Prologue
(……またここか……)
目を上げて、思う。
誰もいない。何もない。ただ、白くて広い空間に、足跡のように赤い斑点が落ちた道だけがある。
鉄錆びた臭いのする――ある意味、馴染んだ場所だ。
『ティオ』
不意に、背後から声を掛けられて、振り向く。
そこには、予想に違わない、親友の姿があった。けれども、今日の彼女は、眉間と胸部から血を流してはいない。
肩先に掛かる程度の亜麻色の髪に、亜麻色の瞳の彼女は、今日は白いワンピースに身を包んでいる。この空間に、その白が溶けてしまいそうだ。
「……あんたか」
クス、と漏れた苦笑と共に、彼女を見つめる。
彼女の最期は、未だに脳裏に灼き付いていて、離れることなどない。たとえ、普段は忘れていても、忘れた頃合いを見計らって、彼女の方から忘れないように念押しに来る。
「今日は、“あの姿”じゃないんだな」
彼女の眉間と心臓に、無情にも弾丸を叩き込んでその命を絶ったのは、他でもないティオゲネス自身だ。
彼女から会いに来る時、彼女はいつでも、最期の姿だったのに。
『それは、あんたの罪の意識でしょ』
すると、まるで思考を読んだかのように、彼女が苦笑する。
「忘れられねぇだけだよ。それとも、あんたは忘れてもいいってのか?」
俺が、あんたを忘れて幸せになってもいいのか。そんな筈はないだろうに。
だが、彼女は苦笑のような、痛みを感じているような微笑を浮かべて、首を振った。
『あんたの不幸をなんて、望んだコトはないわ』
「そんな訳ねぇだろ」
絞り出すように言うと、彼女の表情に、微かに険が宿る。
『決め付けないで。あんたはあたしじゃないのよ』
「だけど」
『じゃあ訊くけど、逆の立場なら、あんたはどうした?』
「え?」
『あんたが、もしあの時逆の立場なら、何を思った? あたしを撃たなかったら、二人共死んでた。なら、あんたがあたしの立場なら、何を考えると思う?』
「それは」
言うまでもない。
もしあの時、ティオゲネスの方がアマーリアに銃口を向けられていたら、迷わず引き金を引いてくれと念じただろう。
目の前で彼女が撃たれた後、自分もあの教官の手に掛かって死ぬなんて、死んでも死に切れない思いを味わうに違いない。それくらいなら、せめて彼女にだけは生きていて欲しいと。
それに、それまでにだってもう、数え切れない程人を殺していた。
だから、きっと碌な死に方はしないと、漠然と思っていた。今でも、当時よりもっと明確にその思いはある。
もし、誰かの手によって殺されるとしたら――彼女の手に掛かるなら、きっと本望だっただろう。
『あたしも同じよ』
すると、それを声に出さないのに、やはり心を読んだかのようなタイミングで言われる。
『どうせ誰かに殺されるなら、あんたの手に掛かって死ぬのは嫌じゃなかった。仕損じるコトだけは絶対ないって、寧ろ信用してたんだから』
「アマーリア……」
けれども、これは夢だ。それは分かっている。
ならば、このアマーリアも、自分が作り出す幻影に過ぎない。赦されたくて、楽になりたくて見ている、自分に都合のいい幻だ。
そんな思考を知ってか知らずか、アマーリアはニコリと笑った。彼女が小首を傾げると、その動きに従って、ストレートの亜麻色の髪が、サラリと揺れる。
あの時から年を取ることのないその姿は、既に見下ろす位置に顔があった。
『――ホラ、行って?』
「え?」
行くって、どこに?
彼女の指先に導かれて、視線を泳がせる。その先には、ガラスの向こうから心配げにこちらを見つめている、エレンの顔が見えた。
だが、彼女からはティオゲネスの姿は見えていないらしい。
と、認識した途端、周囲は白い空間ではなくなっていた。
最初に耳に飛び込んで来たのは、規則正しい電子音だった。
室内は、薄暗い。
十メートル四方程の室内には、ベッドと医療器具と思われる機械が所狭しと並んでいる。いつだったか、エレンが眠っていたICUによく似ていた。
ガラス張りの壁の向こうの方が明るくて、くっきりと外の様子が浮かび上がって見える。
中を覗き込むエレンは、今にも泣きそうな顔をしていた。その彼女の視線の先を、辿るともなしに辿った先にいたのは――
「な、」
――ティオゲネス、自身だった。
恐らく生命維持の為の装置から何本もの管が伸びて、眠る少年の身体に繋がれ、顔には酸素マスクが被せられている。
「……まさか、臨死体験ってヤツか?」
半ば呆れるように漏れた呟きを、聞く人間はいない。アマーリア以外には。
『早く戻らないと死んじゃうってコトはないと思うけどね、今時の医学なら。でも、あの子をいつまであんな顔させとくつもり?』
ティオゲネスは答えられずに、ただ自身の顔と、エレンのそれとの間で視線を往復させる。
「……バカだな」
俺なんかの為に、そんな顔するコトねぇのに。
覚えず、苦笑が漏れる。
『好きなんじゃないの? 彼女のコト』
「……言うなよ」
いつだか、ラッセルに同じことを訊かれた。
訊かれて、強引に自覚させられて、だからこそ彼女の傍を離れることを選んだ。彼女の、幸せの為を思ってこその選択だと、思っていたのに。
「……ちょうどいいから、もうこのまま連れてってくれねぇか」
肩を竦めて言うと、アマーリアは瞠目した。
『……どういう意味』
「言葉通りさ。もう、俺なんか死んだ方がいいのかも知れない」
そうしたらきっと、彼女ももう自分に振り回されずに幸せになれる。
諸悪の根元は、ティオゲネスが“生きて”いることだ。
生きているからこそ、ヴェア=ガングの残党みたいなのが群がって来るし、その為にエレンやマルタン教会の仲間が不当に人質に取られて危険な目に遭う。
「だから、俺はもう」
『バッカじゃないの!?』
途端、アマーリアの声がキンと尖った。
目を丸くしたティオゲネスの鼻先に、彼女の指が突き付けられる。
『思いっ切り引っ叩けないのが心底残念よ! あんた、ちょっと会わない内に、随分ヘタレたのね!』
「ヘタ、」
って、誰がヘタレだ! と言い返す隙を彼女は与えてくれなかった。
『生きてなきゃ守れないのよ!? あんただって、思い知った筈じゃなかったの!? 傍にいれば守れたのにって、今回何度思ったのよ!?』
思わずムッとした。
「何度も思ったさ!」
気付いた時には、怒鳴り返していた。
「けど、俺が存在してるコト自体がそもそも原因だったんだ! なら、元から絶てば何も起きねぇだろ、違うか!?」
怯んだように息を呑んだ彼女に、ティオゲネスは更に畳み掛ける。
「少なくとも、あいつらには何も起きない。俺さえいなきゃな! けど、ヴェア=ガングはまだ残党がどれくらいいるか分かったモンじゃない。俺がここで死ねば、エレン一人くらいラスやアレクがどうにかしてくれる。いくらでも命を守る方法はあるんだ! 俺だって、こんな状態になってまで“生きたい”って喚く程、この世に執着なんかしてねぇよ!」
目を見開いた彼女は、直後手を振り抜いた。けれども、その手はティオゲネスの頬を素通りする。
『ッ、……あーあ、やっぱりダメかー。まあ、反射で手が出ちゃったんだけど』
カッコ悪、とぼやいた彼女が、今は自身より身長が伸びたティオゲネスを睨め上げた。
『じゃあ、あの時仲良く教官に殺されてれば良かったのに』
「何?」
『だってそうでしょ。あたしを殺してまでこの世にしがみ付いてたクセに、今更簡単に連れてってくれだなんてさ。こんな男の為に死んだんだと思ったら、情けなくて涙も出ないわ』
「ッ……!」
それを言われると反論できなくなる。
そうだ。あの時は、ただ死にたくなかった。死にたくなくて、死ぬのが怖くて、己の命可愛さに、この手でアマーリアを殺したのだ。彼女の命と引き替えに、自分はここまで生きて来た。
『……生きていたからこそ、彼女と出会えたんじゃないの?』
今はお互いに魂のような状態で、触れ合うことはもうできない。だが、そっと頬の部分に触れた、彼女の手には、確かに温度を感じる。
『あたしの命、無駄にしようなんて、それこそ赦さないわよ』
「アマーリア……」
『ホラ、早く戻って』
「でも」
『いつまでもここでグダグダしてたって、解決になんないでしょ』
「アマーリア」
『うん?』
「あんたは……本当に、アマーリアなのか」
俺が作り出した幻じゃなく、本当に、本物の。
アマーリアは、否定も肯定もせず、ただうっすらと微笑する。
『ティオ』
改めて頬に触れた彼女の手が、そこを擦るように動く。
『何泣いてるのよ。今のあたしは、あんたの涙も拭えないんだから』
だから、泣かないで。
言われて初めて、自分が泣いていることに気付く。
「アマーリア……」
『ん?』
「ごめん」
『ティオ』
「ごめん……」
ずっと、謝りたかった。彼女の命を、身勝手な理由で絶ってしまったことを。謝って済むことではないと分かっている。それでも、直接謝りたかった。
謝れば、彼女が生き返る訳ではないのも理解している。つまるところ、やはり自分が楽になりたいだけなのかも知れない。
「俺、最低だな……」
『何言ってるの』
俯けたティオゲネスの顔に、伸び上がるようにして彼女が口吻ける。
『もういいから、自分を責めないで』
「アマーリア」
『それに……あたしも謝らなくちゃ』
「え?」
目を瞬くと、アマーリアは、心底申し訳なさそうに表情を歪めていた。
『あたしがあの時、一緒に逃げようなんて言わなければ……少なくとも、あんたを巻き込まなければ、あんたにあんな辛いコトさせずに済んだのに』
ごめんね、という彼女に、ティオゲネスは「バカヤロ」と返した。ほぼ即答だった。
「一人で黙って消えられたら、それこそ恨んだぜ」
『じゃあ、もう言いっこなしね。お互い様だから』
投げるように言うと、してやったりという表情でアマーリアが唇の端を吊り上げる。
その笑顔に、言葉が詰まった。何と言えばいいのか、分からなくなる。
ただ彼女を見つめれば、彼女はひたすら柔らかな微笑と共に、ティオゲネスを見つめ返した。
『あんたが本当にあたしに対して申し訳ないと思うなら、お願い。もう、自分の意思で死にたいなんて言わないで。二度とよ』
口を開くが、やはり言うべき言葉が見つからない。だが、何か言わなければと思う。これが、本当に最期かも知れないのに。
『……元気で、ティオ。あんたを愛していたわ。あんたはいつまでも、大事な弟よ』
微笑して言う彼女に、クス、と思わず笑いが漏れる。苦笑なのか、自嘲の笑いなのかは、分からなかったけれど。
「俺も」
無意識に、言葉が滑り出す。
「あんたを姉さんだと思ってた」
いや、違う。過去形じゃない。きっとずっと、姉のように思うだろう。それ以上かも知れない。大切で、掛け替えない彼女をこの手に掛けたことを悔やむ気持ちは、生きている限り消えることはない。
それを、言葉にしたか分からなかった。
直後には、いつの間にかティオゲネスは濃い霧に包まれたように、再び一人、白い空間に佇んでいた――




