらいの狭い路地になっており、よほどのことでもないと通行人も通りそうにないような場所だった。

 ティオゲネスの三メートルほど先で、エレンが見知らぬ男に背後から抱えられ、ナイフを突き付けられている。

「声を立てるなよ、小僧。妙な真似すると、小娘が死ぬぜ」

 下卑た薄笑いを浮かべるその男は、どう考えてもまともな世界に生きる人間ではない。所謂裏社会で生計を立てる種類のそれであることを、ティオゲネスは何となく察した。

 CUIOの人間では有り得ない。CUIOなら、そもそもエレンを人質に何かを要求することはないだろう。時間差が生じたとしても、二人共捕らえて、場合によっては口を封じる筈だ。

「それで? おっさん、誰」

「教える義務はねぇな。証拠をこっちへ寄越しな」

「証拠?」

 ティオゲネスは眉根を寄せた。

 今思い当たる『証拠』と言われれば、例のUSBメモリしかないが、これを欲しがる人間がCUIOの――あの画像に映っている、恐らくCUIO所属の男以外にいるとは思えない。だとすれば、目の前の男は一体、どういう素性の者なのか。

「何の話をされてるのか、俺にはさっぱり分からねぇんだけど。まず、そいつ放してくれる?」

「シラを切り通すなら構わない。小娘が死ぬだけだ」

「おっさん、バカじゃねぇの?」

 エレンの方は、首筋にヒタと刃物を当てられている為、青くなって震えながら、会話の行方をハラハラしながら見守る(聞き守る?)という器用な表情で、その場にいながら完全に蚊帳の外だった。

「人質ってのは、無事だから意味があるんだよ。目の前で殺されて、俺があんたの要求素直に聞くと思ってる?」

「このガキっ……!」

 一方、神経を上手に逆撫でされた男は、ナイフを持つ手に力を込めるが、ティオゲネスは構わず先を続けた。

「大体さぁ、おっさんの要求の内容からして意味不明なワケ。だったら、取引自体成立しないぜ? 人間の言語から勉強し直して来いよ」

 いちいち的を射た言い分に、男は顔を真っ赤にし、エレンは人質に取られた立場でありながら吹き出しそうになるのを懸命に堪えている表情になった。

「あ、これも人間の話す言葉だよなぁ……意味分かってる? 俺の言うコトが分かったら、そいつ放してやってくれない?」

「調子に乗るなよ、クソガキ!」

 男が、獰猛な獣が唸るような声音で凄む。

 普通に育った普通の少年なら、その声音と一言だけで震え上がって押し黙るだろう。もしくは、必死で命乞いをするに違いなかった。現に、エレンは先刻まで吹き出すのを堪えるような顔をしていたくせに、今はまた顔色がうっすらと青ざめている。が、組織在籍中、常時流れ弾が飛び交うような場所で育ったティオゲネスには、言葉と声色だけの威嚇など痛くも痒くもない。

 ここまでのやり取りで、男の方も、ティオゲネスが見掛け通りのか弱い美少年でないことには気付いても良さそうなものだが、それで怯むと思っているところがまだ見た目に惑わされているらしい。

「オレはリタ=クラークって女からお前が預かったモンに用があるんだ。こう言えば分かるだろう」

 こいつもか。

 そう思ったが、ティオゲネスは、表面上は無表情で男を見返した。

「俺がリタって女の人から預かったモノがあるとして、だ。何でおっさんはそれに用があるワケ?」

「そこまで教える義務はねぇ。さあ、分かったらとっとと出しやがれ。さもねぇと」

 男は続きを言葉にはせずに、エレンの首筋にナイフを食い込ませて見せる。

 ティオゲネスは、やはり表情を変えずにそっと溜息を吐いた。殊更ゆっくりと腕を持ち上げて、首から下げたチェーンに指を触れる。

「ダメ……」

 エレンが、微かに首を振った。

「ダメよ、ティオ! その中身が何だか知らないけど、渡しちゃダメ! 渡したら、あの女性(ひと)が……!」

「エレン」

 スッと鋭いナイフを差し込むような声音で名を呼ぶと、エレンは言葉を呑んだ。

 エレンが声を出したことで、ナイフを持つ手に改めて力を込めた男の方も、微かに身体を震わせた。

「俺とそいつの取引だ。余計な口出ししねぇで黙ってろ」

 チャリ、と微かに鎖が擦れる音がして、ティオゲネスの衣服の内から、銀細工にも似た板状の飾りが現れる。

 それを手の中に握り締めて、ティオゲネスはその手にグッと力を込めた。

「エレンを、先に放せ」

 無駄とは思いつつそう言いながら、グイ、と握った手を前に引くと、鎖は音も立てずに引きちぎれた。

「証拠が先だよ。こっちに放りな」

 ナイフを改めてエレンの細い首筋に押し当てながら、男が余裕を取り戻そうとするかのような引きつった笑みを浮かべる。

 もう、繰り返さない。

 焦る意識に蓋をして、内心を表に出さないように努めながら、ティオゲネスは突破口を探す。

 目の前で拘束されているエレンの姿が、一瞬、あの日のアマーリアのそれとダブって見えた。

 二度と同じ後悔は繰り返さない。繰り返したく、ない。

 ティオゲネスは、掌に握り込んでいたUSBメモリを、鎖で下げるようにして一度手放す。そうして振り子のように揺らしながら、徐々に振り幅を大きくしていった。

「おい、小僧! ふざけてないで、早くそいつを寄越しやがれ!」

 いくら苛立っても、このUSBメモリが手に入るまでは、男はエレンに手を出さない筈だった。

 やがて、銀色の板は、鎖の先で風車が回るように円を描き始める。風切り音を立てて回転するそれが最高速度に達した瞬間、ティオゲネスは男の目を狙ってUSBメモリを鎖ごと放り投げた。

「何!?」

 遠心力を上乗せたUSBメモリは、相応の速度を以て、男の顔目掛けて一直線に飛んだ。

 男が何も策を講じなければ、目を直撃していただろう。

 男は反射的に、エレンを捕らえていない方の――ナイフを持った方の腕を振り回した。キンッ、という小さな金属音を立てて、ナイフとUSBメモリが衝突する。

 ティオゲネスは、USBメモリの鎖を手放した直後には、背面ウェストに差してあった銃を抜いていた。男との距離は約三メートル。充分に拳銃の射程距離だ。

 目前に猛スピードで迫るUSBメモリに気を取られた男の、振り回した手を狙って引き金を絞る。着弾を見届ける間も惜しく、同時に地面を蹴った。

 男が情けない悲鳴を上げて、撃たれた反動で後ろへ身体を傾がせる。エレンを捕らえていた男の腕の拘束が緩んだ。

 前に投げ出されたエレンの腕を、二人に肉薄していたティオゲネスの手が掴んで引き寄せる。彼女の身体を腕の中に抱き寄せながら、バランスを崩した男の足下を思い切り払った。

 男が地面に尻餅を着くのを待たずに、ティオゲネスはもう一度引き金を引いた。外しようのない距離から撃った弾は、男の胸部に着弾する。

 男から距離を取ろうと、エレンの身体ごと踵を返すが、次の一歩を踏み出せずにティオゲネスの身体はギクリと固まった。いつからそこにいたのか、一人の男が立っている。

 勿論、エレンを人質に取った男とは違う男だ。さっきまでエレンを抱きかかえていた男は、二発の銃弾を食らって地面で呻いている。

 背後に立っていたのは、全身黒ずくめの長身の男だった。オールバックの黒髪にサングラス。黒のインナーに黒のボトム、黒いコートという出で立ちで立っている男は、目の前にいるというのに気配一つ感じられない。今地面で呻いている男とは、明らかな力の差があるのが見ただけで分かる。

 そして、困ったことに、そのすぐ足下に、今さっき放り投げたUSBメモリが転がっているのだった。

 間違っても、「取らせて下さい」と言える雰囲気ではない。できることなら、すぐにも回れ右で一目散に逃げ出したい。

 立っているだけで無言の圧力を感じさせるその男は、足下に転がったUSBメモリを、無情にも足で踏み潰した。

「これで後は、貴様らを消すだけだな」

 オールバックの男の顔に、初めて表情らしきものが浮かぶ。冷たい、凍り付くような笑みだ。

「嘘っ、USBが……!」

「待った!」

 オールバックの足の下で粉々になったUSBメモリに、それでも飛び付こうとするエレンを、抱え込むようにして止める。

「だって、ティオ……!」

「悔しいがあれはもう諦めるしかない。それより、今は……」

 今は、どうやってこの場を切り抜けるかが問題だった。

 背後に、軽く視線を投げる。

 いつの間にか、その場には何人もの男達がティオゲネスとエレンを取り囲むようにして集まって来ていた。


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