Hospital.2 悪意無き策略
「……お前さぁ。何かあった?」
そんな風にラッセルから訊かれたのは、エレンが訪ねて来てから十日程経った、リハビリを終えた後のことだった。
事件が一段落して、左腕に負った銃創の手術を終えた後、ティオゲネスは頭部に埋め込まれてしまった発信器をどうにかして欲しいと相談していた。その除去手術を受けたのは、相談から数日後だった。セシリアにも同じものが埋め込まれている筈だ、とラッセルに報告したが、彼女の方がどうなったのかは知らない。
一方、エレンには何も報されていなかったらしく、彼女は事件後、ティオゲネスが丸々三週間、ずっと意識不明だったと思っていたようだ。
実際、ほぼ三週間寝たきりだったティオゲネスは、衰えた体力と筋力を戻すのに、少々手こずっていた。頭部の手術がやや難しい部類に入るとは聞いていたものの、まさか現実逃避するかのように二週間も意識が戻らなかったのには、我ながら呆れた。
しかし、元々鍛えた身体だったのが幸いして、杖を突きながらではあるが、歩けるところまでは回復している。医師に言わせれば、かなり驚異的な回復速度だそうだ。
流石にまだ走ったり、高い塀を飛び越えたりは些か心許ないし、左腕も完治していないので肩から吊った状態なのだけれど。
『今誰かに襲われたら、一撃であの世往きだろーな』
その日のリハビリ後、病院内にある喫茶店で、丸テーブルを挟んで向き合ったラッセルに、縁起でもない一言を放った直後、言われたのが先の台詞だった。
「何か、って……別に何も……」
視線が思わず下を向く。ラッセルの奢りでオーダーしたアイスティーを、突っ込んだストローで意味もなく掻き混ぜた。
「エレンちゃんとは、あれから逢ってないのか?」
「だから、アイツは関係ねぇってば」
反射で、十日前、泣きながら走り去った彼女の姿が脳裏に再生されていた所為か、エレンの名前を出されると過剰に反応してしまう。
しまった、と思った時には既に遅い。ソロリと上げた視線の先にいたラッセルは、案の定、面白がるような笑みを浮かべていた。
「何ムキになってんだ?」
「別に……ムキになってなんか」
フイと視線を逸らすと、ティオゲネスはヤケクソのようにストローをくわえる。
「エレンちゃん、もう知ってんだろ。お前の素性」
「らしいな」
あっさりと返せば、ラッセルは微かに目を瞬いた。
「……らしいなって、直接聞いた訳じゃないのか」
「直接聞いたよ。誰から教えられたかまでは知らねーけど」
「アレクが話したみたいだぜ。で、エレンちゃん、何て?」
言われて、十日前の彼女の様子を思い出す。クス、と苦笑と嘲笑の合間のような笑いが漏れた。
「それがさ、おっかしーんだ。今更、俺が過去にやったコト、どうこう言われてもピンと来ない、だとさ」
「彼女らしいな。他には?」
「んー……組織にいたのは俺の所為じゃない、とか、こういう価値観になったのは仕方ない、とか……あ、後、一般人でも価値観が違うのは当たり前だとか何とか言ってたな」
ラッセルが、遂に軽く吹き出した。
「……ッッ、益々彼女らしいな」
そんなのキレイゴトなのに、と続きそうだった台詞は呑み込まれたが、ティオゲネスにはそれがよく分かった。
確かに、組織に引き取られたのはティオゲネスの責任の範疇外だったし、そこで育てば一般常識からズレまくった価値観が培われるのも不可抗力だ。
だからと言って、今後、一般常識との摺り合わせがうまくいくかどうかは分からない。
勿論、これからは表社会で生きていかなければならないし、ティオゲネスなりに努力もしているつもりだ。けれど、自身と一般社会との価値観のズレは理解できても、それに合わせられるか、もしくは納得できるかは別の問題だった。
彼女への気持ちを自覚しても、彼女の全てを理解できる訳ではないのと同じように。
「で? その後彼女は?」
「あれから来てねぇから知らねぇな」
ストローでアイスティーを掻き混ぜれば、氷がぶつかり、カラカラと涼しげな音がする。
「……本当に転院するつもりなのか」
「ああ。リハビリが続けられて、CUIOの息が掛かってればどこでもいいから」
手続きは進めてくれてるんだろ? と首を傾げるようにして問えば、ラッセルは複雑な表情で頷いた。
「ただなぁ。この病院がCUIO傘下ん中じゃ一番設備が整ってるから、完治するまではここにいた方がいいと思うぜ、おれは」
「左腕さえ完治すりゃ、後は筋力を戻すだけだし、問題ねぇよ。俺だって、CUIOを全面的に信用してる訳じゃねぇけど、今はちょっと何かあった時に不安があるし」
完治するまでの臨時戦力として利用したいだけだから、と続けて、ティオゲネスはアイスティーを啜る。
「……それはそれとしてさ。俺、今回の件で人間不信がぶり返りそうなんだけど」
ジロリと見上げると、ラッセルはばつが悪そうに眉尻を下げた。
「……悪かったってば。ヴェア=ガング事件がまだ完全に終息した訳じゃねぇのはお前も知ってるだろ。事件はまだ捜査も続いてるけど、根本的な人手不足でさ」
「それにしたって、最初の手入れから五年だぜ? 俺、その間ずーっとあんたに騙されてた訳だろ」
聞けば、ルイスが昏睡状態になった一件が起きた四年前に、ディンガーを匿い、死亡扱いにしたのは、他ならぬラッセルだったらしい。
彼は、“ヴィダル”という偽名でディンガーに近付き、少しでも多くの残党を捕らえる為、網を張っていたという。謂わば、おとり捜査のようなものだ。
おかげで今回、最大の危機を回避できたのだから、何とも皮肉な話ではある。
「お前を騙せてたなら、おれの演技も助演男優賞モノだな」
「そーいうコト言ってんじゃねぇよ」
「だから、謝っただろ。敵を欺くにはまず味方からって言葉もあるし」
それに、と挟んでラッセルは真顔になる。
「お前の身内としては謝るケド、警官としては謝る訳にはいかねぇ。職務だからな」
普段、事件後報告や、オフレコ情報を流されたりしているからすっかり線引きがあやふやになっているように思えるが、こう見えてラッセルも付けるべき公私の最低ラインはきっちり守っている男だ。
『職務』という単語を持ち出されると、ティオゲネスも何も言えなくなる。それは即ち、この先も同様のことをするかも知れないが、それも謝罪はできないと言われているも同然だった。
「ところで、話戻すけど」
「何」
「本当に転院するのか?」
終わったと思っていた話題を持ち出されて、ティオゲネスはうんざりしたように溜息を吐く。
「だから言ったろ。左腕さえ完治すれば」
「それは転院したい理由じゃないだろ」
同じ台詞を繰り返そうとするが、ストレートに遮られたティオゲネスは、言葉を押し戻されたように瞬時息を呑んだ。
「まあ、大体想像付くけど」
沈黙を返されたラッセルが畳み掛けると、ティオゲネスは小さく舌打ちした。
「想像付くならわざわざ確認すんなよ」
「お前が後悔しないなら、こんなコト言わないさ」
ラッセルは真顔のまま、真っ直ぐにティオゲネスを見た。琥珀の瞳と、ティオゲネスの翡翠が、暫し火花を散らすような鋭さで交錯する。
睨み合いが続くかに思われたが、先に目を逸らしたのはティオゲネスの方だった。
「……余計な世話だよ。後悔するもしないも、今更だ。アイツだって、もう俺と逢いたいと思ってねーだろーぜ」
現にあれからいっぺんも逢いに来やがらねーし、と続けて、再度意味もなくアイスティーを掻き混ぜる。既に、殆ど氷は溶けていた。
「やっぱり何かあったんだろ」
「別に。アイツも俺に言いたくなかったコト、暴露したってだけだよ」
「言いたくなかったコト? エレンちゃんが、お前にか」
「ああ。内容は言わねぇ。そういう約束だから」
「エレンちゃんとのか」
「それも言わねぇ」
投げるように言って、ストローをくわえる。
薄くなった紅茶を飲み下すティオゲネスの脳裏には、アレクシスの言葉が再生されていた。
『あたしから聞いたって、絶対言わないでね。エレンちゃんだけじゃなく、他の誰にも』
エレンが言い出すまでは、無理矢理聞き出さないとも約束した。
だから、約束通り黙っていた。けれど、彼女があの男に強引にキスされたことなんて、とっくに知っている。
『あたし、あの人とキスしたわ。軽蔑でも何でも、好きにしなさいよ!』
(……ホント、バカだよな、アイツも)
仮に、今初めて知らされたとしても、そんなことくらいで軽蔑なんかしないのに。もっとも、今になって初めて聞かせる話にしては、彼女も言葉足らずだ。下手をすると、“あの人”が誰だか分からない可能性もある。
いずれにせよ、キスを強要されたことは、彼女の責任ではない。性犯罪には全体的に言えることだが、先の件で言えば、あの男が一方的に悪いのだ。彼女が望むなら寧ろ、イェルド=エーデルシュタインの死刑を本当に前倒ししてやったっていいと思っている。
(ま、俺が実行するって言ったら、アイツは止めるだろうけど)
自分が被害を受けたとしても、命だけは奪ってはダメ、というのが、彼女の言うところの、“社会ルールの基礎”らしい。
頭では分かっていても、あんな組織で育った弊害なのか、今でもたまに理性が利かなくなる時がある。勿論、それはティオゲネスの場合、自分や周囲の人間に危害が及ぶ時限定ではあるが、その辺りが、彼女と自分の永遠に相容れない部分なのだろう。
「ティオ」
「んあ」
いつの間にか思索に耽っていたティオゲネスは、不意の呼び掛けで現実に引き戻され、思わず間抜けな声を出した。
「本当にこのまま彼女と離れていいのか」
「しつこいな」
「今の内に言っとくケド、意地だけは張るなよ。本気で後悔するぞ」
「ッ……」
だからいいんだって、と言おうとしたが、音にはならなかった。
「……だって、離れるしかねぇだろ」
それでも、半ば自身に言い聞かせるように絞り出した声音は、普段よりずっと低くて掠れていた。
「俺はもう引退したつもりでいても、奴らが俺を――俺らを放っとかない。俺だけじゃない、ヴェア=ガング出身の連中、全員をだ。それは、こないだの件より今回の件で、本当によく分かった」
よく分かった、なんて生温い。骨の髄に滲みるよりも深く刻まれたと言った方が正しい。
「俺だけならいい。奴らが押し寄せる度に撃退すれば済む。返り討ちにできなくて死んだとしても、俺は文句を言う資格もねぇ。それが報いだから」
分かっている。アマーリアを殺して生き延びたのも、ほんの少しの延命措置でしかなかったことは。
いつしかテーブルに置いていた拳を、ギリ、と爪が食い込む程に握り締める。
「だけど、俺が狙われるってコトは、周りを巻き込むってコトだ。俺が言う通りにしたって奴らは手を引かない。俺を飼い慣らしておく為に、永久に俺の周りの人間に銃口を突き付け続ける」
そして、場合によっては傷付け、引き金を引き、殺してまた言うことを聞かせようとする。
「もう、沢山なんだよッ……!」
撃たれる直前、泣き喚いていたニコライの顔が浮かんで、握り込んだ拳をテーブルに叩き付ける。
ガシャン、と派手な音が上がって、アイスティーのグラスが引っ繰り返った。残っていた紅茶がぶち撒けられ、喫茶店にいた他の客がこちらを注視するが、気にもならない。
どうしたのかと伺いに寄ってきた店員を適当にあしらったラッセルが、こちらに視線を戻す。
数瞬、間を置いた彼は、出ようぜ、と言ってティオゲネスを促した。
肩に彼の手の温もりを感じた瞬間、その場の惨状に我に返る。ばつの悪い思いで、周囲の視線から逃れるように目を伏せると、杖に縋るようにしてノロノロと立ち上がった。
こんな時、機敏に動けないのが、どうにももどかしい。
会計を済ませるラッセルを置いて、ティオゲネスは一人で歩き出した。だが、当然ながら普段程のスピードは出ない。
気持ちばかりが焦って、途中で見事にすっ転ぶ。苛立ちのままに叩き付けようとした杖が、大きな音を立てる寸前で誰かの手に受け止められた。
「はい、そこまでな」
「え、ちょっ」
言うや、ラッセルがヒョイと杖を取り上げ、空いた手でティオゲネスを肩に担ぎ上げる。
「おい、ラス!」
自分で歩ける! と暴れようとするが、ラッセルは手を緩めない。
「爆発するなら、個室か屋上で好きなだけやれや。ここでやらかすと、あちこちに迷惑だからな」
静かに諭されてハタと気付くと、通路にいる全員――喫茶店は外来口にも近い為、その割合は九割が外来患者だろう――の視線を集めている。衆人環視の中、この年で荷物のように担ぎ上げられて連行されるなんて余計に恥ずかしい。とは思ったが、既に一度爆発した為、それ以上文句を言うことはできなかった。
ラッセルの背中側に、腰から折り曲げられて頭が逆さになっている所為か、殊更熱が顔に集中している気がする。さっき無駄にぶち撒けた冷たい紅茶が、無性に恋しかった。
「――で、部屋と屋上、どっちでやる?」
爆発の続きを、ということだろうが、まだまだギャラリーに注目されていると認識できている今の状況で、程良く脳内はクールダウンされてしまっている。
「……もういい。部屋に帰る」
だから下ろせ、という訴えは、〇・一秒で却下された。
「だーめ。お年頃のティオゲネス君は、油断するとすぐ沸騰しちゃうみたいだから、お兄さんが責任持って病室まで送り届けマス」
「誰が“お兄さん”だよ、三十代の折り返し地点過ぎたオヤジが図々しい」
「あれれ、そーいうコト言うと、この先、人目に立つトコ姫抱っこで移動になるけど、いいのかな?」
「~~~~ッッ!! ッの、給料ドロボーが!」
口で勝てない悔し紛れに、無事な右手を力一杯、彼のウェストの辺りに叩き下ろす。が、ラッセルは短く呻いただけで足を止めなかった。
***
「さーて、どこに下ろしましょうか、お姫様」
数分後、病室に到着するなりラッセルがこんなことを言ったものだから、折角冷めていた脳内は、あっさり再沸騰した。
「ざっけんな! ラス、てめぇ、組織の連中より先に殴り倒すぞ!」
「やれるモンならやってみな。杖の補助付きでやっと歩けるようになったばっかのクセに……って、頼みの杖もおれが預かってたんだっけ?」
とことん口で勝てない流れに、ティオゲネスは更にヒートアップしていく。
「いーから、とっとと下ろしやがれ、若作り!!」
「誰が若作りだ、女男」
「うるせぇ! それ以上言いやがったら、マジで脇腹ぶち抜くぞ!!」
言い争いが、低レベルで且つ危険な空気を帯びてきた、その時。
「……その辺にしときなさいよ、近所迷惑だから」
消火、と言わんばかりの冷ややかな声が投げ込まれる。
どうにか視線を上げると、ラッセルもその声の主を確かめようと、クルリと後ろを向いた。必然、肩に担がれたままのティオゲネスは、強制的に方向転換させられ、再度苦労して声の方へ顔を向ける。
扉に凭れるようにして立っていたのは、すっきりとした体格の女性だ。
「……アレク?」
「久し振り。元気そうね、身体以外は」
キョトンとした声音で呟いたティオゲネスに、アレクシスは微笑を浮かべると、ヒラリと手を振った。
「でも、いつも以上に満身創痍って感じよね」
「筋力が低下してるだけだよ。後、左腕がまだちょっと使い物になんねーだけ」
ラッセルの肩に担がれたまま、彼女と言葉を交わす内、頭は徐々に冷える。
「おい、ティオ。もう下ろしていいか? そろそろいい感じに腕が痺れそうなんだけど」
「勝手に担いどいてよくゆーぜ」
ラッセルから見えない角度にある顔の中で、呆れたように目を細めた瞬間、頭の向きが元に戻って足が地に着く。
「っと……」
ふらつきそうになったのを、さり気なくラッセルの手に支えられるのが若干癪だったが、もうそれは口にしなかった。
無言で渡された杖を受け取って、右手に輪の部分を装着する。
「……確かに今何かに襲撃されたらヤバいわね」
腕組みしたアレクシスがポソリと呟く。
「だろー、……って、何でアレクがその話知ってんだよ」
すると、彼女は悪戯っぽく笑って、無言で指先に摘んだ何かを示した。
「……通信機?」
荒事込みのミッションで目にする、イヤーカフ型のそれだ。
何でそんなもの、と言い掛けた時、ラッセルがこれまたニヤリと唇の端を吊り上げながら、自身のジャケットをめくって見せた。そこには、小型のマイクがひっついている。
「盗聴してたってコトかよ、シュミ悪ぃな。でも、何でわざわざ……」
「そろそろ出てきたらどう?」
アレクシスは、思わず眉根を寄せたティオゲネスの疑問の言葉を遮るように、どこへともなく呼び掛けた。
え、と瞬時目を瞠って、彼女の視線を辿った先には、出入り口がある。そこから怖ず怖ずといった様子で顔を覗かせていたのは、エレンだった。




