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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.5―Hospital―
57/72

Hospital.3 暗雲

『あたし、あの人とキスしたわ。軽蔑でも何でも、好きにしなさいよ!』


 叩き付けるように言って、ティオゲネスの病室を飛び出したあの日。


 もう羞恥で死ねると思った。

 何よりも誰よりも、ティオゲネスに、ふしだらで、身持ちの悪い女だと思われるのが耐えられなかった。

 いくら今後逢うことがないと言っても、この先ずっと、彼にそんな女として記憶し続けられるのだ。

(どうしよう)

 足早に歩を進めても、一度決壊した涙腺は、中々元に戻らない。時折すれ違う人が、チラチラと視線を送ってくるが、全く気にならなかった。

(やっぱり、言うんじゃなかった)

 しかし、そう思う端から、たとえ言わなかったとしたら、という考えが頭を過ぎる。仮に、ずっと黙っていたとしても、以後、後ろめたい想いで彼と接することになるのは明白だった。

(じゃあ、どうすれば良かったのよ)

 逢わずにいても、“ああ、あの尻軽女ね”などと思われているかと思うと本当に死にたくなる。

(……もう、死んでもいいかも)

 この先、彼にはもう逢えない。そして、逢うことのない彼に、生涯軽蔑し続けられるかと思ったら、もう死んだ方がマシだ。

 エレンは、短絡的にそう決めてしまうと、さっさと屋上に向かった。

 死体の状態がどうであれ、一番手っ取り早い。飛ぶ瞬間は怖いかも知れないが、飛んでしまえば死ぬしかないのだ。この病院は八階建てだし、確実に躊躇う余裕もなく死ねるだろう。

 心残りは、自殺してしまうと天国には行けないだろうことだが、それも仕方がない。現世の方が辛いのだから。

 そして、亡くなった両親には本当に申し訳ないと思う。

 けれど、一度汚れたこの身では、生きていても辛いだけなのだ。

(……ごめんなさい)

 お父さん、お母さん。折角生き残ったのに、こんな形で死ぬことを許して。でも、あれからもう十年も生きたんだから、充分でしょう?

 神父様。ブラザー、シスター、教会の皆。何も言わずに逝くことを許して下さい。

 しかし、勢いそのまま、エレベーターに飛び乗ったはいいが、生憎この病院のエレベーターは最上階までしか行かなかった。

(……何の、これしき!)

 何だか分からない気合いを入れると、エレンは非常階段を探した。こんなところばかり、ティオゲネスに倣って頭が回るようになった自分が、少し悲しい。

 程なく、非常階段に続くドアを見つけたエレンは、誰もいないかを軽く確認して、そっと扉を開けた。

 当たり前だがそこは最上階だ。鉄製の階段と手摺りの隙間から、意図せずとも下が見えて、エレンは一瞬身を震わせた。

 だが、ティオゲネスに自分の汚辱を知られたことに比べれば、何ということはない。

 エレンは、視線を上に向けて、階段に足を掛ける。程なくして登り詰め、辿り着いた屋上は、ヘリポートを兼ねているようだった。

 よって、柵はない。飛び降り自殺志願者にはお誂え向きだ。

 ゴク、と喉を鳴らして、一歩踏み出そうとしたその時、不意に後ろから肩を捕まれて、エレンは悲鳴を上げた。

『エレンちゃん、落ち着いて、あたしよ!』

『……へ?』

 もう何故泣いているのか分からなくなった涙目で見上げると、そこにいたのは確かにアレクシスだった。

『あ、れく、さ、』

『あなたがエレベーターに乗るのが見えたから追っかけて来たけど……こんな所で何するつもりだったの』

『ッ……』

 まさか、自殺するつもりでした、なんて言えない。言えないが、出ない言葉の代わりに、見る見る内に涙が目の中に溜まって頬を伝う。

 パニックが頂点に達して、エレンはアレクシスの腕の中に飛び込んで、身も世もなく泣きじゃくった。


***


「――その後、本っ当大変だったんだから」

 肩を竦めたアレクシスは、溜息を吐いて、手を広げた。

 彼女が言うには、そのままアレクシスの家に転がり込んだエレンは、ほぼ三日三晩泣き明かしたと言う。泣き疲れたのか、その後二日ばかりはぼんやりと過ごし、残りの五日は死ぬ死なないでアレクシスと問答していたらしい。


『――どうしてエレンちゃんが死ぬ必要があるのよ』

『アレクさんには分からないんです! ティオに……ティオにあのことを知られました!』

 勿論、アレクさんが強要した訳じゃないし、あたしの判断で話したんですけど! と八つ当たりのように叫んで、エレンは続ける。

『でも、やっぱり耐えられない! 彼に、この先ずっと、男にだらしない尻軽女だと思われて生きてくなんて……やっぱり死んだ方がマシです!!』

 意に染まぬキス一つでここまで考えられる辺り、今時貴重な純情娘だ。否、貴重というより、希少価値モノである。

 アレクシスは、ふむ、と考え込むと、『じゃあ、ティオに軽蔑されてないと分かればいいの?』と試しに問いを投げ掛けてみた。

『……へ?』

『あたしはエレンちゃんに死んで欲しくないの。多分、ティオも同じ気持ちだと思うな』

『嘘』

『嘘じゃないわよ。だから、エレンちゃんが生きる為に……んー、それじゃ語弊があるか。そうね、“生きてても良い”って思える為にはどうすれば良いかを考えましょうよ。今までのエレンちゃんの言い分を総括すると、ティオに軽蔑されてなければ生きててくれるんでしょう?』

『……それは……』

 エレンが、目をウロウロと彷徨わせる。

 この様子では、どうもそれだけではないらしい。そう気付いたアレクシスは、ベッドに座ったエレンの隣に腰掛けた。ちなみに、この時二人は、アレクシス宅の寝室にいた。

『――あのキスが忘れられない?』

 そっと問い掛けると、エレンはピクリと身を固くした。

『……は、初めて、だったんです』

『そうね』

『なのにっ……ああやだ。こんな唇切り落としちゃいたい』

『落ち着いて。医学的に唇がなくなったら、結構キツいと思うわよ。あたしも詳しくないけど』

『気持ち悪い……ッ』

『うん、分かる』

 アレクシスは、抱き寄せたエレンの肩を宥めるように(さす)った。

『死にたい……もうあの記憶があるだけで死んじゃいたい』

 何で記憶が残ってるんだろう。いっそ全部忘れちゃえば楽になれるのに。

 エレンが、丸で時間を逆行したようにブツブツと呟く。あの事件の直後も、やはり彼女は同じように繰り返していた。せめて、あのキスの記憶さえ消えてしまえば、と。

『……エレンちゃんに恋人がいれば、もうちょっと前向きに解決できるんだけど』

『へ?』

『そういう時はね、好きな人に上書きして貰うの。そうすると、ちょっとはショックが和らぐらしいわ』

『こっ、こっ、恋人なんて、そんな、』

『でも、意中の彼はいるわよね。正に、あなたが“軽蔑されたら死にたい”あの子だと思うんだけど』

『~~~~ッッ……』

 だから、そんなんじゃない、確かに認めるような発言はしたかも知れないけどそうじゃなくて、と言い訳を並べる彼女に、アレクシスは『うんうん、分かってるから』と本当に分かっているのかいないのか、疑わしい返事をして、エレンの肩をポンポンと叩いた。

『じゃあ、とにかくティオの気持ちを確かめるトコから始めましょっか』


 斯くして、ラッセルをも巻き込んだ盗聴作戦――(もとい)、“ティオゲネスに本音を吐かせよう作戦”は敢行されたのだった。


「……おい、ラス」

 一部始終をアレクシスから聞き終えたティオゲネスは、ジロリとラッセルを睨め上げる。

「はい、何でしょう」

 地を這うような少年の声音には、思わず敬語で答えてしまうような迫力があった。

「さっき、あんた何つってたっけ?」

「何、と言いますと」

「ディンガーの件で俺を騙してたコトに関して、“お前の身内としては謝るけど、警官としては謝る訳にいかねぇ”って言ったよな。その理由が、確か“職務だから”って聞いたよーに思うけど」

「仰る通りで」

「じゃ、今のは何だ。職務か、プライベートか?」

 プライベート。そう、紛れもなくプライベートだ。それは、ラッセルにも分かっているのだろう。だが、それを口に乗せた瞬間、命がなくなるかも知れない恐怖に、彼の顔は引き攣っている。

「あんたも悪運強ぇなー、ラス。俺は今、全く持って本調子じゃねぇんだ。踏ん張りも利かないから、殴るにしても大して威力は出ないだろうぜ」

 結局殴るのか。てか、殴るだけで済ませてくれるのか。

 安堵と恐怖がない交ぜになった表情で見下ろすラッセルに、ティオゲネスは満面の笑みを浮かべた。

「心配すんな。全快したら、ちゃーんとその土手っ腹に風穴開けてやっから」

 八分音符が語尾に付いていそうな、それは楽しげな口調と裏腹に、目だけが笑っていない。容貌がなまじ整っているだけに、その笑顔は怖過ぎた。

「……ティオ、もうその辺にしといたら……」

「エレンは黙ってろ」

 それまで俯いたまま口を閉ざしていたエレンが、見兼ねたように止めに入るが、勿論そのくらいで追及の手を緩めるような少年ではない。

 しかし、エレンとティオゲネスの間で会話が成立したのを見計らったように、アレクシスがラッセルの腕を引っ張った。

「え、おい、アレク?」

「待てよ! まだこっちの話は済んでねぇぞ!」

 戸惑ったようにラッセルが彼女に視線を向け、ティオゲネスがチンピラのような口調で追い討ちを掛ける。

 けれども、アレクシスは動じない。ラッセルの背を病室の外へ向かって押し出しながら、にっこり笑ってティオゲネスを振り返った。

「じゃ、後は若い二人でごゆっくり」

「見合いかよ!!」

 絶妙の間合いで突っ込むと同時に、無情にも扉が閉じられた。


***


「ちょっ……おい、待てって、アレク!」

「何?」

 半ば強制的にアレクシスに押し出される形でティオゲネスの病室を辞したラッセルは、彼女の掌に背を押し付けるようにして抵抗しながら、顔だけを彼女に向ける。

「いいのかよ、あのまま二人にして来て」

「いーのよ。あそこまでお膳立てしてやったんだから、後は自分達で解決するでしょ」

 あそこまで、と言っても、ラッセルにはまだ一抹の不安があった。

 何と言っても、あの二人は互いに頑固だ。こうと決めたら意地でも意思を曲げようとしない。ふわふわして見えるエレンにも、残念ながらその嫌いはある。

 それでもエレンは、孤児と言っても、普通の一般人としての生活が長いから、話の持って行き方によっては、まだどうにかなりそうな気はする。

 面倒なのは、ティオゲネスの方だ。

 彼に関しては、今までは年の割に冷めた少年だという印象があったが、エレンが重傷を負って以後、どことなく変わった気がする。

 あの少年が育ってきた環境を考えると、その変化は寧ろ喜ばしい、とラッセルは思う。その辺りは自覚させると、彼の場合、妙な方向にヘソを曲げてしまい兼ねないので、言うつもりは更々ないのだが。

 ともあれ、彼らは互いの感情が互いに向かっているというのに、相手のそれに気付いていないのも問題だ。しかも相手を思いやり過ぎて、自分の気持ちを無理矢理封じ込めようとしている。

 大方、二人共、相手に気持ちを打ち明けるつもりはない、といったところだろう。

「……おれから見りゃ、進展するモノも進展しねぇ、って感じがするけどな」

「そお? でも、さっきあたし、事情説明過程でサラッとエレンちゃんの気持ちに関してはゲロっちゃった気がするけど」

「え」

 ラッセルは固まった。

「……それ、流石にマズいだろ」

「うん、気付いてればマズいわね」

「まさか、気付いてないとでも?」

「さあ、どうかしら」

「どうかしら、じゃねぇよ。相手はあのティオだぞ?」

 どう考えても、希望的観測だ。それでなくとも、ティオゲネスは、観察力が同年代の少年と比べると半端ではない。

 であればこそ、ここまで生き残って来れたとも言えるのだ。

 しかし、アレクシスはケロリとしたものだった。

「いいんじゃない? ティオなんて、相手の気持ちが分かってないと、絶対動かなそうだもの。まあ、今のあの子じゃ、相手の気持ちが分かってたら余計に頑なになり兼ねないかも知れないけど……」

 それが分かってて何してくれちゃってんだよ。女って怖ぇ。

 ラッセルは、開いた口が塞がらない(てい)で、アレクシスを見下ろす。すると、彼女はそれまで面白がるような表情をしていたのが、一転、真顔になってラッセルを見つめ返した。

「エレンちゃんは、気持ちを受け入れられなければ死ぬ瀬戸際なのよ。そこも分かってるわ、あの子なら」

「だからって」

「いい加減、幸せになってもいいじゃない。あの子も」

 フイと視線を逸らしたアレクシスは、ラッセルに背を向けて先に歩き出す。

「前に、あの子にも言ったコトあるけどね。何だかあの子、エレンちゃんが死に掛けてから、自分の命を軽んじるようになった気がするから」

 自分の幸せもね、と挟んで、顔だけこちらに向けた彼女は続ける。

「自分が不幸になるのが義務だとでも思ってるんじゃないかしら。そんな必要ないのにね」

 そう思わない? と訊かれて、ラッセルは苦笑する。

「……だな。前はアイツ、自分の命が一番だったのに」

 そこだけ聞くと、身も蓋もない上、怪しからん自己中に思えるが、ティオゲネスの幼少期を鑑みれば、当然の帰結だっただろう。

 勿論、『仕方ない』で済むことかどうかは微妙なところだ。

 けれどそれでも、彼が不幸になる義務などない。彼だけでなく、ヴェア=ガングにいた子供達全員に言えることだ。――あの、セシリア=レアードにさえも。

 幸せになっていいんだぞ、お前も。

 病室を振り返り、胸の内でそう語りかけたその時、ボトムのポケットに入っていた携帯端末が震えた。

 メールの着信だったらしく、バイブレーションはすぐに収まる。画面をタップすると、差出人はCUIOの本部長だった。

(……『すぐに、連絡をくれ』?)

 内容を確認して眉根を寄せると、アレクシスが「どうかした?」と問うた。

「いや、本部長からメールだ。ちょっと、掛けてくる」

 端末を示して、ラッセルは足早に通話可能区域へ向かった。


***


(……どうしよう)

 病室にティオゲネスと二人取り残されたエレンは、次に取るべき行動が分からず、閉じられたドアを見つめた。次いで、ティオゲネスを盗み見るように、チラリと視線を投げる。

 同じようにドアを見て、溜息を吐いた彼は、こちらの視線に気付いたのか、目を上げた。翡翠の瞳と、エレンの若草色のそれが、カチリと音を立てたようにして噛み合う。

「……座れば?」

 ティオゲネスは、肩を竦めると、室内にあるテーブルセットに向けて顎をしゃくった。

 彼自身はと言えば、カツカツと杖の音を立てて、ベッドへ歩み寄る。その足取りは、すっかり慣れたものだった。あれから十日程しか経っていない筈だが、杖を使っての歩行をもう自分のモノにしている。

 エレンとは、意識不明でいた期間が違うと言われればそれまでだが、エレン自身は、松葉杖で歩けるようになるのに、一ヶ月弱掛かった。それも、ただ歩けるようになった“だけ”で、足取りはかなり辿々しかったと記憶している。

「何見てんだよ」

 感心したように見ているのに気付いたのか、ティオゲネスが冷めた眼差しを向ける。

 その時、既に彼はベッドに腰掛けていた。

「あ……その」

 歩くのが巧いのね、なんて言えば、呆れられるに違いない。咄嗟に他のことも思い浮かばず、エレンは無意識にスカートを握り締めて俯いた。

「お前さ」

「え」

 沈黙が続くと思っていたのに、不意に話し掛けられて、エレンは反射的に顔を上げた。

「本気で俺があんなコトくらいでお前を軽蔑する、とか思ってた訳」

 冷ややかな翡翠の瞳に萎縮する。

「だ、だって……」

 今だってあんたは軽蔑してるじゃないの、とはとても口に出せる雰囲気ではない。

 再度俯いた視線の先に、自分の爪先があるのも、ぼんやりとしか認識されなかった。

「そんなの、一方的にアイツが悪いに決まってるだろ」

「え?」

 吐き捨てるように言ったティオゲネスに、エレンは目を瞬いた。

 顔を上げると、彼の横顔が視界に映る。その横顔には、何に対するものか分からない怒りの色が宿っていた。彼がそんな風に感情を露わにするのも珍しい。

「あのクズヤローが一方的にキスして来たからって、別にお前は汚れちゃいねぇし、そんなの数の内に入らねぇよ」

 だから気にすんな、と続けられた一言に、エレンの気持ちは何故かささくれ立った。

 本当は、安堵すべき場面の筈なのに。

 彼は、気にしていないと言った。エレンを汚れていないと言ってくれた。ならば、いいではないか。だのに、一方で、それが何か気に入らないと呟く自分がいる。

「……じゃあ、嫉妬もしてくれないってコト?」

 無意識に滑り出た声は、いつもよりずっと低い。

「はあ?」

「あたしが誰とキスしようが、ティオには関係ないっていうコトなの?」

 ああ、違う。こんなコトが言いたいんじゃない。

 そう思うのに、一度理性を乗り越えた感情は、どんどん制御不能に陥っていく。

「ティオにとってあたしは女じゃないから、他の誰と付き合おうとキスしようと気にしないってコト?」

「それは、ッ……」

 反射で何か言い掛けたティオゲネスは、空気を呑んだように口を噤んだ。

 何かに怒ったような表情は相変わらずだったが、何かを言い淀んでいるようにも見える。気まずい沈黙が落ちて、エレンは益々苛立った。

「言いたいコトがあるならはっきり言ってよ!」

 叫んだ直後、気まずさは更に増大する。

(違う)

 別に、あたしは告白もしてない。彼に女として見て欲しい訳でもない。でも、嫉妬すらしてくれないのが悲しい。

(何なの、これ)

 自分で自分の気持ちが分からない。こんなことは初めてだ。

 いつしかぼやけ始める視界に慌てる。

 思わず、その場から逃げ出そうとしたエレンの足を、遠くから響いた破裂音が止めた。

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